《絶対的当為》とは、ある行為をある状況のもとでなすべきであるとみなすことである。絶対的当為は今なにをすべきかという問いに対する私たちなりの答えであり、単に意思することとは区別される。なぜならそれは、可能な選択肢のなかからその行為が正しいとみなすことを含むからである。私たちがなにかを正しいとみなす条件は、フッサールが「吸収律」と呼ぶものを挙げることができるだろう(フッサールにおける価値と実践: 善さはいかにして構成されるのか)。:
選択が正しいのは、一つ以上の肯定的ないし中立的な価値をもつ選択肢が与えられており、そのうちで最も高い価値をもつものを選ぶとき、かつそのときにかぎられる。
だが、吸収則によってすべてが説明されるわけではない。私たちが考慮できる選択肢は原理的に可能な行為の数よりもずっと少ない。これは私たちの認識が限定されているということでもあり、状況の変化に応じて可能な行為やその価値が変化するということでもある(認識能力の限界+状況拘束性)。これを踏まえれば次のように再定式化できるだろう(フッサールにおける価値と実践: 善さはいかにして構成されるのか)。:
行為者が正しく意志するのは、選択の時点で可能なあらゆる行為のうち、最も価値のある行為を意志するとき、かつそのときにかぎられる。
私たちには理性的な熟慮が求められている。この定式化は次の性質を満たす。
- 規範性 行為者が自らの誠実な倫理的判断に反する行為をした場合には、その行為者は不法理だとみなされる。すなわち、そのような行為を選び取りながらそれを実行しない者は不合理をみなされる。
- 実践性 誠実な倫理的判断は、それをもっている当の行為者に、それに応じた動機を与える。すなわち、それを選び取った者はそう行為するように動機づけられる。
ここでいう《倫理的判断》とは絶対的当為の表現である。言い換えれば、可能な行為の価値を実際に比較衡量したうえである行為を最善とみなす判断である*1。
注意しなければならないのは、実践性とは「倫理的判断が必然的に行為の動機になる」ことではなく、「それに応じた動機を生じさせる」ことだった。だからその判断に反した行動を選んだとしても、それは””それに反して行為する””と決めたということで、実践性自体を揺るがすものではない―――むしろ本当に問題なのは、比較衡量して選択するという熟慮プロセスこそが倫理的だという理性的な考え方である。理性的であることだけが倫理的だといえるのはいったいなぜなのかは説明を要する事柄だと思われる(《合理主義的倫理観》と呼ぼう)。
ところで、私たちはこうした倫理的な問題を考えるうえで、いつも中立的観察者の立場に身を置こうとする。それは可能な選択肢を並べ上げ、価値を吟味し、比較衡量して絶対的当為の正当性について判定する理想的な判定者である。だが、Alasdair MacIntyreの指摘するように、私たちがいかに傷つきやすいvulnerable存在であるかということ、すなわち、私たちの生が苦しみに満たされているということ、そして私たちが生まれ育っていくためにいかに他者に依存しているのかという事実は見過ごされやすい。実際、道徳哲学に関する書物のなかに登場する行為者たちは、『生まれてこのかたずっと理性的で健康で、どんなトラブルにも見舞われたことがない存在であるかごとくに描かれている』(依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス 1076))―――私たちのこうした習慣はおそらく、自分自身が動物とは異なる存在として、動物性という危険な条件を免れたものとして理解し想像することに根差している。そこで、原初の動物的条件から自立した理性的な行為主体のそれへと発達に改めて注目してみることにしよう。
(つづく)
過去記事
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幸福の発達過程と社会関係【「依存的な理性的動物」】 - にんじんブログ