にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

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自分への還帰

 コンビニでカップラーメンを買いながらこう考えた。

 

 「ああ健康に悪い。

 

 でも健康に悪いってのは生きてる証拠だね。

 生きてる証拠ってそう考えるといろいろ溢れてるんだ。

 

 そう思うと生きてる証拠ってありふれたもんだし

 別に大したもんじゃないな」

 

 それからこうも考えた。

 

 「おっ、あれは〇〇校の制服だな。裕福な子どもたちが登校していくね。

 自分も大学まで行かせてもらったし、

 お金のことで親が困ってる様子も見たことがないから、

 裕福ながわのお野菜なんだろうな。どもじんです。

 

 裕福であること、裕福と思っていることは良い影響があると読んだことがあるな。

 自分にもし子どもができたら裕福だと思わせてやりたいもんだけど、

 こんなカップラーメンを食わせてるようじゃいけないな

 やっぱり弁当を持たせてやりたいもんな 作るのめんどくさいけどさ

 

 娘なんかできたらかわいいだろうな でも娘が結婚するとかなったら多分泣くなぁ

 いやでも娘が茶髪にしただけでもショック受けるか

 染髪なんてやりたいようにやらせりゃいいのに 止めるのはわがままだしなあ

 でも悲しいのは事実なんだよなあ

 

 息子だったらどうしよう あんまり興味ないもんな男なんて

 学問をやったら やっぱり一時期は頭でっかちになるかもしれんなあ

 一過性の純粋主義というか、

 ただしさみたいなものがやたらと気になって、

 よのなかとうまく触れ合えなくなっちゃうんだよな

 そういうのを乗り越えて みな おとなになるんだろうけど

 いや、ならない人もたまにはいるけどね ただしさの奴隷みたいな。

 そういう息子に対して 寛容でいてやるのが 親なんだろうけど

 自分はうまくやる自信がないなぁ

 うちの親はよくやったもんだよ

 ありがたいはなしだね そういう親の行動も、そういう親がいることもさ」

 

 ラーメンを食べながら こうも思った。

 

「自分が持ってるコアの問題を、『親問題』って名づけるのは

 ちょっと名前としてどうかなあという気がしてたけど、

 少し呑み込めた気がする。

 

 生まれて来ていちばん最初に出会う他人が 一般には親なんだもんな

 いや、最初に出会う他人、という表現は正確には誤りだな。

 だって そのときには 自分 がいないんだから。

 自己を認めるためには他者からの視線が必要だし、

 他者を他者とするためにはやっぱり自分がいるだろうから、

 自分と他人は まったくではないにしろ 同じ時点でうまれないとおかしいものな。

 他我を、自我とみなして理解しているというのは誤りで、

 けっきょく ふたつはおなじようなものなのかもしれない。

 場面場面に応じて 行動が変わっていくのは

 そのつどの自分と他者にたいして 自我と他我があるからかもしれない。

 でも自我はいつもおなじ物的対象、じぶんに帰属するから

 それがまぎらわしさのタネになっているのかもね。

 

 だから、そのいちばんさいしょの発生が、親。

 こっちも生物だから やっぱり状況に対処するし 適応しようとする。

 そうしているうちにじぶんが形づくられる。

 いちばん最初のじぶんが、親で、

 いまじぶんがいいと評価するものも、悪いと評価するものも、

 いろんなものをふくめて 吸収するんだろう。

 特に子どもはその時々の文化だとか、社会的慣習をそのまま受け入れるしかないし。

 実存の中立的な態度っていうか……。

 

 あたらしい他者と出会っても やっぱり最初の自分と矛盾した行動は

 きほんてきに避けるだろうし ちょっと年齢を重ねたら ますますそうなるだろう。

 だからちょこちょこと改変はされるにしても

 コアの部分、最初の発生のところはなんにしても残ってて、

 その上に重ねるみたいに自分を積み上げていくから

 最後にはコアが見えなくなってしまう。

 自分に関する「あれ?」という感じは、

 結局掘っていくとここに辿り着く気がする。経験上ね。

 で、それを親問題と呼ぶ。自分の究極的な問題。

 

