にんじんブログ

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にんじんと読む「実在論の新展開(河野勝彦)」🥕 カンタンメイヤスーの思弁的唯物論

カンタン・メイヤスーの思弁的実在論

 カントによる認識論的主観主義(認識は対象に従うのではなく、対象が認識に従う)は、対象というものが主観の加工を経て生み出されるものだとした。われわれにあらわれるものは純粋な客観などではなく主観と緊密に相関しているとする〈相関主義〉のはじまりであり、現象の背後にあるはずの「物自体」には決してたどり着けないとした。しかし「物自体にはたどり着けない」としながらも、物自体の存在について触れるカントの不徹底を反省した現代哲学はこの物自体について存在さえ認めず、認識不可能で思考不可能であるとした。前者を〈弱い相関主義〉、後者を〈強い相関主義〉と呼ぶ。

  •  カントは「物自体界」に無矛盾律を認める。物自体が存在しなければ現象も存在しないはずだが現に現象は存在しているのだから、現象が存在せずかつ存在するという不合理な命題を受け入れることはできないから。一方で、理由律は否定する。物事には理論理性で説明できないこともある。たとえばカントは神の存在証明は不可能であると断じている。理由律は経験的な「現象界」においてしか成り立たないのである。

 メイヤスーはこれらの流れを受けて、強い相関主義者が物自体を思考不可能だとしたことについて、いくら思考不可能でもやっぱり物自体があることは動かせないだろうと考えた。いくら思考不可能だといったところで、その存在自体は揺らがないはずだ。

 彼はその点についてもう一度考え直すために、物自体の存在を否定することだけをやめて、相関主義の流れをすべて受け入れる。すなわち、①われわれが関われるのは相関関係だけだということである(主観と客観の循環を受け入れる)。そして、②そこには究極的な理由がないのである(理由律の否定。物自体に達することが出来ない)。世界のすべてのものの存在には、なんの理由もない。これを「無理由の原理」または「事実論性の原理」と呼ぶ。

我々は、ある規定された存在者が実在するということが必然的であると主張するのではなく、すべての存在者は実在しないことができるということが絶対的に必然的であると主張するのである。

有限性の後で: 偶然性の必然性についての試論

  到達できない世界は、いかなるものも不可能ではないハイパーカオスである。理由がないのは事物だけではなく、世界の法則さえもそれが成り立っている理由がない。すべては究極的に偶然的である。

 メイヤスーの課題はここから「物自体の存在」と「無矛盾律」を導出することである。それはカントが正当化することなく単に認めることにした二つの言明であった。

  •  諸事実は偶然的である。ここには二つの解釈がある。(1)もし何かが存在するならそれは偶然的である、(2)事物が偶然的であること。そしてそのような偶然的な事物が存在しなければならないこと。メイヤスーが行うことは二番目の解釈を正当化することである。この理屈は一言でいうと、「事物なしにカオスとは言わんやろ」である。
  •  ハイパーカオスはそれを縛るいかなる原理もないため、無矛盾律にも縛られないかのように思える。思惟の法則としては無矛盾律を充たさないことはありえないが、存在の次元でそれが絶対にないとはいえない。にもかかわらず、メイヤスーは無矛盾律が成り立つという。なぜならハイパーカオスがハイパーカオスであるゆえに生みだせないものがあるからだ。それは「必然的な存在者」である。カオスがこれを生みだすと、そこがカオスではなくなってしまう。このことを受けてメイヤスーは、「矛盾的なものを生みだすとすれば必然的な存在者を生みだしてしまう」ことを論証しようとする。矛盾的な存在があったとしよう。それは既に、それでないものである。ゆえに「変化」ということがありえない。つまり矛盾的な存在は変化を免れる。そこがカオスであるのに! というわけで無矛盾律は成立する。

