じぶんの感情や行動は、はっきりと自覚された意識的な部分よりも、子供時代の経験(《内なる子供》)や遺伝的素質という無意識的な部分に支配されている。ポジティブな刷り込みもネガティブな刷り込みもあるが、後年問題となるのはもちろんネガティブな部分である。これによって基本的信頼感が十分に育まれず、自己価値感もまた薄れる。しっかりとした心の支えもないために、常に拠り所を求め、求めては失望することになる。ほとんどすべての問題が、ここから生じているといってもよい。
関係を整理しよう。人間には心の奥深くに根差している物事に対する根本的な考え方(《信念》)がある。たとえば自己や他者に対する信頼感あるいは不信感などに関わる考え方である。これが醸成されるのは子供時代の経験なのであるが、どれがどうと白黒つけられる場合は稀であり、たとえ良い子供時代を過ごしたと思っている人であっても、まったく傷を負っていない人はいない。それぐらい子供というのはまったく無防備に、良いものも悪いものもすべて受け止めてしまう。このような《信念》にもとづき生じる《感情》があり、特に心理的に負担のある感情を抑えるために《自己防衛戦略》を発動し打ち消そうとするが、その防衛戦略による行動が日常生活に問題を起こしている。その反応はほとんどプログラムであり、人間は信念を通して、認識し続ける(信念⇒認識⇒感情⇒行動)。
- さらに構造を見ていくと、著名な心理学者であるクラウス・グラーヴェ(注:おそらくClaus Graweのことだと思われる)は人間の終生変わらない基本的な欲求を次の四つにまとめている。:(1)結びつき欲求、(2)自由欲求、(3)快感欲求、(4)承認欲求。私たちがストレス・苦しみ・怒り・不安を感じるのは常にこの四つの欲求の充足が妨げられているからである。自由欲求はコントロール・支配欲求ともつながりがあり、これは結びつき欲求とのバランスを要求する。このバランスは非常に難しく、誰も信頼できる人なんていないと思うと徹底的に他者を排除した自立へ向かい、逆にこのパートナーがいなくては生きていけないとまで依存し自立を排除する人もあらわれる。また快感欲求があるとはいってもほとんどの場合、我慢しなければならず、自制心がなければ社会的な問題を起こすことは言うまでもない。また、自分のことを承認されなければ結びつくこともできない。……このように四つの欲求には相互につながりがある。
- 一方、遺伝的素養というのはたとえば「内向型」「外向型」のことである。エネルギーを蓄えるのはひとりでいるときか、みんなでいるときか、という違いである。このことはその人がどのような刷り込みを受けてきたかということとは独立している。なにが刷り込まれるかという点も、遺伝的素養によって変わる。だから何が起ころうが傷など負わない子もいれば、ちょっとしたことでショックを受けてしまう子もいる。
- 傷ついた《内なる子供》はその傷ついた時代を今もまだ生きている。
防衛戦略
防衛戦略はネガティブな感情から身を守るために発動する。そして私たちが抱える問題の直接の原因はたいていこの防衛戦略にあるのだ。たとえば「私は愛される価値がない」という信念のために、人と交流しないという防衛戦略をとるとき、孤独という問題が生じる。防衛戦略の基礎は次の二点の認識というもののフィルターにある。世界がそもそもこのフィルターを通して見えるので、いったん自己反省してみないと、何を抑圧し何を投影しているのか自体を認識することができない。
- 抑圧:不快な現実や耐えがたい現実を意識しない すべての防衛戦略の基礎であり、つらい現実を意識しないために、抑圧するためにこそほとんどの防衛戦略があるからだ。
- 投影:自分自身の欲求や感情といった眼鏡を通して他者を認識する これも防衛戦略の基礎。たとえばなんでもコントロールしようとする母親に育てられた人は、誰に対してもコントロールしようとしていると疑いの目を向ける。ポジティブな投影もある。痛みを伴う自己認識を避けるためには、たとえば「自分は愛されない」という信念を処理するために、「あいつは信頼するに値しない感じの悪いやつ」だと決めつける。これは自分の信念を相手の頭に移し替えている。
行動面にあらわれる防衛戦略はわりあい、簡単に気づくことができる。
- 完璧主義(信念:「自分は十分ではない」) そのことに情熱をささげたいからではなくミスしたり認めてもらえなかったりすることへの不安か来る。しかしなにかを達成してもそもそもの信念が修正されないため延々と過大な要求に答え続けることになる。たとえば自己が不安定な人は、自分の容姿に対してその不安定さを投影する。不安よりも具体的に対処することができる。しかしいくら美を追い求めてもそもそもの信念は修正されないし、年齢を重ねるごとにこの戦略は維持できなくなっていく【しかしこの防衛戦略はいずれにしても問題に対処しようとする精神的な強さも表す。「批判される隙を与えない」という目標は立派だが、もっと力を抜いて、同じだけの安心を得られる方法があるかもしれない】。
