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にんじんと読む「現代の死に方(シェイマス・オウマハニー)」🥕 第二章

第二章 隠された死

 フィリップ・アリエスが「従順な死」と呼んだものには、彼によれば、無頓着・放念・親密さ・プライバシーの欠如に特徴があると云っている。それは速やかで、受容され、親近感があり、医者よりも神父のほうが重要だった。これが徐々に「隠された死」に変わったのは、工業化、都市化、宗教心の喪失、医学の発達、病院、葬儀産業といった要因からである。従順な死においては、死は個人の事件ではなく共同体の試練であった。一方、死が隠されるようになると、死を医者に任せ、想像することも理解することもなくなり口に出すこともはばかられるようになった。共同体はなくなり、ばらばらな個人の集合となったのだ。とはいえ、昔ならば死に苦痛と恐怖がなかったかといえばまったくそんなことはないが。

 イヴァン・イリイチは『脱病院化社会―医療の限界 (晶文社クラシックス)』の中で、「医学界は人間の健康の大きな脅威になっている」と主張した。医師によってもたらされる障害である医原病は三つのタイプがある。①臨床的=医療が直接の原因となるもの、②社会的=通常生活の医療対象化、③文化的=伝統的な苦痛の対処法の喪失。《この死の医療化のために、私たちは死や苦痛を人生の一部として受容する能力を失い、また、死と終末にまつわる伝統的な儀式行事の価値を減じた。イリイチはさらに、医療化は社会統制の一形式であり「患者であること」を拒否すれば逸脱と見なされると主張した》(p.49現代の死に方: 医療の最前線から)。イリイチは変人として無視されたが彼の主張の多くは現実のものとなった。新たな病気の発明とその治療による金儲け。

 だがいまさら、「従順な死」に戻ることはできない。

 

 

歪んだ姿勢をたてなおす!

 仕事中など、退屈なときにチャレンジするといい気晴らしになる「姿勢」。

 

 人間はどんな姿勢をとっていても体に負担がかかる。姿勢によって体にかける負担の場所が変わるだけだ。「動くこと」が大事なので、良い姿勢だろうが悪い姿勢だろうがずっと同じ格好でいるのはよいことではない。

 

「よい姿勢」は、ニュートラルポジション

  

 どの姿勢でもそうだが、基本的な目的は「重すぎる頭を支える」ことにある。

 床から受ける力(床反力)と、身体の重心から伸びる力が釣り合うときに体は安定するが、この安定はもちろん逆立ちしていようが猫背だろうが、””維持できる姿勢””のときはいつでも成り立つ。釣り合いのためには全身の筋肉が微調整して床反力と重心線を合わせるのだが、姿勢が悪いと一部の筋肉や関節が過度に働いたり、あるいはまったく働かなくなり衰えてしまう。いわゆる「よい姿勢」というのはこれらの負担を最小限度にするようなもので、バランスよく筋肉を使い、休んでもらうようなものである。

 ただし、ニュートラルポジションこと「よい姿勢」は、筋肉を主に使って体を支えるものであるため疲れる。慣れるまでには時間がかかるが、関節などへの負担は減っている。

筋肉を犠牲→ニュートラルポジション。筋トレになるが疲れる。

骨・関節・靭帯・椎間板を犠牲→「悪い」姿勢。疲れはないが不調が出る。

まじめなひとはよい姿勢を取り続けようとしてしまう。

定期的に姿勢モードを変更し、むしろ、姿勢自体も変えたほうがよい。

 

姿勢の本 ―疲れない! 痛まない! 不調にならない!