 それにしても、根源的にはハイパーカオスの世界でありながら、なぜわれわれは安定して生活ができているのだろうか。少なくとも今のところ、ボールを手から放して上にのぼっていったことはない。もちろんそのようなことが成り立っているのも偶然的なことなのだろうが、しかしそもそも根本的に、「すべてが偶然でありながら安定的である」などということがあるのだろうか。たとえばサイコロを考えよう。この世界サイコロは同じ目ばかりを出し続けている。ならばそこに「イカサマ」といった必然性を見出すのは当然のことではないだろうか。つまり安定的である以上、偶然であるはずがない。/しかしメイヤスーはこれを否定する。君はサイコロでたとえたが、ハイパーカオスにおける可能性は無限大なのだ。6回に1回程度の割合でそれぞれの目が出るはずだから、君はそこに偏りを感じるだろうが、この宇宙サイコロはそのような議論を許さないほど徹底的に多様なのである。確率的なサイコロと、宇宙サイコロを混同してはならない。安定的でありながら偶然的であるのは、ありうる。

 以上のメイヤスーの立場は、「因果的必然性」を認めないことを帰結する。水が100℃で沸騰するのは偶然的なことでありそこには究極的に根拠はなく、いわばいつでも崩壊可能なのである。

 

実在論の新展開

実在論の新展開

  • 作者:河野勝彦
  • 発売日: 2020/06/19
  • メディア: 単行本
 

 

にんじんと読む「心臓・血管の病気にならない本」🥕

 厚労省によれば2017年の死亡者のうち、死因第一位:がん、第二位:心臓の疾患、第三位:脳血管の疾患であり、その割合は第二位と第三位を合わせるとがんで亡くなった数に匹敵します。というわけで「がん」「心臓・血管」で死ぬ可能性が高いのですが、この二つのうち、予防しやすいのが心臓・血管の病気です。

 自らの心臓・血管の状態を知るための重要なサインは血圧と脈拍です。脈拍は心臓の仕事のペースで、血圧は心臓がギュッと血を送り(上の血圧)ポコッと元の形にふくらむ(下の血圧)の二つの値からできていて体の状態を敏感に反映します。毎日血圧を測定して徐々にその値が上昇しているなら、血管に何らかの問題が起きていて、血液を送るのにより多くのパワーが必要になっていることがわかるのです。脈が少なく血圧も低いなら、一回のドクンで十分体を動かせているということです。

 余裕がある値は「血圧:120以下,80以下、脈拍:60拍」

 

 心臓・血管の病気はじわじわ体をむしばんでいくもので、突然死するようなものではありません。しかし血栓ができたときは直接命にかかわります。

 血液の中にはマクロファージという白血球の一種があります。マクロファージはコレステロールを食べますが、食いすぎると死んで死骸がゴミになります。これが「プラーク」です。プラークは膜で覆われているのですが、これが非常に破れやすく、やぶれると血液がカサブタをつくりはじめ、それが原因で血管が詰まってしまうのです。これが「血栓」です。ときにはこのカサブタがはがれて体のなかを漂いはじめ、心臓や脳といった場所に向かい、別の場所で詰まりを引き起こすことがあります。これが脳梗塞心筋梗塞です

 

 

心臓・血管の病気にならない本

心臓・血管の病気にならない本

  • 作者:山下武志
  • 発売日: 2020/02/27
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

【携帯日記】駄菓子だわっしょい②

前回の続き。当たり前だけど今回で最終回です。

 

続いてはうまい棒です。「やおきん」のうまい棒。味は左から、たこ焼き、テリヤキバーガー、やさいサラダ、やきとり、となっております。

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うまい棒って開けるときにぼろぼろこぼれるじゃないですか。にんじん、長年ぼろぼろこぼしてきたんですけど、このように縦にあけるそうです。

 

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今までは横に裂いてました。へぇ、へぇ、へぇ。

あとやりとり味だけ苦手でした。へぇ、へぇ、へぇ。

 

続きまして〜、「華道」さんより〜

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まあ言うまでもなく美味しい。ところでこのわさびのりですが、原材料にワサビが書いてません。でもツーンとくるので不思議。

 

そして「ヤガイ」さんのおやつカルパス。

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食べてみると……

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なかよくしてね!

