にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

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【一人暮らし】賃貸住宅

部屋を決めるまでの流れ

  1.  住む地域、家賃等をおおまかに決める。
  2.  不動産会社のホームページで物件を検索する。
  3.  不動産会社を訪ねる。
  4.  物件の下見をする。
  5.  契約をする(賃貸借契約)。→ 敷金・礼金・保険料・仲介手数料・前家賃

(失敗例)

  •  家から近い距離にスーパーやコンビニがない。
  •  最寄り駅から家までの道のりに街灯がほとんどない。
  •  道路や線路などがあり騒音がひどい。
  •  ドアが小さく、入れる予定の家具が入らない。
  •  入居時に物件の傷を指摘しなかったため退去時にトラブルになった。

 

部屋の掃除

 一日10分、掃除をすると「大掃除」する手間が省ける*1

 家の中にある〈汚れ〉には大まかに分けて以下の四つがある。(1)ほこり、ゴミ(2)水アカ、(3)油汚れ、(4)カビ。掃除は常に以下のステップを持つ。各ステップに応じて、掃除道具が存在する。

  1.  掃き、拭き掃除をする
  2.  〈汚れ〉を洗剤等で浮かせる。
  3.  〈汚れ〉を拭きとる。

 ホウキとチリトリ、スポンジ、ゾウキンは基本。トイレなどにはブラシが便利。

 台所用中性洗剤(ジョイとか)、住宅用中性洗剤(マジックリンとか)が洗剤の基本。除菌にはエタノールを使う。キツイ汚れには水に重曹を混ぜた重曹水を使えばよい。

混ぜるだけ!【重曹水】の作り方と驚きの活用術| Pacoma パコマ | 暮らしの冒険Webマガジン

 

 

mini+SPRiNG 特別編集 ひとり暮らしの教科書

mini+SPRiNG 特別編集 ひとり暮らしの教科書

 

 

*1:掃除してみるとわかるが、10分は案外長い。

(二回目)にんじんと読む「徳は知なり(ジュリア・アナス)」🥕 第六章まで

徳、性格、傾向性

 《徳とはある種の傾向性であり、ある一定のしかたで推論し、感じ、行為する傾向性である》(p329)。徳とはその人自身に備わる特性であり、(1)一貫して存続するpersisting(2)当てにできるreliable(3)性格を表すcharacteristic。

  •  徳は単に存続するだけでなく、状況に対する反応によって強まったり弱まったりする。
  •  「あの人は気前のいい人だから」という風に徳はある一定程度当てにされる。(言語だから当然ではあるが)徳について共通した了解をわたしたちは共有しているということを言いたいのだと思われる。
  •  数独がいかにうまくなろうがそれによってその人の性格には影響しないだろう。一方で思いやることができるようになった人は性格まで変わるだろう。このことは数独ができるとかそういう技能との違いを強調するものだと思われる。

  このような徳の考え方は、われわれがそのように行為する動機付けを既に持っていることを含意している。換言すれば、Aするのがよいことだと判断して、Aを実際にするかどうかをどう動機づけられるかを探求する倫理学理論とは明確に異なっている。

 われわれは生まれた時からすでに行為の傾向性を持っている(「自然的な徳」)。そこからしつけや教育、その他さまざまな経験を経て、正直さや気前のよさや勇敢さなどの徳を発達させていくのである(「知性的な徳」と呼んで区別しよう)。われわれは初めから既に動機付けを持っているのである。

 

 以上述べ来たったことからもわかるように、知性的な徳の習得は時間を要する。手本を見ることなどを通じてさまざまな徳について学び(どのように反応するか)、そして実際にそのように振る舞うことを通じて、彼はたとえば勇敢な人となる―――このように素描される徳の習得をみて、「徳は機械的な反応とは違う」と反論したくなる向きもあるかと思うが、まさにその通りである。意識的にそのように振る舞う(習慣)段階から派生するのは徳ばかりではなく、それが機械的反応と化してしまうこともあるし、もしくは実践的技能となることもあるだろう。この時点で簡単に区別すれば、機械的反応には習熟などということはない。実践的技能は相手の反応に無関心だが、徳はそうではない。

 《機械的反応の中心的な特徴は、関連する状況に対していつでも同じ反応をするところにある》(p27)。たとえば毎日毎日職場に通っていて、その日は別の用事で出かけたのにいつもの道を左に曲がってしまうようなことがある。一方で、実践的技能と徳は単に機械的反応以上のことを要求する。たとえばピアニストは最初、楽譜を見ながら意識して演奏をするだろう。しかし技能の習得によって得られるものは単に楽譜通り弾けるといったような機械的反応ではなく、楽曲に対するピアニストの考えが吹き込まれた演奏であろう。ピアニストは演奏を改善し続けるし、練習し続ける。そうでなければ下手になる。一度身につけたらそれで終わりというようなものではないのだ。