 自分は子どもにどう接するべきなんだろうね。

 子どもなんかできねえだろっていう悲観はともかくとして。

 娘がかわいいからって、茶髪にするなとか、あんまり言っちゃかわいそうだよな。

 それは親の「純粋」という概念を押し付けることになるし、

 「純粋なほうがいい」っていう価値観も押し付けることになるし、

 二重の押し付けだよな。

 二重ってのは、ひとつのなかに二つ折りたたまれてるって意味でさ。

 そういうのが子どもの『自己存在了解』みたいなものになるんだろうな。

 そういうのがのちのち歪みになってあらわれるんだろうけど、

 それを歪みと呼ぶのも、今の自分たちの勝手だよな。

 かんぺきな親以前に、かんぺきな人間像がないんだからさ。

 そういうのも絶対多少は残っちゃうし、

 そのあたりも『親問題』の難しさなのかも。残すつもりがなくても残しちゃうから」

 

ラーメンは食べ終わった。汁まで飲んでゴミ箱に捨ててこう考えた。

 

「親問題は自分の中に含まれているから、かくされているわけではないんだけど、

 ふつうの感覚で行けば『隠れてる』って表現がただしいと思う。

 たぶん、どんなところに就職したいかとか

 そういうところにも顔を見せてると思うし。

 

 本屋さんになりたい。本が好き。静かなのが好き、知識を得るのが好き。……

 って重ねていくたびに、掘っていくたびに、近づいていく気がする。

 たまに斜めに掘ったりして 時間がかかったり

 親とは関係ない岩にぶつかることもあるだろうけど。

 どうして静かなのが好きなのかってなって、ウッって詰まったら、

 多分そこからは頭をフルに回転させないと掘れない。

 問い方はいろいろある。たとえば、静かじゃなかったらどう思うかとか、

 前にうるさくって嫌になった経験を思いだしてみるとか、

 いちばん古い記憶はなにかとか。

 コアに突き当たったら、たぶん問題はほとんど消えてなくなるんだろうね。

 一生かけても、全部取りだせないかもしれないけど」

 

 上に組み立てるより、掘っていく学問が好きです。

 

 

 

 

おすすめのアニメソング・まとめ

 いろいろ書いてきたものをひとつにまとめたいと思います。

 

 

SOMEONE ELSE!

 今回は「Someone else」です。

  WORKINGでもサーバントサービスでもそうなのですが、あのあたりは何故か最終回付近の記憶がありません。あのメンツで恋愛というのがにんじん的にしっくりこなかったからでしょうか。ルーシィの容姿は完全ににんじん好みです。Twitter病に罹患しているので、種島ぽぷら先輩を見るとフォロアアしか浮かびません。

 WORKINGでバイトを始めるのは、げんしけんオタサークルに入るのと似たようなものです。けいおんで楽器を始めたりゆるキャンでキャンプをはじめたり

 ( ˘ω˘)でも何かをさせる気を起こすアニメっていいですよね。

 ( ˘ω˘)新しい何かに踏み出すきっかけ……。

 

 ( `ᾥ´ )サムワンワンワン。

 

 

 Harmonies*

「Harmonies*」です。

Harmonies*

Harmonies*

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  くじびき♡アンバランスのEDテーマです。キノコお嬢が徹底的に身体改造した新アニメシリーズということで、ご覧になった方も多いと思います果たしてそうだろうか。なんでもかんでもくじびきで決めてしまうという民主的な学園の生徒会にまつわるお話で、もともとは「げんしけん」という作品から出てきたものです。

 げんしけんを夢見て大学生活に望まれた方も多いでしょう! にんじんもその一人です。しかし今は悟りを開いています

あの日 照れくさそうな声で呼ばれてから

ありふれた名前が 一瞬で好きになれた

 

 

くじびきアンバランス DVD-BOX  1

くじびきアンバランス DVD-BOX 1

 

 

ホロスコープ・ラプソディ

ホロスコープ・ラプソディ」です。

ホロスコープ・ラプソディ

ホロスコープ・ラプソディ

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 ブロッコリーといえば「デ・ジ・キャラット」と「ギャラクシーエンジェル」だと思いますが、そうですよね。にんじんはでじこ派閥だったので詳しくは知らないのですが、タクトがくるとなんかシリアス展開になるのでエンジェル隊だけでわいわいしてるほうが好きでした。そんなアニメ版で使われた楽曲が「ホロスコープ・ラプソディ」。

おとめ座のわたしから

山羊座の君へ C・Q・C・Q

ペガサスの翼で

迎えに行くよ Darling,Darling,you

 

 