 

そして大ボス。kracieさんの「ねるねるねるね」!!!! これ嫌いな人いるの⁉️

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これが

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こうなって

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こうなって

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こうじゃ

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こうじゃ!!!

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【携帯日記】駄菓子だわっしょい①

 今日は携帯から軽めの更新です。Twitterみたいにお楽しみください。

 

 というわけで駄菓子です。奥に写っているのは我らがアイドル・コペンちゃんです。あまりにも量が少ないとか言わないでください。これだけでなんと約500円です。高い?

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 まずはこれから。こちらはえびせんべいです。「ひざつき製菓株式会社」という栃木県の製菓会社さんが出しているようです。

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まあ、こういうの。味はえびせんべいです(当たり前体操)。でも形が平らなので、にんじん的には物足りない。なんかぐにゃぐにゃしてたほうがパリパリと音がして楽しいため。

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次はこいつ。ビッグカツ。株式会社「華道(かどう)」さん。魚肉ですわ。チキンエキスが塗られてます。

これはかなりうまい。あっという間にたいらげました。

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次は某フォロワーが大好きなこいつ。

「富士製菓有限会社」さん。味はにんじんの好みです。メロンソーダ餅。

餅と書いてますが、原材料に水飴と書いてますね。爪楊枝がなかに入ってます。

 

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にんじんの食い方。

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そして焼肉さん太郎。「華道」さん。あたしゃあ、これが好きで、昔はよく帰り道に買ってたんですわ。

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╰(*´︶`*)╯タノシイ!╰(*´︶`*)╯

 

 

 

 

駄菓子50点詰合せセット

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  • メディア: その他
 

 

にんじんと読む「実在論の新展開(河野勝彦)」🥕 第二章まで

第一章 カンタン・メイヤスーの思弁的唯物論

 メイヤスーが批判するのは〈相関主義〉と呼ばれる立場である。

我々は思惟と存在の相関関係について接近できず、切り離して捉えられたこれらの項の一つに決して接近することはできない。今後、我々はそのように理解された相関関係の越えられない性格を主張する思想の流れ全体を相関主義と呼ぶことにする。

有限性の後で: 偶然性の必然性についての試論

  つまり、客観というものは主観から切り離して把握することができないという立場であり、主観というものは客観から切り離して把握することができないという立場である。これはまさに、カントが行った「転回」、認識論的主観主義である―――それは、認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従うという発想の転換だった。

 この相関主義はカント以後の哲学においても見られ、フッサール現象学においても、あるいはウィトゲンシュタインの言語論的転回にも見られる。そこでは、すべては意識されるものか、語られるものである。《すべての存在は意識と言語という透明なケージの中に閉じ込められている》(実在論の新展開 p20)。相関主義者は意識や言語によっては把握されない、「大いなる外」「絶対的な外」を失ってしまったのである。

carrot-lanthanum0812.hatenablog.com

 

 相関主義には弱いものと強いものの二種類ある。

  •  〈弱い相関主義〉とは、カントのように「物自体」の存在を認め、それ自体は知ることができないが思考可能だとし、物自体の理由律は否定するが無矛盾律は認める立場である。「認識(知ること)はできないが考えることはできる」というのは奇妙に聞こえるが、実際そうしているではないかとカントはいう。なにしろ、現象の背後に物自体が存在しないのに、現象が存在するはずはないからだ、と。この論証には無矛盾律が用いられている*1。しかしカントは理由律は認めていない。それは神の存在論的証明を理論理性によって行うことは不可能だという『純粋理性批判』の論証にあらわれている。理由律はあくまで現象界でのみ成り立つのだ。
  •  〈強い相関主義〉とは、物自体の存在を認めない。そもそも思考不可能である。