 徳と技能は非常に似通っている。これがこの本の主張の一つでもある。どのような点で似ており、どのような点で異なるのかをこれから見ていこう。

 

徳は知なり: 幸福に生きるための倫理学

徳は知なり: 幸福に生きるための倫理学

 

 

技能を要する行為と有徳な行為

 技能と徳の類似性の基礎にあるのは、①学習が必要不可欠なことと、②《駆り立てる向上心》である。

  1.  する必要のあることを実際にすることによってのみ習得することができる、ということ。建築はどれだけ本を読んでもできるようにはならないし、倫理学の本をいくら読んでも徳を身に着けたことにはならない。
  2.  学習者は教師のものまねをしていればいいわけではない。手本のどの部分に従えばいいか、別のやり方ではなくこのやり方である意味はなんなのか、このやり方の何が重要で何が重要ではないのか、といったことを理解しなければならない。もしものまねしかできないなら、それは技能の習得という点では完全に失敗だといわれるだろう―――いわば、学習者はそれを自分のものとして習得しなければならない。

 もしもそれが何らかの複雑さをともなう技能の場合、熟練者は学習者に「理由を与える」ことが含まれる。たとえば電気工事士はそのように配線するという事実だけではなく、そう配線しなければならない理由もつたえるだろう。つまりここに言語がある程度まで必要になってくる。技能を持っている人は自らのすることに説明を与えることができるが、それができない人は技能ではなく単に「こつ」を持っているに過ぎない。現代における技能という言葉はこの両方の意味を含むが、学習の必要性と駆り立てる向上心のふたつが見られないような技能の例には、説明を求める要求を見出すことはできない。

 

 技能と同様に、徳にも「学習の必要性」「駆り立てる向上心」「説明の要求」は見られる。①われわれはいつでも徳というものを、つねにある一定の文脈のなかで実践を通して学んでいく。②そして徳というものは人のやっていることをそのまま取り入れるようなものではない。《アリストテレスが言うように、人はみな父祖伝来のものを求めているのではなく、よいものを求めている》(p39)。たとえば子どもは親が犬を追い払うのを見て、それを勇敢なこととして覚えるところから徳の学びが始まる。しかし、

  1.  親が犬を追い払った事実だけではなく、どうして親がそうしたのかを理解しなければならない
  2.  似たような状況に置かれたとき、子どもは実際に勇敢に行為できなければならない。これができるようになるためには勇敢さと向こう見ずの違い、自らの能力と限界、危険な犬かどうか見抜く重要性に気づかなければならない。
  3.  へまをやる可能性があることを正しく認識していなければならない。

 こうした三つの点で向上心を持たない限り、勇敢さがが生まれることはない。

 ③だが親がわざわざ犬を追い払った自分を「勇敢だろう」とか、いちいち説明するとは思えないかもしれない。その通り、われわれは親や教師がいつでも事細かに説明している姿を想像しなくてもよいのである。たいていは子どものやったことに対して報いるか、それを思いとどまらせるといった形で行われる。しかし時には、親のした行為、誰かのした行為などを親や教師が説明するということもある。

 

 以上、われわれは実践的技能からの類推から徳についての考え方を得ることができる。

 

 

徳の力はどこまで届くか

 これまでしてきたような徳についての説明は、倫理的な判断を文化相対主義的なものにしてしまうように見える。たとえば軍人の国での勇敢さと、平和主義の国での勇敢さは異なるはずだからだ。このような不一致があることは、われわれの徳の理論にとって致命的なものなのだろうか。もちろんそうではない。

 なぜか。それは徳というものを得るためには向上心が必要であったからである。教師の模倣を越えて、彼らがそのように行為する理由を見つけ出さなければならない。有徳になることを可能にするのは、自分や他人のしていることに説明を与え、理由を要求したり与えたりする衝動である。

 それはそうかもしれない、しかし社会の大多数の人は自分の社会の社会的文化的基盤を批判しようとはしないではないか―――われわれはこのことについても説明する必要があるだろう。

 次のように考えることが役に立つ。勇敢になろうとしている人々は、他の人々から区別されるようなかたちである種の理由や感情や態度を共有する。彼らは「勇敢な人々の共同体」を形成しているのだ。この共同体はもちろん目に見えるようなものではない。《正直な人になることは、少なくとも、ある種の行為をし、ある種の行為をしないようになることであり、ある種の行為にショックや反感を覚え、ある種の行為に魅かれるようになることである》(p95)。さて、もし彼が正直な人になれば、ある時点でたとえば家族のすることにショックを受けるようになるかもしれない。このことは、「正直な人々の共同体」「家族」の二つの共同体に属していることを意味している。*1