 唯一人

「唯一人」です。

唯一人

唯一人

  • 爆弾ジョニー
  • ロック
  • ¥250
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 これはアニメ「TVアニメ『ピンポン』」のオープニング曲ですね。卓球漫画なのですが、いわゆる美少女は出てきません。目もキラッキラしていません。美少女アニメに慣れすぎて最初は置いていかれるのですが「置いて行かれるぐらいがちょうどいいな」と思いました。いま2回目を視聴しています。要するにそれぐらいは面白い。

 ちなみにyoutubeに公式動画が上がっております。itunesの試聴の立場がまったくありませんが、まぁよろしいでしょう

 

www.youtube.com

 

#1 風の音がジャマをしている。
 

 

 

あなたの一番になりたい

「あなたの一番になりたい」です(機動戦艦ナデシコBlu-ray BOX)。

あなたの一番になりたい

あなたの一番になりたい

  • provided courtesy of iTunes

 

 機動戦艦ナデシコのことを覚えているでしょうか。知らない方のほうが多いかもしれません。実はにんじんもほとんど覚えていないのですが、星野ルリの「馬鹿ばっか」とこの歌だけは覚えております。何回ループしても飽きない、良い曲です。

 以前紹介した「あなたの恋人になりたいのです」でもそうなんですが、この曲もまだ恋が成就しておりません。にんじんはそういう歌が好きなのかもしれません。しかしよくよく考えればどんな恋愛系のものでも成就するまでを描くわけで、わりかし早めにカップルになった彼氏彼女の事情なんかは少女漫画として飛びぬけていたのではないかとも思えます。にんじんは「鋼の雪」までのいわゆる宮沢編までが好きです。すまねえな有馬( `ᾥ´ )

 

彼氏彼女の事情 1 (花とゆめコミックス)
 

 

思い出がいっぱい

思い出がいっぱい」です。

思い出がいっぱい

思い出がいっぱい

  • provided courtesy of iTunes

  これはらんま1/2のオープニングです。まさに「思い出がいっぱい」という感じの作品です。作品を抜きにして聞いても良い曲だと思うのでぜひどうぞ。

 らんま1/2は最初から公式カップリングが成立しているので、安心してみれます。らんまとあかねがどうやって進展していくのか、あるいはらんまが元の体に戻れるのか、格闘家としての成長、新たな技……。

 にんじんが一番好きなのは獅子咆哮弾です。らんまの技じゃなくて申し訳ない限りです。らんまの技だったら火中天津甘栗拳ですが、でも二番目に好きなのは爆砕点穴なので結局は技としては良牙のほうが好きなのかもしれません。

 

 School Rumble Forever

School Rumble Forever」です。何故かitunesに曲がないので時代の流れを感じます。

School Rumble Forever

School Rumble Forever

 

  アニメ「スクールランブル」の楽曲です。にんじんはキャラクターが全員で歌を歌っているのが好きなので、ずっと聞き続けています。スクランはラブコメなのですが、恋愛模様が入り乱れるので収集がつかなくなっていきますが見ていて次にどうなるか楽しみにしておりました。恋愛ものってあんまりにんじんは得意じゃないのですが、この漫画の登場人物は恐ろしいほど「一人に拘る」のでそこも魅力です。こだわるというかその人以外まったく見えてないという感じはしますが

 にんじんは八雲と播磨派です。物語的に見てお嬢が正ヒロインですが、多分……。天満ってだれだい。

 ※塚本天満さん

 愛し標的(あなた)の背中に狙い定め

 愛の矢をグッと引くけれど ちょいハズレ⁉

 

 M@STERPIECE

M@STERPIECE」です。

  一日ぶっ通しこれしか聞いてない日もあります。もともとにんじんは「キャラクターみんなで歌っている曲」みたいな賑やかなのが好きなのです。

明日は追いかけてくモノじゃなく

今へと変えてくモノ それが自分になる

 

 輝きの向こう側へ!

