にんじんブログ

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にんじんと読む「経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか(C・ダグラス・ラミス)」🥕

 

 にんじんかみ砕き。他にも憲法9条のことなど書いてますが、経済成長のところと関係あるところだけです。

 

 まずこの本の主張は「経済発展論は非現実的だ」というものです。経済の発展とは、つまり所得倍増のことでGNPという指標によって測られるとされてきました。GNPとは国民総生産のことで、ある一定期間にある国民によって新しく生産された財(商品)やサービスの付加価値の総計を意味します。つまりその国の儲けの総額といえます。

※GNP以外にもGDPというものもよく聞くと思いますが、これは国内総生産のことです。GNPとGDPを並べてみると国民/国内総生産という違いがあることに気づきます。つまりGNPは国籍が、GDPはあくまで国土の範囲での儲けが算出されているのです。

 どう非現実的かというと、たとえばいまの地球環境はたいへんな危機にあって、資源消費の90%を抑えるべきだという提言もなされました。しかしその一方で、電気消費量が上がったと喜ぶ記事もあります。なぜ喜ばしいかというと、消費量が増えているから経済が回復してきている、というのです。この二つの主張が当たり前のように並び立ち、将来のわれわれが迎えるであろう環境の深刻さは現在の経済観になにひとつ影響を与えていないようです。まるで氷山にぶつかることをわかっているタイタニックが、それでも進路を変えずに航行を続けているかのようです。誰かがエンジンを止めろと言ったら非現実的だといわれるのが現代の常識ですが、止めない方が非現実的なのは明らかです。ここでいうタイタニックとは世界経済システムのことであり、ここの乗組員は国家、そしてそこにいる国民です。

 

 この経済発展論が生まれた瞬間を、私たちは指摘することができます。それは1949年1月20日アメリカ合衆国大統領トルーマンの就任演説です。彼はそこで《未開発の国々に対して技術的、経済的援助を行い、そして投資をして発展させる政策》を発表しました。これはそれまでになかったことで、発展というものが国策になった瞬間であり、発展というものの言葉に新しい使い方を付与した瞬間でした。といいますのは、そもそも発展という言葉はあらゆる変化に使える言葉ではなく、一種の構造に従うような変化に対する言葉です。粘土から陶器をつくることを粘土の発展とはいわないし、木造家屋は木の発展ではありません。ヘーゲルは「人間の精神あるいは歴史そのものの精神が発展する」と述べましたが、当の人間自身は次の段階や目的などは意識することはできず、いわば副作用のような形で発展が起こるのです。トルーマンはこれを、国に対して、しかも自分以外の国に対して、発展させると発表しました。

 対象となるのは未開発の国々です。それが未開発と呼ばれるのは、彼らが欧米の経済制度にはいっていないからです。こうして始まった大規模な政策は、しかし、あの発展という言葉の使用によってその搾取をうまく隠すものでした。ファシズムの頃は相手の国からものを奪ってやるという意識がありました。第二次世界大戦終結ファシズムも終わると、今度にやってきたのは例の経済発展論です。搾取を「発展」と呼べば、まるで可能性の開花のように聞こえてしまう。

 イヴァン・イリイチは「貧困の近代化」という言葉を使いました。経済発展がどうこういう前から貧富の差はありましたが、その差を経済発展が合理化したのです。貧富の差は経済発展の源です。貧乏な国の人が金持ちの国に経済発展によって追いつくことができるとみんなが信じています。実際、そうなった国もありますが、レポートを見るとマイナス成長のところが非常に多い。じゃあその国も発展させないと駄目だということになるわけですが、そうはいかない。理由は二つあります。(1)地球がもたないこと。もしロサンゼルスの消費量が世界中に拡がるようなことがあれば、地球が五個ないと成り立たないという計算があります。大げさかもしれません。でも地球は一個では足りないということです。また、世界中の人が自分の車をもったら燃料はどれぐらいもつかというと、数か月でした。(2)みんながリッチにはなれないこと。リッチというのは今では経済力があることですが、それになぜ力があるかというと、他人が金を持っていないからです。

 経済発展は貧困を別の種類の貧困に作り替えることだといえます。貧困を四種類にわけるとすると(1)伝統的な貧困=自給自足であまりものをもたないがそれで満足している、(2)絶対貧困=食うものがない薬がない生きられない、(3)金持ち/貧乏という枠組みでの貧困=ある社会に経済力のある人がいれば、貧乏人が必ずいる、(4)根源的独占から生まれた貧困=新しい製品を買わなければ生活できない。経済発展は一つ目を、三つ目と四つ目に作り替えることです。一番目の人たちは自給自足で満足しているから、あまり商売相手にならないのです。それを作り替えることによって商売相手にする合理化が、貧困の近代化ともいえるでしょう。

※この四番目について説明しておきます。これはつまり、あればいいな、が、なくてはならない、に代わってしまうことです。欲しい欲しくないは別になって、それがないと生活ができなくなってしまい、買えない人がみじめだとされます。たとえば車、そしてパソコン……これは技術発展によって絶えず作り続けられる貧困です。