 

【立位】

  •  まずは足。つま先でもなく、かかとでもなく、足の真ん中ぐらいにバランスよく体が乗っかるようにする。左右の足ともに均等に体重をかける。
  •  次は腰。きちんと骨盤の上に上半身が乗っかるようにしないといけない。ここで基準になるのが「サンドイッチ」というエクササイズ。左手の指をヘソの少し下にあて、右手の甲を反対の背中にあてる。息を吐き、お腹をへこませながら力をこめ、その状態で両の手が平行になるように立てる。上半身裸でやると感じが掴みやすいし、鏡をみても良いかもしれない。
  •  次は肩。両手をそれぞれ肩の丸みにあて、丸み同士を離すように広げていく。最後に、できるだけ肩を下げる。
  •  次は首。かかとを壁につけてみよう。今まで書いてきたことを実践すると身体の大部分が壁についているので(腰と壁には手のひら一枚分の空きがあるのが理想)、最後に後頭部を壁にあてる。するとかなりアゴを引いた形になる。

 これで立位の完成。上半身は立位が基本になる。

 

 ※手の向きは、自然に立ったときに親指が前を向いているのがよい。手のひらが少し見えているぐらいが理想。そうなるまでは意識して直してみよう。

 ※顎を引くと自然と鼻呼吸が促される。

 

【座位】

☆椅子

  •  お尻を突き出して座り、そのまま体を起こす。椅子の面全体を使うのではなく、座るのに必要なぐらいの先っぽを使う。上半身を立位でやったようにたてる。両足はきちんと床につける。足を軽くひらくと姿勢が安定する。(坐骨座り)
  •  椅子に深く座り、背もたれにゆるく体を預ける(仙骨座り)。

 椅子の座位は最も負担が大きく、いい姿勢だろうが長時間やってはいけない。悪い姿勢だといわれている「仙骨座り」だが、同じ姿勢をキープし続けることが危険なので数分おきに交代するのが望ましい。立ち上がるのが一番望ましい。立ちあがったら、片足ずつ、足の側面を床に押し付けるようにしてストレッチしたり、アキレス腱を伸ばしたりするとよい。

 

【しゃがむ、かがむ】

 まず身に着けるのは「ヒップヒンジ」という技術。これは反り腰をキープし、尻を突き出す動作である。鼠径部(コマネチの部分)に指を当て、後ろに押し込んでいく。相撲をとるように腰をかがめ、上体はお辞儀をするように曲げる。正しくできていればふとももの裏に張りが感じられる。

 

ーヒップヒンジの状態でー

☆しゃがむ → 腰を反らしたままそのまま膝を深く曲げていく。

☆片膝を立ててしゃがむ → 片膝を後ろに引く。

 

【座位ーしゃがみ】

  •  立位の状態から両足を軽く広げ、お尻を突き出し、少し反りながら腰を落とす。慣れていないと股関節がポキポキいうので、ゆっくりやる。立ち上がるときはまたお尻からあげ、次に体を起こす。

 足首の柔軟性を失っている人はしゃがみ姿勢ができない。また、正座もできない。

 「床座」と「椅子座」は、前者が足を犠牲にして腰を守るもので、後者は腰を犠牲にして足を守ろうとするという特徴がある。いずれにしても座位はよくないが、守るなら腰を守ったほうがよいのは確かだ。

 

 ところで「スクワット」をするときに上半身をたてるのはよくない。しゃがむときとおなじように尻を出し、頭を少し前に傾けよう。《重心線が体幹・太もも・すねの中間》であれば膝や腰を痛めずに済む。

 

【かがむ】

  •  お尻を突き出す。

 

現代の医療は「差し引く」という謙虚な考え方が足りない気がする。症状を根本から改善し、再発を防止するには、何かを足す必要も、始める必要もない。患部にストレスを与えている要因を減らすか、止めればよいのである。

アゴを引けば身体が変わる~腰痛・肩こり・頭痛が消える大人の体育~ (光文社新書)

 

 

 

参考にした本

姿勢の本 ―疲れない! 痛まない! 不調にならない!