 

 

 

 

「正しさ」と自由

正しさの検討

 「いまわたしの目に映っているものは、本当にそれ自体を捉えたもの」なのでしょうか。哲学者たちはこの問題に取り組んできました。デカルトはこの問題に〈神〉を持ち出し、カントは「そんな問いは人間の認識の限界を超えているんだよ」とある意味でデカルトを擁護しつつ、そのうえで「人間は『それ自体』とかじゃなくて現象を扱うことならできるよ」と科学を保護しました。これを受けて、客観それ自体を人間の手に取り戻そうとしたのがヘーゲルであって、「認識を鍛え上げていけば客観にたどり着けるやで」と言いました。

 わたしたちは〈客観それ自体〉に一致しているような〈主観〉(認識)を「正しい認識」と呼びます。客観的な正しさ、というのもこれに類するものでしょう。

 わたしたちが「これって正しいのかなあ」と問う時、少なくともそれが倫理的な正しさである場合を除けば、こうした客観との一致が問題とされているような気がいたします。たとえば体温計で体温をはかるとき、27℃と表示されたら「正しくねえだろ」というでしょう。それは「わたしの〈本当の〉温度はこうであるはずがない」という判断です―――正しい認識、客観的な正しさ、本当の〇〇。そして真理。真理に「たどりついた」という表現も、どうにもこのようなことがイメージされているのかもしれません。

 

 しかしこのような客観的な正しさは、わたしたちをむしばみます。

 もしすべてを疑うなら、わたしたちは自分の足場を失ったように思い、自らの行動のすべてを、無意味なものにしてしまうでしょう。そうでないにしても、もし真理が「たどりつく」ものであるなら、その仮想的にたどりついた真理は決定論を暗示しており、わたしたちの生はすべてあらかじめ決められていて、やはり自らの行動をまったく無意味なものにするでしょう。決定論的に見るなら、わたしたちに自由というものはおよそなく、あったとしても「不可知である」という点においてのみ保証される自由でしかないでしょう。

 わたしたちはわたしたちの自由を保証し、なおかつ、理論による進歩を信じ続けるために「量子力学」を持ち出すかもしれません。量子と呼ばれる微小な世界では、すべてが確定的に定まるとは限らず、むしろそのような不確定さを基礎として成り立っているからです。このゆらぎが、わたしたちに自由をもたらすかもしれません。

 ここに、自由論が錯綜する一つの理由がある。われわれはここで二つの議論のレベルを区別しなければならない。一つのレベルは、世界をシンボル化することは認めつつ、決定論的にシンボル化するかどうかで立場が分かれるものである。量子力学を頼みにするタイプのリバタリアンは、このレベルで議論している。だが、そもそも世界をシンボルのレベルだけで捉えることに反対し、そこに自由の余地を見出そうとする考え方もある。

実存思想論集 34号: ウィトゲンシュタインと実存思想

 科学というものは「正しさ」を前提として成り立っています。実験というのも、科学者界隈で認められた「正しさの規準」であり、「正しさ」を前提として「規準」をクリアするかどうかに焦点があたっています。そしてやはり科学哲学においては、この前提とされた「正しさ」の議論が起きています。

 しかしそもそも、この「正しさ」を土台として決定論を避けるという意味で自由を保証するという方向で、いいのでしょうか。わたしたちはすでに壁に突き当たっており、「どこかで(論理的に)間違えてしまった」のではないでしょうか?

 そのどこかとは、そもそもこの主観と客観の問題なのではないでしょうか。客観的なものなど存在するのでしょうか。

 

現象学 (岩波新書 青版 C-11)

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懐疑論を斥ける

 わたしたちはもう一度始め直さなければならないのでしょうか。つまり、「あれって、わたしの見てるコレと同じでいいのかな?」という問いに戻らなければならないのでしょうか。

 そもそもこんなことを問題にしたのは、ある疑いが原因です。「わっ、びっくりした。ヘビかと思ったらロープかよ!」と突っ込む人に対して、「もしかしてあなたの見ているすべてのことも、幻なのではないでしょうか」と囁く人がいたのです。いや、違うだろうよ……と言いたいのですが、根拠がありません。それで「あたし、ちゃんと物を見れてる?」と問うハメになったのです。

 この懐疑論者は何を言っても「いま、〇〇って言ったけどそれって夢じゃないの?」と言ってきます。そこでデカルトは「この世界が夢だろうが見てるものが全部幻だろうが、我(コギト)だけは残るよね」として、そこを出発点としました。

 

 🥕「いま、〇〇っていったけど夢じゃね?」

 🐳「夢かもしれんけど、夢を見てる俺はいるくね?」

 🥕「ウッ」

 