  強い相関主義は、「物自体」というものに理論的な不徹底を見出し、それを批判することで至った立場である。しかしメイヤスーによれば、考えることに対する自負を消失しはしたが、別にそれによって絶対的なものが消失したことにはならない。

 そこで彼は相関主義の「主観」と「客観」の繋がりを崩せる事実があるだろうと指摘する。それが〈祖先以前的な出来事〉である。私たちは一切の生命体が生まれる以前のこと、たとえば宇宙のはじまりや地球の形成などの出来事を理解しているではないか。だから相関主義は成り立たない、と。だが、とはいえ、祖先以前的な言明が相関主義を破っているとは相関主義者はふつう思わない。というのも、彼らはただ「人間にとってはね」と付け加えるだろうから。にもかかわらず、彼は祖先以前的言明は、相関主義を破ると考えている。

 彼は相関主義以前に戻ろうとは思わない。むしろそうした相関があり打ち破りがたいことを認める*2。また、カントのいうように、理由律があるとは思っていない。つまり、説明原理があるとも思っていない*3

 説明原理を用いて絶対的なものに接近しようとするのが〈形而上学的〉と呼ばれる。より一般に、絶対的なものに接近しようとする思惟全体を〈思弁的〉と呼ぶ。

 メイヤスーは相関主義者の形而上学批判を受け入れる。そして思弁的思惟によって絶対的なものに到達しようとする。思弁的実在論者にはいくつかの立場があるが、メイヤスーだけが相関主義を全否定していない。

 彼の立場は〈思弁的唯物論〉と呼ばれる。

  われわれは閉じ込められている。メイヤスーが突破したい〈強い相関主義〉はあたかもデカルトのような「一人ぼっちの独我論」ではなく「共同体的な独我論」である。これを打ち破るために、メイヤスーはどのような道をたどるのだろうか。

 

 彼は相関主義者の言うことを認めている。

  1.  われわれは相関関係にしか関われず、「それ自体」には関われない。
  2.  相関の事実性=相関の偶然性=相関の無理由性。

 つまりメイヤスーはこの「相関している」という「事実」を絶対的なものをみなす。われわれが考えようと考えまいと、相関しているのである。それには説明原理などはない。たとえばA,B,C……といったいくつかの基礎があって、それを組み立てて「だからこうなんだ」と行きつけるようなものではない。

世界の諸事物は、それが従う法則とともに、そのすべてが、理由なしに存在しているということ、これをメイヤスーは「無理由の原理(le orincipe d'irraison)」と言う。

実在論の新展開 p33

  この世界は論理法則、自然法則に支配されている。それは正しいが、この法則が成り立っているというのも偶然的なことで、そうなる必然的な理由はない。メイヤスーはこれを「原理」と見た。つまり形而上学者が絶対的に必然的な存在者を求める一方で、彼は絶対的な必然性を求めたのだ。この無理由の原理(=事実論性の原理ともいう)こそ、相関の外側にあって、われわれが考えようと考えまいとそうであり続けるものなのだ。メイヤスーにとってこれがデカルトの論証における〈神〉の役割を果たす。デカルトが神を使って数学的な自然認識を根拠づけたように、メイヤスーは無理由の原理を使って祖先以前的な言明の真理を基礎づけようとする。

 だが、無理由の原理はごちゃごちゃ複雑なカオスしか生みださないように見える。一体どうやってそんなことを成し遂げるのか。

 

 

実在論の新展開

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  • 作者:河野勝彦
  • 発売日: 2020/06/19
  • メディア: 単行本
 

 