カラダが変わる! 姿勢の科学 (ちくま新書)

アゴを引けば身体が変わる~腰痛・肩こり・頭痛が消える大人の体育~ (光文社新書)

 

哲学の三層構造 全体像【現象学関連過去記事】

carrot-lanthanum0812.hatenablog.com

 

自然的態度と超越論的態度

 日常生活をただそのまま生きていくことと、その生活の成り立ちや仕組みを反省することは異なる二つの態度である。前者を「自然的態度」、後者を「超越論的態度」と呼ぶ。これは、成り立ちや仕組みの反省というものは、結局のところ意識の志向性による意識内容の構成のされ方を反省することだからである……簡単にいえば、世界の成り立ちなんていう意識を超え出たものを相手にするから、超越論的と呼ばれる。

 現象学の親・フッサールは、自然科学などの客観的な学問が生の意味などといった本当に知りたいことに対してなんの答えも出せず、その領域を藝術やら宗教に投げている時代状況に不満を持っていた。そこで哲学というものの客観的で普遍的な役割をあらためて自覚し、再出発する地盤を固めることに決めたのである。彼がまず相手にしなければならなかったのは「客観性」であり、主観/客観の二元論が生じた歴史的経緯を暴き出した結果見えてきたのは、学問の基礎というものはなによりも日常生活において形成されているということだった。

 当たり前のことのようだが、時代はそう言っていなかった。自然は数学化・理念化され、それが発展した。人々は理念に興味をもち、それを土台に学問という建物が建てられた。感性的な側面はすべて数量化されてはじめて客観という名誉を得ることができるのであり、学問の名に値するものは公理と定義によって作り上げられた建造物だけだとされた。いわば実践はすべて理論に従属するもので、理論が正しい方向に導いてくれるとされたのである。だがそうではない。実践知こそ「基底」なのだ。みんなはあまりにも三角形を三角形として捉えることに慣れ過ぎていて、まるで理論が一歩目だと勘違いしている!

 

「こ(生活世界)の地盤の上に客観的学問という建物が建つ」

 

 これが主張である。二つの関係はふだん私たちが体験している「根源的明証性」と呼ばれる根拠に支えられる。だがフッサールは基礎づけ主義者であるわけではない。彼は客観的学問が生活世界という地盤の上に成り立っており、それを理解したければ生活世界に立ち戻れとは言った。だが、その地盤も「私たち」が作り上げたものであるから、その構成を問い直されなければならない(《生活世界の本質規則性は、相互主観的にのみ働いている》(p.271 現象学ことはじめ 第2版))。だけれどもその問い直しもやはり、この生活世界で為されるものなのである。

 

 日常生活を大事にする。このことを基本として哲学をはじめてみよう。つまり「いま」「ここ」から、哲学をはじめてみたい。それからもうひとつ大事なのは、私たちが哲学をするのは、この世界のことが知りたいからだということ。決してフッサールとか、哲学者の頭の中を知りたいからじゃない。また、哲学史にも興味はない。

 

 

デカルト的出発

 哲学はすべてをはじめから考えることだ。ニューゲームが基本。

 ほとんどすべての哲学は行き詰まり、後世の人がプレイデータを参考にしてまたニューゲームをしてきた。近代哲学で重大なプレイをした人は議論があるだろうけれども、それをデカルトだといって非難されることはないだろう。

 デカルト省察 (ちくま学芸文庫)』の目標は、哲学を諸学の基礎とすることだった。そのために方法論的懐疑、つまり不確かなものは判断保留にすることを通じて、「疑う」ということをする「我」に立ち返り、そこを出発点としたのである。

私たちが自然に生きている時、世界は感覚的な経験の確信をもって与えられているが、前述の方法的な批判に、この確信は持ちこたえられない。それゆえ、世界の存在は、この始まりの段階では通用させてはならない。省察する者は、ただ自らの思うことをする純粋な我として自分自身のみを絶対に疑いえないものとして、たとえこの世界が存在しないとしても廃棄できないものとして、保持している。

デカルト的省察 (岩波文庫) p.20

  だがここから出発してしまったがために、「我」の外側における事実をいかにして正しいと知るのかという認識論の問題に迷い込んでしまった。*1そうしてこれこそが心身問題の始まりでもある。