 という展開にできたわけです。そこから客観と一致できるよ問題に取り掛かるのですが、結局神様を持ち出してしまいました。現代のわたしたちからすれば到底納得できる話ではありません。というか、神様を持ち出さなければ解決できないことを認めてしまったようなものです。この原理的不可能さがカントにおいてビシッと整備されるわけですが、……。

 いや、しかし、なんで「我」しかない状態から「客観と一致できるよ問題」に取り掛かってしまったのでしょうか。客観ってなんだよ。我しかねえんだろうが……と、だいたいこういう感じで来たのがフッサールでした。

 

 🐳「で、まぁ客観とは原理的に一致しないってわけだ」

 🍎「でもその客観を夢かもしれんって言ってなかったか……? 我だけでしょ?」

 

 つまり、せっかく疑い得ないものに達したのに、その状態をキープせずに元の場所に戻ってしまったわけです。フッサール現象学デカルトの「我」を徹底するという立場をとるわけです。そこにはもう、客観はありません。

 あるのはただ、「〈それ自体〉があるよ!」と叫ぶ自分だけです。

 どうしてわたしたちは客観というものを確信してしまえているのか?

 それを問うわけです。

 

※これが「自分に閉じこもるわけではない」ことは、現象学の初手から暗示されるように思われますが、また機会があれば記事にまとめます。

 

我の徹底

 いずれにせよ、わたしたちは出発点を得、神様しか出入りできないような架空の世界を相手にしないで済む方法をフッサールから学ぼうとしています。ここで起こる哲学理論は、わたしたちの手に届く、実感できるものであるはずですし、それが期待できます。

 ここでどのような「決定論」が跋扈するのかはわかりません。しかし、すべてのレールが敷かれているようなものにはならないでしょう。わたしたちに歩く余地を残してくれているでしょう。駅の周囲には町があってそこには〈倫理的ー正しさ〉の住み場所になっているかもしれません。主観ー客観の世界では、「価値」は「客観的事実」の背負ってもらわなければなりませんでしたが、ここではむしろ、価値こそ町の主役かもしれません。*1

 

 わたしたちを縛る客観の神様は消え失せました。

 いきなり雷を落として「間違ってるぞ」と言われる心配はありません。「うっかりしていた」はあっても、いわば「世界から騙されている」ことはないのです。にんじんはここに、自由の可能性を見ます。

 

 とはいえ、決定論を斥け自由を得ることは、責任の発生を意味するように思われます。わたしたちは神様から「間違っておるぞ」と落雷を落とされない代わりに、自分の面倒を見ないといけなくなったのかもしれません。わたしたちは泥酔して路上で露出する自由を持っていますが、逮捕されます。そこまでキツいやつじゃなくても、たとえば職場でテーブルに足をあげたら「なんやねんこいつ」と思われるかもしれません。

 わたしたちには従うべき慣習とマナーがあるのです!

 わたしたちはそこで、〈主観ー客観〉ではなく、〈個人ー集団〉の激突を見ます。

 

 これまで長くにんじんブログで取り上げて来た「人間関係の困難」はここに結実するのです。「やりたいことやったもんがち♪」な世界にも、社会的な制限があり、ムカつくやつを殴ったり殺害したらブタ箱です。会社でむかついても、社会で生きるには我慢しなければならないこともあります。でも! 残業時間で過労死するほど付き合ってやるいわれはないし! ———わたしたちはどこまで社会に溶け込めばいいのでしょうか? ああ、新たな問題の発生。

 

 

 

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  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 1989/06/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

*1:予想されているかもしれませんが、現象学では「他我」がひとつの問題になります。同じ町に住まう他者の存在を、「示さ」なければなりません

「応じ方」としての人間関係の不自由~人間関係についてTHINKする

必要悪なのか?

 人間関係について、わたしたちの困惑は相手の「応じる」その仕方にあることは一応納得されることだろうと思います。以前の記事では、「思うままになる」人間関係について考えました。これは言葉通りの意味で応じ方が思う通りになるということではありません(そうだとすると相手が精巧な機械と同じになる)。自分の思う通りに行動することを望んでくれる他者の夢想です。

 どちらにとっても文句がないという点では完全な主従関係とはいえないかもしれませんが、それは明らかに人間関係を『支配』と捉える仕方です。これを理想と捉えることは、少なくとも現実的には、多くの困難を呼び、悪くするとすべての人間関係を拒否するようになるでしょう。

 