 そこでわれわれは徳の学習を継続するか否かを選ぶことができる。しかしほとんどの場合、実際上の理由からそれを妨げられるのだ。というのも、家族という共同体は目に見えるもので、現実に安心感や支援を与えてくれるものだからである。一方で、正直者の共同体は目に見えず、日々の生活を営むうえでは助けにならない。

 

徳倫理学について

徳倫理学について

 

 

徳とよろこび

 徳と技能は、感情や関心という点で異なる。熟練の配管工は無関心な態度で水漏れを直すことはありうるが、ただお金を差し出すだけで相手の反応に無関心な人は有徳な人ではない。アリストテレスは「有徳な人」と「自制心のある人」を区別した。自制心のある人は有徳な人と同じように行為するが、よろこんで何かを与えはしない。行為と感情が調和していない。《有徳な人は自分のすることを快く思うという点で他の人から区別される》(p115)。

 まとめると次のようになるだろうか。

  1.  徳と技能は学習の必要性と向上心という点で類似する。
  2.  技能は感情面のあり方には関係しないが、徳は関係する。
  3.  仮に同じ行動をしているとしても有徳な人と自制心のある人は異なる。前者は行為を快く感じ、後者は不快に感じる。(「感情面のありかた」の区別)

 とはいえ、技能は無関心な態度をとれるというだけで、よろこびを感じることは当然ある。だからここでも技能からの類推をすることができると考えられる。つまり、傾向性の発達に応じてよろこびが生まれることを、技能は教えてくれるのである。

 

 このことはチクセントミハイの心理学的研究によって裏付けを得ている。彼の研究のもっとも印象的な成果の一つは次の誤解を取り除いたことにある。つまり「私たちが最も喜びや満足を覚えるのはくつろいでいて何もしていないときか、努力を要することを何もしていないとき」だという誤解である。*2わたしたちがもっともよろこびを覚えるのは目標志向的な活動に従事するときである。

 主要な諸目標が調和のとれたかたちで構造化され、状況への積極的な関与を必要とする何らかの目標を達成することに意識を集中しているとき、「正さなければならない無秩序や防ぐべき自己への脅迫もないので、注意が自由に個人の目標達成のために投射されている。私たちはこの状態をフロー体験と呼んでいる」。

 フロー体験は積極的な関与と熟練の技能を要する活動をよろこびながら行うことを言いあらわしている。フロー体験は(1)自己目的的であり(2)その活動に従事する人が自己を意識していないという著しい特徴がある。たとえばピアニストはキーを正確に弾くことや、いまからBフラットに移行するということにふつう意識を向けていない。チクセントミハイは主に技能を中心にフロー体験を説明しているが、これを徳について述べることは適切だろうか。適切だ、と答えることが本書の主張のひとつである(p121第二段落→p126第一段落まで)。

 

徳は何の役に立つのか?

徳は何の役に立つのか?

 

 

徳の多数性と統一性

 《人がある一つの徳を申し分なく発揮できるかどうかは、その人がその徳以外の面でどのような性格をしているかによって決まる》(p139)。たとえば気前の良さは高慢な態度と衝突し、うまく発揮できないだろう。このことはわかりやすいが、では、アリストテレスのいうような徳の統一性を認めるべきだろうか。すなわち、人がある一つの徳をもっているなら、その他のすべての徳をもっている。

 たしかに徳同士には関連性が認められる。しかしその関連性のあるまとまりが一つだという理由はまだない。結論から言えば、これらは実践的知性によって相互に結び付けられているため、そのまとまりは独立ではありえない。

 自然的な徳については、勇敢さはあるが気前のよさはあまりないといったようなことがありうる。しかし徳というものは知性(=実践的知性)によって導かれるものである。しかしたとえば、徳を発達させる教育は、勇敢さや気前のよさといった項目を独立に伝えるものではありえないだろう。ある一つのエピソードに見出される徳は複数ある。つまり実践的知性は全体的に発達するのである。もし徳というものが独立したいくつかのまとまりで構成され、それに応じた小さな実践的知性があるとすれば、われわれはまず状況がそのどちらに対応するかを吟味したうえで、それから結論を出すことになる。だが別々の徳に備わる別々の実践的知性が、双方の徳の要求を比較しながら評価し相互に受け入れることのできる結論に達することがなぜ可能なのか、まったく理解に苦しむ。

 

 では徳の統一性を認めるとしよう。軍人が発揮する徳とアルツハイマー患者の介護者が発揮する徳は異なるはずである。すべての徳を発揮できないといけないなら、有徳な人は軍人と介護者の生活を送らなければならないのだろうか。つまり、有徳な人はあらゆる点で有能である。このようなバカげた結論を避けるには次のようにいうしかない。つまり、人は多様な生活を送らなくても、すべての徳を発揮することができる、と。だが、この結論も受け入れがたい。