 デカルトが投げ入れた『省察』は哲学に大きな影響を与えながらも、諸学問においては省みられることがなく哲学界においても文献が氾濫するばかりで議論する土俵すら整備できていないような状態が続いている。フッサールはこのことを受けて、これらの文献たちをすべて「デカルト的な転覆」(p.24デカルト的省察 (岩波文庫))に投げ込み、根本から始める姿勢を取り戻し、《究極的で考えられる限りの無前提性を目指す哲学、あるいは、自ずから生み出される究極的な明証から本当の自律のうちで形成され、それに基づいて絶対に自己責任をもつ哲学》(p.24同)を作り上げようとする。

 だが一方で、デカルトと同じように「我」から哲学を始めようとは考えない。

 彼は「~~が疑わしい」としているその判断は疑わしいかと問うた。そしてもちろん、疑わしいことは疑いもなく確かなことである。彼は””疑うという心””が疑いもなく確かなことだと主張しているわけではない。それが何かはよくわからないが、ともかく””疑う””という何かが確かなことだと言っている。それはおそらく物的なものではないだろうし、心的なものでもありえない。その何かが心的なものだということは疑われなければならないから。ここで与えられたものは「体験」とか「現象」とか呼ばれるもので、それ自体は物的でも心的でもないような非実在的なものである(実在性とは時間・空間によって個体化される存在者一般のカテゴリーである)。確かな出発点は、これだけだ。

 

 

 

 ここでたとえば「リンゴが見える」ような状況を考えよう。リンゴ自体は幻影かもしれない。しかし、見えるということに嘘はない。それが偽物であれなんであれ、ともかく見えている。このように何が見えているかということと、見えているということ自体を区別するために、〈意識内容〉〈意識作用〉という用語を使うことにしよう。

 私たちに出発点として与えられているのは意識作用だと言っているわけではない。出発点は〈意識〉であり、それは〈何かを意識してしまっている〉という特質を持っている。これを意識の〈志向性〉と呼ぶが、それを分析するにあたって、意識内容という観点と、意識作用という観点があると考えるのが正しい。

 私たちはリンゴが見えるとき、まるで意識という主観に属する側が客観に属するモノを照らし出すかのように考えてしまう。だが意識というものは、私たちがそれと気づく前に、既に何かに向かってしまっているものなのである。主観が客観を意識して捉えるとか、客観が主観を刺激して何かが意識されるとかそういう話に登場する「意識」とフッサールの捉えた〈意識〉というものはまったく違うものだ。フッサールの〈意識〉は物的でも心的でもない。主観や客観を前提とせず、ただ「常に既に何かを照らしている」ということをスタートラインにする。

 そして、この主観や客観以前の、志向性を持った意識という事態に立ち返ることを、フッサール現象学的還元〉と呼ぶ。

こうして、現象学の場合の意識というのは、くりかえしになりますが、二元論的に、心である主観が意識作用として働き、物である客観をある特定の意識内容として構成する、というように理解されてはならないのです。

現象学ことはじめ 第2版 p.42

※〈意識〉というタームは、これは非常に誤解を招きやすい。アメリカ英語ではこれをconsciousnessといい、目覚めているというニュアンスがある。ぼんやりしてはおらず、注意を向けているというニュアンスがある。しかしここには単に気づいていること、評価すること、意志することなど、非常に多くの要素が含まれ、必ずしもいつも自覚的であるわけではない。また意識などというとまるで一歩離れて遠目に観察するかのようなイメージがあるが、これ自体極めて実践的なもので、ひとつの「行うこと」である。だから現象学者のなかには〈実存〉という言葉を使う人もいるし、単に〈生〉という人もいる。 → 意識に映らない昔のことや無意識の領域はどう研究するのかという疑問には、発生的現象学など、アプローチする方法が研究されている。

 