 ところでわたしたちは人間関係のなかにあることを余儀なくされているのでしょうか、それともそれを選択しているのでしょうか。現実的には、どちらともいえるかもしれません。胎児が人の手を借りずに生き延びることは不可能ですし、この世界にたった一人で生きるよりも、他者がいることを望むでしょう。たまに「全世界から人が突然消えても、おもちゃ屋は急に消えないだろうし死ぬまで退屈しないと思う」という人もいますが、実際どうなのかにんじんには疑問です。殺してくるやつならちょっと勘弁してほしいですが。

 誰もいなくなるという経験は、「この世からプラレールが消えた」というような、ある種類のおもちゃが消えたことと同じような出来事なのでしょうか。人間関係の痛苦から逃れる引き替えに快も消え失せるが、差し引きとしてはプラスかな、というような出来事なのでしょうか。「人間じゃなくて犬はいてほしいかも」というようなアイディアもありそうです。生き物が自分以外すべて消え失せること、犬がいること、他者がいること……わたしたちは人間関係によって何を得るのでしょうか?

 

 以前、生きているということは応じるということを含むかもしれないという話をしました。私たちは応じ、応じられることで、何を得ているのでしょうか。生き物がまったくいない世界と、犬一匹だけがいてくれる世界の違いはどこにあるのでしょう。人間と、犬がいることの違いは? 人間+犬の世界は、それぞれだけの世界とどう異なるでしょうか。

 生き物がなにもない世界では、応じられることがありません。いや、わたしたちはヤシの木を人と見立てて、応じてくれる「物」を想像するかもしれません。物に命を宿そうとするかもしれません。石は生きていて、ぼとんと落とすと転がった方向で自らの意志を示すということもできるでしょう。「応じる」ということは、相手の反応がよくわからない、むしろ「応じない」という可能性すら残されているということです。石ころが生きているというときも、転がっていく方向が常に一定で、あらかじめ予想がついてしまうものならば、生きていることの根拠として提示することは不可能でしょう。

 生きている自分以外がいてほしいというのは、そういう意味では不確定なものにいてほしいということでもあります。しかし安全という観点からみれば、すべてが確定的であるほうが、パーフェクトな人生計画表のあるほうが、安全であることには違いありません。……いや、しかしもしそのような世界であれば、そもそも安全と危険の区別はないでしょう。危険な状態と安全な状態を区別する意味がまったくないからです。わたしたちはたとえたった一人になったとしても、不確定性を頼りに自然に生を見いだすことができます。しかし「他の生物がみんな消えてもいいよ」という人は、「見出さねえよw」ということでしょう。

 さて、それはともかく、✖ー世界、犬ー世界、人ー世界、犬+人ー世界で何が異なるのかという問題に戻りましょう。生きているもののいる世界が不確定なもののいる世界だとすれば、左から順に不確定さが増していく段階だと思えます。「応じるー不確定」は左にはまったくなく、右に行くにつれて増してくるように思えます。犬と人がいれば、不確定な犬と不確定な他者の関係によって引き起こされる不確定さは、それぞれだけしかいない世界よりも大きいでしょう。

 それぞれが生きている以上、応じることによって応じられ、またそれによって応じるというスパイラルに入り込みます。こう考えてくると、わたしたちは「生きているって応じることを含むよね」といったとき、まさにこの交互作用を、自分のことを失念していたのかもしれません。

 

 

 わたしたちは普通、不確定なことを不愉快に思います。不安に思います。十年後、どうなっているかわからないから保険に入って、備えようとします。だというのに、不確定なものを自分から求めにいくのは妙です。保険だって生きた人間がやってるわけですから、その関係が未来をある程度お約束してくれる「安全さ」に寄与してくれるとしても、そもそもそいつがいること自体が不安の種なのですから、むしろ生物のいない世界にいるほうがよいのではないでしょうか。

 食糧がボタン一つでバラバラ出てくるなら生き物は必要ない! でしょうか?