 ここで「生活の環境」と「生きることそれ自体」を区別しよう。生活の環境はあなたにとってはどうにもならない要因であるが、生きることそれ自体はその生活の環境にどのように対応するかを意味する。あなたは親を選べないが、その親とどういう関係を築くかは選べる。《古代の道徳哲学で用いられている比喩で言えば、生活の環境はあなたが手を加えることのできる素材であり、生きることはその素材に手を加えて何かを作り出すことである。よく生きることは、それを上手に行うことにほかならない》(p157)。

 徳は生活の環境の一部ではない(自然的な徳は別!)。徳は生活の環境のなかでどのように生きるかの一部であり、われわれはみずからの働きかけによって徳がそこにあるようにしなければならない。生活はさまざまに異なり、それらの生活を有徳に生きる仕方には多くの種類があるのだ。軍人の生活にはとりわけ勇敢さが、介護者の生活にはとりわけ忍耐が必要となるが、そういうもろもろの徳はどちらの生活にも必要であるが、その統一のされ方は生活によって違いが出る。

 つまりあらゆる種類の生活に適した有徳なありかたというものは存在せず、理想的なありかたというものもない。《徳というものは、これがこれくらいあればよいというかたちで、万人に合うように前もって定めておくことができないのである》(p160)。われわれは徳を組み込まれた環境のなかで発達させるが、それはその環境にうまく対処するために必要とする徳である。《私たちの理解では、徳を発揮することは、生活の環境がどのようなものであれ、さまざまな環境のなかでなしうることをなすことなのである》(p161)。

 

 

 

徳倫理学基本論文集

徳倫理学基本論文集

  • 発売日: 2015/11/10
  • メディア: 単行本
 

 

 

 

 

 

*1:ここで指摘しておくべき最も重要なことは、正直な人になることは、人を当初の文脈から引き離す可能性を秘めている、ということだと思われる。以前読んだ『依存的な理性的動物』の記事を参照。

*2:このことはエピクロスの快楽主義を否定するものだろうか。そうではない、と考えられる。

にんじんと読む「超高齢社会の法律、なにが問題なのか(樋口範雄)」🥕

第一章

 高齢者の問題は法律問題でもある。すなわち、たとえ裁判にならないとしても、法律家の助言を必要とするような場面が多い。

 

超高齢社会の法律、何が問題なのか (朝日選書)

超高齢社会の法律、何が問題なのか (朝日選書)

  • 作者:樋口範雄
  • 発売日: 2015/12/10
  • メディア: 単行本
 

 

第二章

 高齢者とは、65歳以上の人のことである。

 高齢化社会とは、人口の7%が高齢者であることである(日本:1970年)。

 高齢社会とは、人口の14%が高齢者であることである(日本:1994年)。

 2007年の日本は高齢者比率が21%を超え、超高齢社会となった。

 →→→老人が長生きすることが問題なわけではなく、若者の比率が少ないのが問題。

 

 このような社会では、「高齢者の自己決定の尊重」と「高齢者の保護」とのあいだの調和が重要な課題であるが、たとえば高齢者から運転免許を取り上げるべきだという短慮も多い。車は高齢者にとって移動の手段であり、取り上げるよりはむしろ新たな車両の開発や検査等に力を注ぐべきだと考えられる。

 

 にんじんの興味あるところはここまでなのだが、以下の章では具体的な例をみていっている。興味のあるかたはどうぞ。にんじんは上の赤字の部分がすべてだと思う。

 

第三章 医療―インフォームドコンセント安楽死

第四章 成年後見人制度

第五章 住まい

第六章 財産

第七章 虐待、生きがい

 

 

経済学をたらたら勉強したメモ

経済学とはなにか

 経済学とは、さまざまな経済主体が市場で財やサービスやお金を交換し合う経済活動を、ある仮説をもとにモデル化し、説明しようとする学問である。ひとつひとつの経済主体について扱うものをミクロ経済学、国民経済全体をひとくくりにして扱うものをマクロ経済学という。

  •  経済主体は経済的に合理的な行動をとると仮定される。合理的行動とは、ある経済的な目的を達成するために、与えられた制約の中でもっとも望ましい行為を選択する行動のことである。
  •  経済主体は主体的な意思決定をすると仮定される。つまり、経済的な選択にはインセンティブ(誘引)があったと仮定する。*1