 主観/客観の図式は意識の志向性というアイディアで一応、乗り越えられているが、これを自覚してもなお私たちは主観/客観の図式に帰ろうとしてしまう。志向性は「すでに関係ができあがっている」ということなのだが、その架け橋を作る能動的な心を想定してしまうのだ。この種の誤解によって、現象学は主観主義という批判を食らうことになった。だが主観的側面と客観的側面のその繋がりを根底から支えている意識の層の話をしているのだから、その批判は当たらない。

 

 

意識の志向性というスタートライン

 あなたは目の前にスマホを見ている。

 スマホは幻影かもしれないが、「スマホが見える」という〈意識〉は変わらない(現象学的還元を行ない、その態度で「スマホが見える」を捉えること)。スマホが見えているのと同じぐらい確かなことだと思われるのは、スマホを見ているのであって、スマホを想像しているわけではないということだろう。より正確にいえば、いま「スマホを見ている」と報告してくれたあなたは、「スマホを見ている」と報告し、「スマホを想像した」とは報告しなかった。つまりあなたは意識作用を区別している。見ることと想像することはまったく違うことだということは当たり前のことだが、このことは「スマホを見ている」と言ってくれた時点であなたは当然気づいていたが、はっきりと自覚していたわけではないだろう。

 あなたは合格発表の看板に自分の受験番号が書かれてあるかを探している。

 書かれてある番号を探すのと、書いてある番号を見ることの違いがわからないやつはいない。想像された何かという意識内容は想像という意識作用に相応し、知覚された何かという意識内容は知覚という意識作用に相応する。これも当然のことで、「意識の相関関係」というが、「番号を探してる」「番号があった」といったときははっきりと自覚していたわけではないだろう。意識作用や意識内容が与えられる以前に、あるいはその瞬間にそのまま意識に与えられているのだ。

 作用の違いというのは当たり前のことだが、意識されている。これを随伴意識という。見ることと想像することを異なるものとして「気づいている」(随伴意識)のだが、この随伴意識はいつもはっきりと自覚されているわけではないし、たいてい自覚されない。あらゆる体験は、”感じられていて”、内側で”知覚されている”(内的な意識)。これを内的な意識といったり、原意識と呼んだりする。原意識と呼ぶのは、随伴意識に随伴意識は伴わないから。この意味でそれは意識に直接与えられているものといえるから。《つまり、随伴意識は、それがさらに意識されている必要はない、そのまま直接意識されている「原意識」である》(p.67 現象学ことはじめ 第2版)

 

 意識内容ー意識作用の層 と 必ずしも自覚されない原意識の層

 

 ここで重要なことは、あらゆる意識活動の真っただ中に〈受動的志向性〉とでもいうべきものが前提として働いていることだ。《このような意識の下部層をもたない意識活動はそもそもありえない》(p.117現象学ことはじめ 第2版)。

 

 

 

哲学の三層構造

  •  第一の層はすべてを下支えする「受動性の領域」であり、私たちの素朴な感覚を厳密に精査することで発見される(発生的現象学脱構築)。
  •  第二の層はいわゆる主客のある「能動性の領域」であり、日常的な意識活動が生じている。(我ーそれー関係)
  •  第三の層は「人格相互の交わりの領域」である。(我ー汝ー関係)

現象学ことはじめ 第2版

 これが哲学の全体像ということになる。

 

*1:われわれの心のうちの観念が外的世界に関して真になるのはどのような場合かを説明する、認識論の問題に呪縛されてきた」世界内存在―『存在と時間』における日常性の解釈学 序章