 生き物以外のすべてのものが与えられるならば、わたしたちは生きた他者を必要としないでしょうか。こう問うこともできるでしょう。人間は増えれば増えるほど、嬉しいでしょうか? いや、しかしこれは多分そうではないでしょう。

 この世界にたった一人になるか、一人ではないが常に自分をつけ狙ってくるハンターと世界で二人きりになるか、どちらがよいでしょう。これは少々、悩むかもしれません。なら、ハンターが100人なら? みんな消えるか、一人になるか、どちらがよいでしょう。

 

 

 わたしたちは人間関係において、不確定さを取り込むことによって別種の不確定さを取り除こうとしているのでしょうか。洗濯をばあさんに任せれば、自分は芝刈りにいくことができます。ばあさんがいないことが理想的でないのは、それはばあさんのもたらす危険さよりも、一人でいることの危険さのほうがまさっているからでしょうか。住んでいる山にドンドン人が集まって来ると、途中まではありがたくっても、途中からはイヤになるかもしれません。

 わたしたちが悩んでいるのは、そうした「必要悪のさばき方」であって、それが処世術と呼ばれるのでしょうか? わたしたちが家族と過ごすのは生存戦略に過ぎないのでしょうか。

 わたしたちは、なにかを見落としてきたようです。それは、応じ方にともなう不確定さがもたらす、正の側面だろうと思われます。人が増えるほど危険さは減りますが、ある段階からありがた迷惑になるのは恐らくその通りでしょう。しかしそれは人間の不確定さによって問題が増えたというよりも、「生の側面」が減ったのではないでしょうか。そしてそれはなんでしょうか。

 わたしたちはまたこの問いに戻ってきました。

 「人間関係によって、わたしはいったい何を得ているのだろうか?」

 

 

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

 
サピエンス全史(下)文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史(下)文明の構造と人類の幸福

 

 

人間関係をTHINKする

対人的理想主義者

 

 人間関係とは人と人との間の関係を指します。そのうちには自分がいて、様々な社会集団にいる個別的な人、人々に対してどのような態度をとればよいか悩むとき、わたしたちは人間関係の悩みに直面しているように思えます。

 人間関係が人対物の関係と異なるのは、人がわたしたちの自由にならないからだと真っ先に考えられるでしょう。しかしコップだって、いつでもわたしたちの自由に振る舞うとは限りません。浮かび上がれと思っても浮かびませんし、色よ変われと念じても変わらないでしょう。その意味では、コップも自由にならない。人間というものを単なる物理的なものだとしてもコップと同じような不自由さを持っています。しかし、「私たちが言いたいのは、そういう自由にならなさではない」のも確かです。わたしたちは、いったい何が自由にならないと感じているのでしょうか。自然主義的なままならなさをはぎ取った不自由さとは、なんなのでしょうか。

 人間と物は、何が異なるのでしょうか。わたしたちは、差し当たりそれを「生きていること」といえるかもしれません。同僚の遺体と、わたしたちは人間関係を取り結ぶことはありません。空間的な関係は依然として有しながらも、人間の関係は結べない。これはどういう事態なのでしょうか。人と物を区別する「生きている」とは、一体どのようなことなのでしょうか。

 こう問うこともできるかもしれません。生きていることをわたしたちはいかにして知るのか、と。もちろん、その「知」は偽りでありえます。生きていると思っていたが、実際には生きていなかったということもあるし、生きていないと思っていたがどうやら生きているらしいということがわかることもあります。ここで問題とされるべきなのは主観と客観の一致という意味での真偽判定ではなく、「どうして生きていると思ったのか」ということです。わたしたちは何によって彼が生きていることを信じることができたのでしょう。

 

「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 完全翻訳版

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 たとえば、すやすや寝ているかと思っていたらほんとは息をしていなかった人のことを考えてみましょう。部屋を通り過ぎる、あらよく寝ているわね。彼はまだ生きていますし、生きていると確信されている。生きていないと断じられるのは、なにによってでしょうか。

 いろいろなケースが考えられます。「いつまで寝てんの?」と言っても、ぴくりともしない。揺すってみる、全然起きない。おかしい、と心臓に耳を当ててみる。動いていない。病院へ電話する。救急車が来て、心臓マッサージを施す。しかし心臓が再び動き出すことはなかった……。

 どうにも、生きていないことは反応がないことと関連があるように思われます。しかしまったく同じというわけでもない。シカトは反応みたいなもんですから、マジで透明人間になったようにこっちに対して反応してくれないケースを考えましょう。簡単のために、ここには彼と二人っきり。自分には反応してくれないが、ふつうに生活を営んでいたら、むしろ生きていないのは自分じゃないかと疑いたくなります。しかし自分も、魚を釣って暮らすことができる。妙なもんです。彼はどうすれば生きていない状態になってくれるのでしょうか。