 財やサービスの価値は希少性に依存している(希少性の原理)。希少性とは生産資源やそれから生産される財やサービスの利用可能量が,人間の欲望をみたすためには不足している状態のことをいう。利用できる資源は希少であるから、何かを選ぶことは何かを失うことである(トレードオフ)。このとき失ったものを機会費用と呼ぶ。たとえば1時間のうち30分を勉強に使うと、その時間にできた他のすべては機会費用である。

 

 

 

*1:読む限りインセンティブは原因というより目的という感じがする

にんじんと読む「経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか(C・ダグラス・ラミス)」🥕

 

 にんじんかみ砕き。他にも憲法9条のことなど書いてますが、経済成長のところと関係あるところだけです。

 

 まずこの本の主張は「経済発展論は非現実的だ」というものです。経済の発展とは、つまり所得倍増のことでGNPという指標によって測られるとされてきました。GNPとは国民総生産のことで、ある一定期間にある国民によって新しく生産された財(商品)やサービスの付加価値の総計を意味します。つまりその国の儲けの総額といえます。

※GNP以外にもGDPというものもよく聞くと思いますが、これは国内総生産のことです。GNPとGDPを並べてみると国民/国内総生産という違いがあることに気づきます。つまりGNPは国籍が、GDPはあくまで国土の範囲での儲けが算出されているのです。

 どう非現実的かというと、たとえばいまの地球環境はたいへんな危機にあって、資源消費の90%を抑えるべきだという提言もなされました。しかしその一方で、電気消費量が上がったと喜ぶ記事もあります。なぜ喜ばしいかというと、消費量が増えているから経済が回復してきている、というのです。この二つの主張が当たり前のように並び立ち、将来のわれわれが迎えるであろう環境の深刻さは現在の経済観になにひとつ影響を与えていないようです。まるで氷山にぶつかることをわかっているタイタニックが、それでも進路を変えずに航行を続けているかのようです。誰かがエンジンを止めろと言ったら非現実的だといわれるのが現代の常識ですが、止めない方が非現実的なのは明らかです。ここでいうタイタニックとは世界経済システムのことであり、ここの乗組員は国家、そしてそこにいる国民です。

 

 この経済発展論が生まれた瞬間を、私たちは指摘することができます。それは1949年1月20日アメリカ合衆国大統領トルーマンの就任演説です。彼はそこで《未開発の国々に対して技術的、経済的援助を行い、そして投資をして発展させる政策》を発表しました。これはそれまでになかったことで、発展というものが国策になった瞬間であり、発展というものの言葉に新しい使い方を付与した瞬間でした。といいますのは、そもそも発展という言葉はあらゆる変化に使える言葉ではなく、一種の構造に従うような変化に対する言葉です。粘土から陶器をつくることを粘土の発展とはいわないし、木造家屋は木の発展ではありません。ヘーゲルは「人間の精神あるいは歴史そのものの精神が発展する」と述べましたが、当の人間自身は次の段階や目的などは意識することはできず、いわば副作用のような形で発展が起こるのです。トルーマンはこれを、国に対して、しかも自分以外の国に対して、発展させると発表しました。

 対象となるのは未開発の国々です。それが未開発と呼ばれるのは、彼らが欧米の経済制度にはいっていないからです。こうして始まった大規模な政策は、しかし、あの発展という言葉の使用によってその搾取をうまく隠すものでした。ファシズムの頃は相手の国からものを奪ってやるという意識がありました。第二次世界大戦終結ファシズムも終わると、今度にやってきたのは例の経済発展論です。搾取を「発展」と呼べば、まるで可能性の開花のように聞こえてしまう。

 イヴァン・イリイチは「貧困の近代化」という言葉を使いました。経済発展がどうこういう前から貧富の差はありましたが、その差を経済発展が合理化したのです。貧富の差は経済発展の源です。貧乏な国の人が金持ちの国に経済発展によって追いつくことができるとみんなが信じています。実際、そうなった国もありますが、レポートを見るとマイナス成長のところが非常に多い。じゃあその国も発展させないと駄目だということになるわけですが、そうはいかない。理由は二つあります。(1)地球がもたないこと。もしロサンゼルスの消費量が世界中に拡がるようなことがあれば、地球が五個ないと成り立たないという計算があります。大げさかもしれません。でも地球は一個では足りないということです。また、世界中の人が自分の車をもったら燃料はどれぐらいもつかというと、数か月でした。(2)みんながリッチにはなれないこと。リッチというのは今では経済力があることですが、それになぜ力があるかというと、他人が金を持っていないからです。