にんじんと読む「現象学ことはじめ」🥕 第一章 第二章

第一章 数えること

  •  いったい「なぜ」「何が」「どうなって」いるのか。事象の根拠、本質、構造。それは現実問題「何が必要か」「何が役に立つのか」にアプローチすることでもある。
  •  何かを見ているということと、見えている何かは区別されなければならない。言ってみれば、ペンが見えているからといってペンが存在するとはかぎらない。喜んでいることと、喜びの感情は区別される。これは「心の働き」と「心の内容」の区別である。
  •  心の働き=意識作用はいくつかに区別される。何かを判断したり、見たり、思い出したり。自分が授業をしっかり聞いているのか、上の空なのかも。その心的作用の起こっているあいだにも作用の仕方の違いに気づく。これは意識しているのを意識しているという、いわば自己意識。どんな意識作用にも自己意識が絡んでいるなら、意識のいわば「無意識」は取り扱えなくなってしまう。(→無意識の取り扱いは?)
  •  ケーキを数える。それは六つあった。この「六つ」という意識内容は「数える」という意識作用によって構成されている。一般に、《すべての心の活動は「意識作用による意識内容の構成」によって成り立っている》(p.27 現象学ことはじめ 第2版)。
  •  数えることは「ケーキ」というまとまりを把握することによって始まる。ここに感性的綜合と、それと土台にしたカテゴリー的綜合という意識作用の区別がある。

 

第二章 見えることと感ずること

  •  知覚と感覚はなにが違うのだろう。
  •  フクロウの置物にはさまざまな「見え」があり、それが一つ一つ現れることを「射映する」といい、個々の現われを「射映」という。フクロウには見えている側と、見えていない背後もある。たくさんの側面が一つの対象として取りまとめられていること。この取りまとまりを綜合という。この綜合自身、ひとつの働きである。この綜合が一体どのように作り出されているのか、そしてその射映がどう成り立っているのかも現象学は問題にする。
  •  見える側が与えられているのと同じぐらい、見えていない側も与えられている。けれどその与えられ方はやっぱり違う。服の裏に「バカ」と書いた紙を貼りつけられているかも。でもそれを見て「えっ」と思うのも、見えていない側が与えられていたからこそ。見えていなかったものを確認してそれが満たされたとき、「充実する」という。
  •  意識というのは、そうと気づかれる以前に既に何かに向かってしまっている。これを意識の「志向性」という。でもそれはサーチライトではない。サーチライトは照らそうとするものを照らす。だが意識は勝手に現れる。既にある。意識は主観でも、客観でも、どちらにも属さない。「心つまり主観が意識作用というサーチライトで客観を照らし、意識内容を作り出す」というように理解してはならない。主観/客観という構図からこのように志向性によって逃れ出ることを「現象学的還元」と呼ぶ。
  •  フクロウの像を触ってみたら、冷たかったりする。この冷たいというのは視覚とはちょっと様子が違うようだ。それは射映を通して与えられているというより、たとえば指先にそのまま与えられている。身体の特定の部位に結びついている感覚を「感覚態」という。もちろん、部位に結び付けられていない感覚もある。どこが痛いのかわからない場合だってあるだろう。結び付けられているときといないときでは、感じが全然違う。この特有の在り方をうまい具合に表現すると、《「感じること」と「感じがあること」とを切り離して考えることができない》(p.46)ということになる。つまり、見間違いはありうるが、感じ間違いはありえない。一方、痛みのある場所を間違うことはありうる。「ただ感じる」「感じたまま」というのはそういう特徴を持っている。というわけでこのスゴい特徴をもっていることで、内在的知覚と外的知覚が区別される。感覚がすごいのはそれが意識に直接ブチ込まれているからで、「外にある」ように感じられている外的知覚とはわけが違う。こういうブチ込まれが、部位との結びつきの前提になっていることを忘れてはいけない。

さて、この章を締めくくるにあたって、感覚と知覚の違いを整理しておきましょう。

(1)「何色」、「何の痛み」というように知覚される以前の、「見られているままの色」、「感じられているままの痛み」という感覚の領域があるということ。

(2)感覚は内在的知覚とも呼ばれ、それが「あること」は疑いえないが、外に知覚される物が、「あること」は保証されていないこと。

(3)空間的な物の知覚の場合に働く一連の射映というあり方は、感覚にはあてはまらないこと。

(4)感覚である色の広がりは、感覚素材のまとまりであり、感覚である痛みの持続も同様、感覚素材の持続的なまとまりである。そのとき、それらの感覚素材の質がそれとして区別されており、それぞれのまとまり方にも秩序があり、その秩序が明らかにされねばならないこと。