第二章 カンタン・メイヤスーの偶然性の必然性について

 前章で見出した「無理由の原理」は、思惟に相関的ではない、絶対的な思弁的真理であるとメイヤスーはいう。つまり《世界の諸事物と諸法則、思惟の論理諸法則は、事実として理由なしに存在し、それゆえ理由なしに変化しうるというテーゼ》(実在論の新展開 p42)である。われわれはさまざまな事象についてその存在理由や原因を問うてきたが、究極的にはそこに根拠などない。しかし実際ボールを手から離せば重力によって下に落ちていくことは事実である。それは事実なのだが、それは無根拠、偶然であって、いつでも変わりうることなのだ。偶然性のみが必然的なのである。

私は何らかの実在性のための理由の不在、言い換えれば、何らかの存在者の実在のための究極の根拠を与えることの不可能性を「事実性」と呼ぶ。

有限性の後で: 偶然性の必然性についての試論

 誤解してはならないのは、メイヤスーが自然科学のこれまでの成果や、数学的言明のすべてを否定しているわけではないということである。それは事実として成り立っていると認める。しかし肝心なのは、そこに究極的な理由などはない、ということだ。「A➡B」という条件的な必然性を得ることはできるのだが、必ずなにかを前提しなければならず、われわれのてもとに入るのは条件的な必然性しかない。コレはアレが原因で起こる、アレはソレが原因で起こる……といった鎖の先に、端はない。

 メイヤスーのいう偶然性は、ヘラクレイトスのいう「万物は流転する」ということとは異なる。彼はヘラクレイトスよりももっと広く、物理的生物的諸法則・諸事物の一切が無理由なのだと言っている。そしてそれはそのまま存在し続けることもありうるし、存在しないこともありうるし、理由もなしにそれが可能であり、何かが新たに生み出されることも、まったく生み出されないこともありうる。

 

 しかしそれにしても、なぜ世界は安定しているのだろうか。いきなりボールが宙に浮かび上がってもよさそうなものだが―――次に答えなければならないのは、究極的には偶然性しかないこの世界が、常に変化せず、安定的である理由である。

  •  たとえばありうる世界のカタチをサイコロに書いて、それを転がす様子を考えてみよう。そのサイコロは何回振っても「今世界」が出続けるのだ。これはおかしいと思うのが普通の感覚である。メイヤスーはこれに対して、確率的な偶然性と諸法則の偶然性では次元違うことを指摘する。一言でいえば、サイコロには有限個しか目がないが、世界の形は無限にありうる。確率を計算するには全体を把握しなければならないが、この宇宙サイコロの目の全体に達することなど考えられない。サイコロの目で1ばかり出たらイカサマを疑うが、それは6回振ったら1回は出るだろうということを考慮して、「それにしては1が多いな」ということである。
  •  つまり「偶然的」でありながら「安定的」でありうる。同じ目が出続けているからといって、そこに必然的なもの(いかさま)を見出すことはできない。

 だが上のことを理解しても、私たちはなおこう訊きたくなる。「安定的でありうることはわかった。でも、なぜ実際安定的なんだ?」と。しかしそれに理由はない。世界がその偶然性によって安定的な形を保っている今のこのあり方も、次の瞬間には変わっているかもしれない。なんの理由もなく。

 

 

なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)

なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)

 

 

 

 

*1:もし物自体がないなら現象は存在しない。しかし現象は存在する。現象が存在せず、かつ存在することはありえないので矛盾。物自体は存在する

*2:なにが「それ自体」で、なにが「我々にとって」なのかを区別するのは難しい。これこそがそれ自体だと思っても、それが頭にのぼった時点でなんらかの加工が施されているかもしれないからである

*3:「なぜ?」に対する回答としてこれを使えば答えられるよという原理。原子みたいなもの。イデアなど

にんじんと読む「劣等感と人間関係(野田俊作)」🥕 第二章まで

第一章 健康なパーソナリティ

 「精神的に健康」というのは、身体がどのような状態にあっても実現できるのではないかと思う。要するに、身体の健康とはあまり関係がない。それじゃあいつもニコニコとしているとか、感情とは関係するだろうか。