 経済発展は貧困を別の種類の貧困に作り替えることだといえます。貧困を四種類にわけるとすると(1)伝統的な貧困=自給自足であまりものをもたないがそれで満足している、(2)絶対貧困=食うものがない薬がない生きられない、(3)金持ち/貧乏という枠組みでの貧困=ある社会に経済力のある人がいれば、貧乏人が必ずいる、(4)根源的独占から生まれた貧困=新しい製品を買わなければ生活できない。経済発展は一つ目を、三つ目と四つ目に作り替えることです。一番目の人たちは自給自足で満足しているから、あまり商売相手にならないのです。それを作り替えることによって商売相手にする合理化が、貧困の近代化ともいえるでしょう。

※この四番目について説明しておきます。これはつまり、あればいいな、が、なくてはならない、に代わってしまうことです。欲しい欲しくないは別になって、それがないと生活ができなくなってしまい、買えない人がみじめだとされます。たとえば車、そしてパソコン……これは技術発展によって絶えず作り続けられる貧困です。

 

 

 

 

にんじんと読む「徳は知なり(ジュリア・アナス)」🥕 第六章まで

第一章 序論

 本書の目的は【徳について説明すること】である。その必要はあるのだろうか。

  1.  徳とはなにかについての共通理解を取りだすことで、徳を中心におく倫理学理論のあいだで起こる論争がはっきりわかるようになり、見渡しがよくなる。
  2.  徳を発揮するためには実践的推論が不可欠であり、それがどのような推論であるのかは実践的な技能を発揮する人のうちに見出される推論と比較することによって明らかにできる―――つまり徳は技能と似ている。そしてこの考え方が本書のユニークな点であり、現代の論争にも適用できる。

第二章 徳、性格、傾向性

 徳は人の持続的な特性であり、人が一定のあり方をする傾向性である。なんらかの徳を身に着けているというのは、ある一定の仕方で行為する傾向があるということなのである。そして徳は状況に対する選択的な反応を通じて発達する。

 あなたは「徳」など縁遠い話だと思っているかもしれないが、たとえば気前のよさはひとつの徳である。ジェーンが気前がいい、ということはジェーンの行為が気前がいいわけでも、ジェーンが気前のいい気持ちだということではない。気前のよさはジェーン自身の特性なのである。つまり徳とは次のような特性をもつ。

  1.  persisting : 一貫して存続する
  2.  reliable:当てにすることができる
  3.  characteristic:性格をあらわす

 まず第一に、徳とは単に持続するだけではなく発達する。ジェーンが気前のいい行為をすることで気前の良さは強化され、けちけちした反応によって弱まる。

 第二に、徳はあてにすることができる。気前のいいジェーンがけちけちしていたならば、われわれは驚き、なんらかの説明を求める。われわれは気前のいいジェーンに対してある一定の反応を期待することができる。もちろん、ある程度までの話である。

 第三に、徳は性格をあらわす。徳はその人にとっての根深い特性で、その人がどのような人であるかの中核をなす傾向性である。われわれは徳の面から人の性格について考える。たとえば数独がうまくなることは性格を変えないが、思いやりから行為することができるようになった人は以前とは違った性格をもつ。

 

 このように論じてきたとき、徳について重要なポイントが既に示されている。われわれは議論を次のようにすすめることはしない。つまり、①有徳な判断を下すとは?②その判断を下した人はどのようにそう行為することを動機づけられるのか?という議論である。われわれが主張しているのは、われわれはすでに動機づけられており、動機付けが経験を通じて発達したことでいまあるようなものになっているのだ。たとえば、「勇敢な行為とは大型犬から少女を守ってやることだ」と勇敢な行為を説明し、「どのようにして少女を守る動機付けをもつんだろう」ということを説明する仕方は間違っている。そうではなく、少女を守るために大型犬の前に飛び出した少年ははじめからそうした動機付けをもっていたのである。

勇敢な人とは、何か別の仕方ではなく、まさに勇敢な仕方で行為し、推論し、反応するように性格の傾向性が形づくられている人にほかならない。徳が初めから活動にかかわり、発達をともなう傾向性であるのはこのためである。それは外からの度重なる影響によって受動的に生み出されるものではない。徳は、活動する生き物としての私(やあなた)が、育成と教育を通じて性格を一定のあり方への発達させる、まさにそのあり方にほかならない。

徳は知なり: 幸福に生きるための倫理学

 

 だがしかし、こうも言えるのではないか、とあなたは思うかもしれない。「気前のいい人っていうのは、気前のよい行為をして、気前のよい感情を抱く傾向がある人なのではないか」と。このとき、あなたは傾向性よりも行為や感情を基礎的なものとみなしている。このことも批判していきたいことのひとつである。

 また、もし気前のよさが、気前のいい行為・感情を抱く傾向に過ぎないとすれば、その傾向性にわれわれが価値を認めるのはなぜなのか。「それはその行為や感情に価値があるからだよ」というのが普通の答えだろうが、あなたは「あいつは気前がいいんだよ」というとき、ほかならぬあいつ自身を称賛しているはずである。この称賛が実は気前のいい行為と感情をどれだけ抱くかという計算にもとづいているんだというのはばかげている。