現象学ことはじめ 第2版

 

 

にんじんと考える「株投資(整理するために)」

 株投資をやる目的は金である。社会貢献などでは断じてない

 投資をすることによってその会社に貢献できるかどうかなどどうでもよい。金さえ手に入れば、倒産しようが構わない。とはいえ、倒産されては儲からないのでやっぱり会社の繁栄は望むことになるが、取り立ててその会社に思い入れがあるわけではない。

 うるさいぐらいによく言われるが、バフェットだろうがなんだろうが、株への投資に「上級プレイヤー」など存在しない。これは投資による成果がプロとアマでそれほど差がないことの謂いである。必然的に勝つためにはインサイダー情報が必要だが、言うまでもなく、違法である。要するに確実に勝つ方法など無い。分割で売り買いしようが、ドルコスト平均法がどうたらとか、一切関係ない。マジでギャンブルなので、どれだけ手際よくやろうが負ける可能性がある。

 それでは適当にやるしかないのかというと、そうではない。私たちにできることは、凡ミスを避けること。あからさまな失敗を回避することだけだ。無駄な損失が消えるだけで、トータルとしては勝つ確率が高まる。これがいわゆる普通のギャンブルとは異なる点である。投資以外のギャンブルがたいてい割に合わないのは、みんなから集めたお金をまず胴元がいくらか取り、その余分を「みんなの中の特定の数人」に配るからだ。参加者の金を全部集めて一部抜き取られたものを元の参加者に配るのだから、大きく得をする人がいれば確実に大きく損をする人がいる。一方、株投資はどうかというと、参加者が出した金を使って企業は商売をする。投資と投機にはこういう違いがあるが、しかし一般には、次のように説明されることが多いのも同時に確認しておこう。

配当を目的にして株を買うのを投資、そして値上がり益を目的にして株を買うのを投機という――これがごく一般的な投資と投機の区別である。あるいは長期的に株を持っているのを投資、短期的な所有を投機という場合もあるが、投資と投機を厳密に区別するのはむずかしい。

株のからくり (平凡社新書)

  ヤバいものから理屈あるものまで凡ミスを避ける戦略は色々ある。自分なりに納得のいく方法を組んでから株投資に出かけ、少しずつ経験によって修正していく「ゲーム」的感覚を持とう。売買は急がず、常にルールに従って機械的に処理しなければならない。

これだけルール集

  •  目標利回りは、年〇%?
  •  仕掛ける前に出口、危険ラインの非常口を設定すべし。出口は基本的に『買った理由が消失した時』であろうが、株価の値段で判断するという手もある。株には売買益もあるが配当金もあるので一概には言えない。両方考慮しなければならない。
  •  株価が安すぎたり、配当金が支払えていなかったり、利益剰余金(積み上げて来た利益)がない会社の株は避ける。
  •  銘柄選びを丹念にやっても意味はあまりない(一日10分~15分以内で)
  •  投資銘柄は多いほうがよい。5~10銘柄ほどが一般的だが、多ければ多いほどリスクは減る。

 

 

基本事項

 当たり前だが、ふつうは企業は損をするために商売をしない。企業はおおよそその年の利益を見積もっているものだが、そのプラン通り順調に行けば、必ず儲かる。

株式会社は、出資者から資金を集めて事業を行い、それで得た利益を配当として出資者に還元するためにできたものである。したがって配当は株式会社の基本であり、配当しない株式会社は株式会社とはいえない。かりにいまは利益がないので配当できないとしても、将来は配当できるという見通しがなければ会社は存続する価値はない。そのような会社は解散した方がよい。

株のからくり (平凡社新書)