 程度にもよるけれど、ニコニコしているのはいいことだと思う。でも怒ったり、悲しいのはちょっと違う。感情というのは相手を動かすために使われる場合がほとんどで、つまり相手を支配することと関係がある、とアドラー心理学では考える。そういう人はあまり精神的に健康とはいえないだろう。怒りというのは相手を動かす典型的な例である。憂鬱だとか不安だとかもまぁないほうがいい。そんな風に考えていてもどうせなにも現実は変わりゃしないから。たとえば電車に乗り過ごしたとしましょう。焦りますよね。でも焦っても電車は来ません。ゆっくりする時間ができたとでも思えばいい。でもそう言われても、やっぱりいらいらしてしてしまうだろう。でもそういう感情にはいつだって目的がある。感情はその道具なのだ。たとえばあなたの子どもが頭が痛くて学校にいけないと言っているとする。いつだって頭が痛くなってしまう。でも本当は学校に行かないことが目的だから、頭痛を直しても体は別の症状を作り出す。

 不登校の子どもたちのお母さんはよく学校とかのあり方を問題にしたりする。いじめがあるんじゃないかといったりする。要するに責任者探しをするわけだが、決して、今自分には何ができるかを考えようとはしない。言うことはいつだって責める相手を探すことばばかり。自分がいかにかわいそうで、誰それがいかに悪いかという話をする―――これも精神の健康と関係があると思う。責任者探しは精神的に健康とはいえないから。考えなくちゃいけないのは、自分がどうするかでしょ。

【にんじんメモ】

  • 「学校行きたくねえ」→「感情」→「身体症状」という流れになるわけだが、感情から身体のアクセスはよくわからない。どうやって影響を与えているのか? 唯物論的に答えるしかないのか?
  • 実情はむしろ、しかじかの身体症状が起きることを「感情」と呼ぶと思われる。だから「感情」=「身体症状」と表すほうが近い。だが体が熱くなり眉が尖り鼓動が早くなったとしても怒っているわけではない場合もある。怒りとは、相手をどうにかしてやろうどうにかしたいと意図することを含む。
  • その「意図」は、緊張の解消反応といっていいと思う。相手がそのようにすることは自分にとっての当たり前とズレている、だからあるべき場所におさめようとする。バレーボール選手は自分のところにボールが飛んで来たら、いつも例外なく、ボールを受け止めるわけではない。アタックされても、そのボールがエリア外に出れば放っておくものだ。この反応は全体論的なものであり、意図とはいっても「よし、〇〇するぞ」をいつも伴わない。しかし「機械論的な反応」とは異なる。熱い鍋に触れた時アツッといって手を引っ込めるのをやめることはできないが、外野に出たボールを取りにいくように方向転換することはできるからである
  •  感情は目的論的である。

 

 では健康な人というのはどういうものか。アドラー心理学では「共同体感覚を持っている人」という言い方をする。

  •  まず、健康な人間は自己受容をしている。これは自己肯定とは違う、欠点もある今の自分に満足しているっていうことである。自分のことが嫌いな人間は健康とはいえない。たとえばあなたが臆病な自分を嫌っているとしましょう。けれども、別に臆病というのは悪い面ばかりではない。つまり軽率な行動をしないということだから。また、たとえばあなたが自分の暗い性格を嫌っているとしましょう。けれども、それは陽キャのように無遠慮にずけずけと他人の土俵に入っていかない、相手がどう思うかを考える、感受性が強いということでもある。「僕の持っているハンマーはノコギリのようにものを切れないんだ」と言っているのではなく、「叩けるんだぞ」ということを知ることが大切なのだ。
  •  けれども、自己受容だけではいけない。世界信頼していることが大事だ。不信感に固まっている人はとても健康とはいえない。私たちは生きていくうえで他者がどうしても必要になってくる。だからお互いに協力することが大事である。相手を蹴落として自分の安全を確保しようとする競争へ向かう人は、絶えず自分も蹴落とされることを心配している。/世界に対する信頼は、信用とは違う。信用というのは銀行のように、ある程度の証拠があってお金を貸すようなことだ。信頼は根拠がない。根拠はないが、信じる。
  •  それから所属感ということも大事でしょう。家族の中に、職場の中に、この世の中に、自分の居場所があると感じていることは、もしかしたら生存よりも基本的なことかもしれない。そして自分に貢献感があるということも大事だ。自分がそこになくてはならないと思えること。これは所属感にも通じるだろう。