 私だけでは足りないのかもしれません。彼はすべてに対して、反応しなくならないといけない。反応とは、なにかからの「問いかけ」に対して、「応じる」ことです。動いていながらも、「応じない」ことはできます。プログラムされた通りに動く機械は、まさにその典型でしょう。生きていないとは、応じていないことだとすれば、生きていることは応じていることをその本質としてもつのでしょうか。

 応じるとは、相手の働きかけを受けて行動することです。受けるだけでは駄目で、返してくれないといけない。ものには、正確に言えば、私たちがものと呼ぶものには、「応じる」という特徴がないようです。入店すれば「いらっしゃいませ。何名様ですか?」と聞いてくれるロボットはいますが、生きているとは言いません。

 

 以上の議論が正しいならば、人間との関係において悩むとき、そのままならなさはこの「応ずる」仕方がままならないということでしょう。それは自分の思うように「応じてくれない」ということです。

 わたしたちがこの悩みを解決するための極端な立場は、『理想の人間関係とは、思う通りに応じてくれる関係である』というものでしょう。当たり前ですが、向こうも人間です。そうすると、その理想の人間関係においては、『相手の思う通りに応じることが自分の思う通りである』ような他者が必要になります。いつも自分のお気に入りの言葉を相手に求め、相手はいつも自分のお気に入りの言葉を返してくれる、しかし自分は相手のお気に入りの言葉は知らなくていい……。

 理想の人間関係という上記の了解のそれぞれの立場をとった2人がいたとしても、人間関係はやはり困難なものとなるでしょう。一人は好き勝手言うだけなので楽ですが、いつもお気に入りのセリフを言わないといけないほうは大変です。というかそもそも、そいつが何を気に入ってるのかをどうやって知ればいいのでしょうか。その知っていく過程で発生する人間関係こそ、この立場が最も恐れる事態だったはずです。いやいや、しかし理想に至るためには努力が必要なんだよと言えるのであれば、二人はうまくいくでしょう。なにしろ一人のほうは自分の好みを叩きつけて行けばいいだけだし、もう一人は必死に努力して理想に近づくことを良しとしている人間なんですから。たまにはミスしながらも献身的なその人は、まさに理想的でしょう。

 努力をよしとしないなら、ネットの掲示板にデート台本をアップロードして「この通りやってください」とかやっといて、受け手の入念なリハーサルを経て、臨むことになりますが……一体なにがその人を動機づけるのでしょう?

 この人間関係に対する理想主義が現実的ではないのは、わたしたちがさまざまな人間のいる社会に生きているということから明らかなように思われます。*1

 

 

 

*1:んじゃ二人っきりならいいんかい、と言われるとなんとも言えないのがつらいところです。この理想主義は徹底的に叩きのめしておく考え方だと思うからで、「現実的に実現不可能だが、理想としては適切だ」では困るのです。

自己鏡像認知~「自分」を「自分」と理解すること

 自己鏡像認知とは、鏡に映った自分を自分だとわかるというものです。

 生きられた〈私〉をもとめて: 身体・意識・他者 (心の科学のための哲学入門 4)では、自己鏡像認知ができるようになるために、次が挙げられています。

  1.  自己の身体と鏡像とを対応させ、両者の連合を積み重ねる だけでは十分ではない。
  2.  「見るー見られる」という経験を他者と重ね、「そこ」にいる他者の視点から見て自分がどう見えるかを学習する必要がある。
  3.  架空の外的視点から思い浮かべた自己の身体イメージを保持している必要がある。
  4.  身体イメージと鏡像との対応を理解することで、自己鏡像認知ができるようになる。

 ①について、ふつうはこれだけで自己鏡像認知はできるようになると考えがちです。「手を挙げた、向こうも手を挙げた。あっ、これは私だ」と言う風に。でもそうはならないといいます。

 その理由としては、そもそもそんなことをしようと思わないから。「うわ、なにこれキモ……」と思うことはあっても、「よし、いっちょ確かめてやるか!」とはならないんですね。動機づけられさえすればできるようになることは上記の本でも認められていますが、大概の場合、うまくいきません。

 鏡に映るものを他者を見るようにして見、他者に見られているようにして鏡に映るものを見るという経験が、自己を生じさせているということです。

 

 それがなくなれば自己が自己でなくなるようなもの。「身体」「意識」「他者」のみっつだと著者は言います。