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「応じ方」としての人間関係の不自由~人間関係についてTHINKする

必要悪なのか?

 人間関係について、わたしたちの困惑は相手の「応じる」その仕方にあることは一応納得されることだろうと思います。以前の記事では、「思うままになる」人間関係について考えました。これは言葉通りの意味で応じ方が思う通りになるということではありません(そうだとすると相手が精巧な機械と同じになる)。自分の思う通りに行動することを望んでくれる他者の夢想です。

 どちらにとっても文句がないという点では完全な主従関係とはいえないかもしれませんが、それは明らかに人間関係を『支配』と捉える仕方です。これを理想と捉えることは、少なくとも現実的には、多くの困難を呼び、悪くするとすべての人間関係を拒否するようになるでしょう。

 

 ところでわたしたちは人間関係のなかにあることを余儀なくされているのでしょうか、それともそれを選択しているのでしょうか。現実的には、どちらともいえるかもしれません。胎児が人の手を借りずに生き延びることは不可能ですし、この世界にたった一人で生きるよりも、他者がいることを望むでしょう。たまに「全世界から人が突然消えても、おもちゃ屋は急に消えないだろうし死ぬまで退屈しないと思う」という人もいますが、実際どうなのかにんじんには疑問です。殺してくるやつならちょっと勘弁してほしいですが。

 誰もいなくなるという経験は、「この世からプラレールが消えた」というような、ある種類のおもちゃが消えたことと同じような出来事なのでしょうか。人間関係の痛苦から逃れる引き替えに快も消え失せるが、差し引きとしてはプラスかな、というような出来事なのでしょうか。「人間じゃなくて犬はいてほしいかも」というようなアイディアもありそうです。生き物が自分以外すべて消え失せること、犬がいること、他者がいること……わたしたちは人間関係によって何を得るのでしょうか?

 

 以前、生きているということは応じるということを含むかもしれないという話をしました。私たちは応じ、応じられることで、何を得ているのでしょうか。生き物がまったくいない世界と、犬一匹だけがいてくれる世界の違いはどこにあるのでしょう。人間と、犬がいることの違いは? 人間+犬の世界は、それぞれだけの世界とどう異なるでしょうか。

 生き物がなにもない世界では、応じられることがありません。いや、わたしたちはヤシの木を人と見立てて、応じてくれる「物」を想像するかもしれません。物に命を宿そうとするかもしれません。石は生きていて、ぼとんと落とすと転がった方向で自らの意志を示すということもできるでしょう。「応じる」ということは、相手の反応がよくわからない、むしろ「応じない」という可能性すら残されているということです。石ころが生きているというときも、転がっていく方向が常に一定で、あらかじめ予想がついてしまうものならば、生きていることの根拠として提示することは不可能でしょう。

 生きている自分以外がいてほしいというのは、そういう意味では不確定なものにいてほしいということでもあります。しかし安全という観点からみれば、すべてが確定的であるほうが、パーフェクトな人生計画表のあるほうが、安全であることには違いありません。……いや、しかしもしそのような世界であれば、そもそも安全と危険の区別はないでしょう。危険な状態と安全な状態を区別する意味がまったくないからです。わたしたちはたとえたった一人になったとしても、不確定性を頼りに自然に生を見いだすことができます。しかし「他の生物がみんな消えてもいいよ」という人は、「見出さねえよw」ということでしょう。

 さて、それはともかく、✖ー世界、犬ー世界、人ー世界、犬+人ー世界で何が異なるのかという問題に戻りましょう。生きているもののいる世界が不確定なもののいる世界だとすれば、左から順に不確定さが増していく段階だと思えます。「応じるー不確定」は左にはまったくなく、右に行くにつれて増してくるように思えます。犬と人がいれば、不確定な犬と不確定な他者の関係によって引き起こされる不確定さは、それぞれだけしかいない世界よりも大きいでしょう。

 それぞれが生きている以上、応じることによって応じられ、またそれによって応じるというスパイラルに入り込みます。こう考えてくると、わたしたちは「生きているって応じることを含むよね」といったとき、まさにこの交互作用を、自分のことを失念していたのかもしれません。

 

 

 わたしたちは普通、不確定なことを不愉快に思います。不安に思います。十年後、どうなっているかわからないから保険に入って、備えようとします。だというのに、不確定なものを自分から求めにいくのは妙です。保険だって生きた人間がやってるわけですから、その関係が未来をある程度お約束してくれる「安全さ」に寄与してくれるとしても、そもそもそいつがいること自体が不安の種なのですから、むしろ生物のいない世界にいるほうがよいのではないでしょうか。

 食糧がボタン一つでバラバラ出てくるなら生き物は必要ない! でしょうか?

 生き物以外のすべてのものが与えられるならば、わたしたちは生きた他者を必要としないでしょうか。こう問うこともできるでしょう。人間は増えれば増えるほど、嬉しいでしょうか? いや、しかしこれは多分そうではないでしょう。

 この世界にたった一人になるか、一人ではないが常に自分をつけ狙ってくるハンターと世界で二人きりになるか、どちらがよいでしょう。これは少々、悩むかもしれません。なら、ハンターが100人なら? みんな消えるか、一人になるか、どちらがよいでしょう。

 

 

 わたしたちは人間関係において、不確定さを取り込むことによって別種の不確定さを取り除こうとしているのでしょうか。洗濯をばあさんに任せれば、自分は芝刈りにいくことができます。ばあさんがいないことが理想的でないのは、それはばあさんのもたらす危険さよりも、一人でいることの危険さのほうがまさっているからでしょうか。住んでいる山にドンドン人が集まって来ると、途中まではありがたくっても、途中からはイヤになるかもしれません。

 わたしたちが悩んでいるのは、そうした「必要悪のさばき方」であって、それが処世術と呼ばれるのでしょうか? わたしたちが家族と過ごすのは生存戦略に過ぎないのでしょうか。

 わたしたちは、なにかを見落としてきたようです。それは、応じ方にともなう不確定さがもたらす、正の側面だろうと思われます。人が増えるほど危険さは減りますが、ある段階からありがた迷惑になるのは恐らくその通りでしょう。しかしそれは人間の不確定さによって問題が増えたというよりも、「生の側面」が減ったのではないでしょうか。そしてそれはなんでしょうか。

 わたしたちはまたこの問いに戻ってきました。

 「人間関係によって、わたしはいったい何を得ているのだろうか?」

 

 

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