 そしてこういうようなことをまとめて、「共同体感覚を持っている」と呼ぶ。

 

劣等感と人間関係 (アドラー心理学を語る3)

劣等感と人間関係 (アドラー心理学を語る3)

  • 作者:野田 俊作
  • 発売日: 2017/02/21
  • メディア: 単行本
 

 

 

第二章 パーソナリティの形成

 アドラー心理学ではパーソナリティのことをライフスタイルというような言い方をする。性格とか人格とかいうと、なにか固定的な、変わりづらいことをイメージしてしまうから。そうではなくそれは「スタイル」だということを強調するためにライフスタイルと呼ぶことにしている。

 スタイルというぐらいだから、そのスタイルは実はあなた自身が決めている。あなたは自分が臆病で、人見知りで、根暗なやつだと悩んでいるかもしれないけども、そのスタイルを選んだのはあなた自身だということだ。まずこれが大原則になる。あなたはそのスタイルが自分のためになると思っていて、だから変えたくないと思っている。

 でもそれじゃあただ決断するだけなのか。「決断因」によってスタイルのすべてが決まるのかといえばそれはもちろんそうではない。遺伝とか、育児とか、そういったことの影響「影響因」がある。他にも〈器官劣等性〉、つまり生まれつき身体に障害があるとか、その後の生活に重大な影響を及ぼしたりする場合がある。両親や、きょうだい、家族の雰囲気、育てられ方、文化、等々……。

 不適切なライフスタイルの大部分は次のような三つの信念からできている。

  1. 自分には基本的に問題を解決する能力がない。自分は無能力であって、自分の人生の問題を自分の力では解決できないということ。
  2. 自分の保護者の立場にある人、自分が言わなくても援助する義務がある、助けを求めなくても私を保護しなければならないということ。
  3. もしも援助がないなら、その人たちは罰せられるべきだということ

  ライフスタイルは多様で分類することにはあまり意味がないのだが、大きくわけて三つ、ありうる。「依存型」「競合型」そして「自立型」。自立型は健康なライフスタイルといえるが、最初の二つはそうではない。

 (消極)依存型は自分に自信がなく、それゆえ他者は私を保護すべきだと考えている。保護をもらうために、保護してあげたいと思われるように仕向ける。そのためならなんでもする。世界は危険に満ちていると信じており、いつも不安でいる。他者の援助をあてにしており、他者に見てもらおうとし、無理ならねだり、それでも無理ならすねる。子どもっぽい服装や言葉遣いをしたりする。(攻撃)依存型は、他者は自分に奉仕して当然だと思っている。友達は作るが、相手が自分に何をしてくれるのかしか考えていない。人が期待に応えないと義務なのになぜそうしないのかと腹を立てる。

 競合型は自分に自信がないのだが、それを克服しようという構えがある。ただし条件付きで。積極競合型は常に他者よりも優れていようとする、成功しているときだけが唯一救われる。他人を蹴落とそうとするのはよくある。消極競合型は、失敗していないときだけ、唯一救われる。失敗しないかと恐れており、必要以上に良心的で身ぎれいだったりする。融通がきかない。臨機応変にふるまえない。感情的になることをおそれる。親しい関係にまで発展しない。両タイプとも完璧主義的で、他人からの尊敬を求め、軽蔑されるのに弱い。

 

嫌われる勇気

嫌われる勇気