 

 徳を身に着けるためには熟慮と経験が必要で、時間を要する。習熟によって一定の方向に導かれるわけだ。「いや、だとすると徳とは習慣、つまり機械的な反応にすぎないのではないか」と言いたくなるかもしれない。たとえば会社に行くという習慣を続けているとボーッと歩いていたらいつのまにやら会社の前まで来てしまうことがある。あそこで右折するはずだったのにいつも通り左折してしまったのだ。

 徳は多くの点で機械的反応と異なる。まずは習熟が機械的反応につながらない事例をみよう。ピアニストは楽譜通り演奏することに慣れることで機械的反応を得られるようになったのだろうか。そうではない。ピアニストはたしかに意識的な入力は行わなくなったが、そこで生まれるのはピアニストの考えが吹き込まれた演奏であり、そして何度も自分の演奏を改善し続ける。もし実践的な技能が機械的反応に変わるなら、それは硬直し、衰退していく。こうした技能は手に入れたら変化しないものではない。たえずできるかどうかチェックしなければならない。それはつねに発達の過程にあり、弱まってしまうこともある―――徳の場合も同様である。徳は実践的技能ときわめて似ているのだ。

 

徳は知なり: 幸福に生きるための倫理学

徳は知なり: 幸福に生きるための倫理学

 

 

第三章 技能を要する行為と有徳な行為

 技能と徳は似ているが、すべての技能が徳と似ているわけではない。技能は「学習の必要性」と「駆り立てる向上心」のあるとき、徳とよく似ているのである。技能と徳はなによりも実践にかかわるものであるが、それに加えて学習というものが大きな類似性を作っている。

 たとえば建築などは猿真似だけでできるようになるものではなく、単なる機械的反復以上のことを含んでいるがゆえに、駆り立てる向上心というものも最初から必要となる。学習者は別のやり方ではなくこのやり方である理由はなんなのか、何が重要で何が重要ではないのかを理解しなければならない。単なる猿真似は技能習得の観点から見れば失敗である。ピアニストになるためにはブレンデルのものまねができるだけではいけない。本当の学習者はブレンデルと異なるやり方で演奏しつつ、ブレンデルの演奏の核心をつかんでいるような演奏法を習得するだろう。つまり「自分のものとして」習得しなければならない。向上心がなければ、技能は単に繰り返しや機械的反応になってしまう。

 また、その技能が複雑であるとき、熟練者が学習者に伝えることのなかには理由を与えることが含まれる。そのように電線を配線する事実だけではなく、そうする理由も知らなければならない―――技能の伝達と習得には言葉で説明することが必要だろうか。まさにそうだと考えられる。そもそも技能というものを広く解するからそのような疑問が起きるのであって、言語で説明できることが「こつ」と「技能」を区別している。

 

 

 さて、以上が徳と技能の類似性の基礎にある特徴である。徳とは技能と同様に学習にかかわるものであり、徳について知ろうとするときも学習の観点から出発しなければならない(どのようにして徳を習得するか?)。

 われわれはいつでも、徳を一定の文脈のなかで学習する。気前のよさというものを抽象的に学習することなどということはなく、たとえばホームレスのために家をつくってあげるというようなことでそれを学習することもある。(「徳は常に組み込まれた文脈のなかで学習される」)。この文脈には多くの種類があり、重複から矛盾まで互いにさまざまな関係にたつ。これの学習は知性をともなわない吸収ではなく、やはり向上心があってのものである。その時点ではその徳を学んでいることさえわからないこともある。

 初めのうちは子どもは手本となる人物を見習う。親が犬を追い払っているのを勇敢なこととして覚えるところから始まる。しかしそれと同時に三つの点で向上心を抱くようにならない限り、徳が生まれることはない。(1)どうしてそうしたのかを理解し、その犬は危険であるというような、当の行為に関連のある要因を理解する。(2)似たような状況におかれたときに、自分だけで勇敢に行為する。(3)自分ではまだへまをやらかす可能性があり、うまくやれないかもしれないことを正しく認識する。

※しかし、子どもがこういう向上心をもつだろうと信じるのは楽観的ではないか、とも思える。たしかにまったく向上心をもたず人のやっていることをただ真似をして根拠など理解しようとせず、自分で考えようとしない人間もいるだろう。このような人は世間と向き合うなかで自分の反応の不適切さに気づき、結局は向上心をもつように駆り立てられるだろう。