- ハーモニー志向(信念:「お行儀よくしないといけない」) 拒絶されることから自分を守る防衛戦略。周りの人に認められる経験を、自分を抑えることによって実現する。攻撃性は抑制されているが、「ブチ切れる」よりも、何も言わずにむっとしたり壁を作ったりすることで表現する(受動的攻撃)。調和を保つために行動するため、そもそもの自分の願望がわからなくなっている。実際には自分が望んでいないことまでしてしまうので、相手のことを””加害者””とみなす被害者意識を持ちやすい。【逆にいうと調和の努力を惜しまない、すばらしいチームワーカーともいえる。ただできる限り身をひそめようとしてしまうので、自己主張をしても、自分をさらけだしても大丈夫なことを自分に教えていく必要がある。そうすれば拗ねてしまうよりもずっと楽になる】
- 救世主妄想(信念:「私には価値がない」) 困っていそうな人を助けることで不安をなくそうとしている。善い行いをすることで役に立つ存在なのだと実感しようとする。ただ、成功する見込みのない援助プロジェクトに参加してしまいそこから抜け出せない人もいる。こういう人は明らかに欠けている要素がある人をパートナーに選び、悲惨な状況から救い出そうとしてしまう。ただ、ほとんどの人は救世主妄想者と一緒にいるとむしろ劣等感を感じるため、この戦略はうまくいかない。それどころか、やがてはパートナーを救うどころか離れられなくなってしまう。【人を助けるために多大な労力を払うことは尊敬に値する行為で、適切に処理した問題については多くの人から感謝されている。ただ成功の見込みのないものにまで手を出してしまうのが問題。急いで誰かを助けなくてもあなたは既に価値のある存在なのである】。
- 権力志向(信念:「私は無力だ」) ハーモニー志向者は自分より強い周りの人々に対して従うが、権力志向者は逆に抵抗し相手よりも強い力を手に入れようとする。相手が常に自分をコントロールしようとする存在に見え、良い人間関係を自分から破綻させてしまうこともある。あらゆるものをどん欲に自分のものとする過程で多大な要求を相手に課すものの、むしろ自分は被害者側にいるのだと考えている。また、カオス状態に対して恐怖するコントロール志向もこのバリエーションのひとつで、「管理」することを大事にする。攻撃される不安を他者に投影し、まさにいま襲い掛かってくるのではないかと怯えている。【逆に言うと非常に意思の強い人でまさにその力によって前進してきた。抵抗することは悪いことではない。ただ、この世界は権力志向者が思うほど悪いものではなく、もう少し身を預けてもよい】
- 子どものままでいようとする(信念:「自分は依存している、ちっぽけな存在) 自分自身と自分の人生に対する責任を負わない。我が道を行って自分の無能さをさらけだすぐらいなら、自分を守ってくれる誰かにこうすべきだと言ってもらいたい。相手のもとを離れると生きていけないと感じており、変わらずに子どもでいることで身を守ろうとする。【不安に対処するために自分の信頼できる相手を頼りにできるだけのことを努力している。ただミスすることをあまりにも恐れすぎているのも事実。どんなことであれ自分が下した決定は自分を前進させることを知り、はっきりと理解しよう】
- 逃避(信念:「独りのほうが安全」) 攻撃される危険性をきわめて敏感に感じる人は、ほぼ慢性的に逃避行動を行っている可能性がある。人と関わっているよりも一人でいるほうが自分でいろいろ決められるし自由だとも感じられる。「もう無理だ」と思うと心をオフライン状態にして乗り切ろうとする。こうした傾向のある人は自分の内面と外の世界を区別することができず、他者の感情や気分の責任が自分にあると考え、人付き合いにきわめて強いストレスを覚える。人間関係はストレスであり、親密な関係は不自由となる。期待に応えるように常に求められるような気がするからだ。【逃避は意味のある行動であり、健全と不健全の差は紙一重である。覚えるべきことは自己主張したり抵抗してもよいのだということであり、自分がそのままで大丈夫なのだと言い聞かせることだ】
- ナルシシズム(信念:「私には価値がない」) 自己の偉大さと正当性を誇示する、あるいは他者を過小評価する。ひとの小さな弱みをルーペで見るように拡大してとらえ、自分の弱みを大幅に縮小してとらえる。非常に傷つきやすく、しかし絶対に引き下がらないので、怒りと妬みがナルシストには強くあらわれやすい。失敗し続け負けを認めざるをえなくなると必ずうつ状態になる。程度さこそあれ、人は誰でもナルシストの一面を持っている。【ナルシストはたいへん努力している。ただ理解しなければならないのは、他人と同じく、自分もまたただの人であることだ】
- 隠蔽(信念:「ありのままの自分でいてはいけない」) 本来の自分のままでいる自信がない。ただ誰でも自分をおさえて社会的規範などにしたがっており、隠蔽自体はごく普通の行為なのだが、極端な場合、「人と接しているときに自分が機械的に行動していると感じる」ほどにまで隠蔽してしまう。ただそういう人も隠蔽すること自体に面倒さや疲れを感じてはいる。【ベストの努力をしているのだが誰かになりかわらなければならないと思っている人は、自分の願望をきちんと知り、それを主張してもよいのだと学ぶ必要がある】