  次に「理由を与えること」について。徳の学習には言葉で説明されないことも多く含まれているし、そのほうが普通に思える。しかし徳を理性にもとづかない「コツ」とみなすことには問題がある。(1)アリストテレスは人間に先天的に備わっている傾向性である自然的な徳と、本来の徳とを区別した。自然的な徳しか持っていない人は、自分がすることに対して理由を要求することも与えることもできない。たとえば、人のいうことをなんでも真にうけてはならないということを学習したことがなければ、生まれつき勇猛な人は冗談にマジギレするかもしれないし、生まれつき共感しやすい人は詐欺にあうかもしれない。(2)倫理的な不一致について理にかなった説明を与えられなくなる。ある忠実な人に「友人に忠実でありたいが、あいつは麻薬をしている。どうすればいい」と尋ねるとしよう。この場合友人関係を解消することに賛成か反対かはともかく、ともかく何らかの理由を述べることができるはずである。もしその人が「説明しようがない。ほかの忠実な人がどうするかを観察しておけばどうだ」と言ったら明らかにばかげている。

 有徳な人の反応は即座になされるものであるが、それは知にもとづいた反応なのである。それは教育にもとづいたものである。

 

 

[ケンブリッジ・コンパニオン] 徳倫理学

[ケンブリッジ・コンパニオン] 徳倫理学

  • 発売日: 2015/09/19
  • メディア: 単行本
 

 

 

第四章 徳の力はどこまで届くか

 有徳になるためにはいかに行為すべきか学習する必要がある。しかしそれにしても、軍人の社会で勇敢さについて学ぶことと、平和な社会で勇敢さについて学ぶことはまったく違うように思える。二人は同じ勇敢さについて話しているのだろうか。つまり徳の視点から倫理学を論じることは、その文化でしか通用しないような、そういう偏りがあるようにも見えるのである。

 この点を説明するものが駆り立てる向上心であり、理由を要求したり与えたりする衝動である。とはいえ、そんなことをする奴は実際にはそれほどいないだろうと思われる。社会の大多数の人は自分の社会の社会・文化的基盤を批判し始めることができない。親のやり方を改善すべきと思えても、根本的な変革が必要であると考えるひとはほとんどいないように。だから、この説明では不十分なのだ。

 徳の習得のための学習ははじめ教師と額守者のあいだで行われるが次第に範囲が広がっていく。このことを考えるにあたって、ある共同体の一員になるという視点から考えるのが役に立つだろう。正直者になることは単に家族のすることをするようになることではない。それどころか、家族のやることに失望したりもするようになるかもしれない。その人は今や二つの共同体に属している。このことが、当初の文脈から身を引き離す可能性を秘めているのだ。

 しかし先ほど指摘した通り、自分の社会を批判し始める人はほとんどいない。なぜなら、われわれは引き離されることに抵抗するからである。家族や社会の共同体は現実に安心感や支援を与えてくれるが、正直な人々からなる共同体は目に見えない。日々の生活を営む上ではほとんどなんの助けにもならないのである。

 

 

第五章 徳とよろこび

 徳と技能とが違っているのはどんなところだろうか。技能は感情面のありかたとは無関係に発揮することができる。金を差し出すだけで相手の反応に無関心なやつは気前のいいやつとはいえない。アリストテレスは「有徳な人」と「自制心のある人」を区別している。喜んで何かを与える人と、与えはするが不愉快な人との明白な区別である。

 何を為すべきかを認識しあとでその行為の動機付けを見つけ出そうとする人は有徳な人ではない。徳を発達させることは、われわれが最初からもっていた動機付けを教育することである。正直な人は正直に行為するだけでなく、誰かの不正直さに嫌悪感を抱く。徳は情動的感情をもつこととそれを表現することを含む。すると徳を身に着けるとは情動を教育することでもあるわけだが、それがどういうかたちをとるのだか統一見解はない。というのも、情動というのがなんだかよくわからないからだ。しかし徳は感情が推論や思考と調和することを要求するというのは間違いない。アリストテレス曰く、有徳な人は自分のすることを快く思うという点で他の人から区別される。

 

 

第六章 徳の多様性と統一性

 人がある一つの徳を申し分なく発揮できるかどうかは、その人がその徳以外の面でどのような性格をしているかによって決まる。たとえば、気前のよさは高慢な態度と衝突するときには発揮することが容易ではない。アリストテレスは次のように主張した。すなわち、その人がある一つの徳をもっているなら、その他のすべての徳をもっているのであり(「すべて」かどうかはまちがいなく議論の余地がある)、もし一つでも徳を欠いているなら一つも徳を持っていない―――これが徳の統一性と呼ばれる。たとえばピアニストは、まず指の動かし方を学び、それからテンポを学び……そうしてようやくその統合をどうするかを考えるわけではない。

 

 

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