 「配当金出すしお金ちょうだい」と株式会社がカブを売り、みんながそれを買ってくれる。そしてそのあと、その株を巡って「俺も欲しい」「売ってあげる」が起きて勝手に株価が上がったり下がったりする。これが順序であるから、いくら株価が上がろうが株式会社にはその時点では何の関係もない。それでも自分の株価が上がって嬉しいのは、まさに「株が上がる=信用を得る」からで、この信用をもとに「新たに株を発行する=金を得る」ことによって事業の拡大のチャンスを得られるからだ。基本はここ。

 これを逆の視点から見てみると、株価が下がることの問題がわかる。株主に株を安くでも手放されるほど将来性がない企業は業績が悪化していることが多い。その状態だと内部のカネも減っているから、株を発行しまくって資金を得たいところだが、株価は落ちており、そのぶん大量の株を作らなければならなくなる。大量の株を作るということは大量に配当金を出さないといけないということで、業績が悪化しているというのにこれは崖っぷちである。

 だが株価が下がることなど日常茶飯事ではないか。その下落を「有事」ととるか、そうでないととるかは経験次第か。

 

 

投資指標

  •  当期純利益を総株数で割ったものを一株利益Earnings Per Share;EPSと呼ぶが、この値が仮に100円なら、一年後には一株当たり100円の利益が見込めるわけだ。今期の予想EPSを投資の基準にすることもできる。
  •  投資家としてもこの利益は高いほうが嬉しいが、たった100円を得るために1株10000円の金を出すのはつらい。そこで株価をEPSで割ったものが投資指標として利用される。これを株価収益率Price Earnings Ratio;PERという。この値が大きいほど「割に合わない」。つまりふつうは小さければ小さいほどありがたい。

 要するに会社が順調に成長してくれれば儲かる。つまり株価も上がる(可能性が高い)し、配当金も安定して得られる。株投資の利益は「値上がり益(キャピタルゲイン)」と「配当益(インカムゲイン)」のふたつがあるが、やはりなにより会社がすくすく育ってくれるのがその大元にある。もちろんふらふらと上下する株価の、一瞬の隙をついて、キャピタルゲインを得てもよいが。

 ところが、容易に想像がつくように、その会社の成長など社長ですら予測できるものではない。ものすごく流行っていたのにとんでもない速さで廃れることはよくある。十年後に生き残っている会社はほとんどない、とも言われることもある。成長を見込んで株投資をしようと思うと、十年どころか五年ですら無理で、厳密には直近ですら不可能だが、「これからこの会社は期待できる!」あるいは「カスだ!」という情報を集めるなら比較的近い時期のものにしたほうが無難なのは間違いない。実現が遠すぎる情報だと、頓挫する可能性もまた高くなる。私たちは別に特定企業に成長してほしいわけではない。泥船になりそうで、安全に手が切れそうなら売り払うのも手だ。キャピタルゲインインカムゲインはこの意味で、同時に考えなければならない。

 どれだけ有用な情報を集めても潰れるところは潰れる。そこで利用されるのが、期待できる企業をいくつかに分けて、その全部にばらばらに投資する分散投資である。一銘柄に全財産を賭けるよりも、不測の事態に対処できるし、リスクも小さいため、結果的にはプラスに終わる可能性が高い。冒頭と同じ内容を改めて注意しておけば、分散投資をすると必ず儲かるのではない。分散投資をすると「リスクが小さくなる」。ゆえに、勝つ可能性が高まる。だから銘柄は多いほうがよく、集中させるのはリスク低減の原則に反する。じゃあどれぐらいに分散すればいいのかというと、そこは、多ければ多いほうがよい。ただし業種をとにかくバラして、離れたものにしないと、共倒れも起きてしまう。

 

 

財務諸表による業績解釈

 株式会社には年に一度、決算をしなければならず、その決算を公開しなければならない。この情報はEDINETで見ることができる。また、決算を丁寧に作成するのを待っていては遅すぎるので、企業は「決算短信」という簡単な情報を先に開示するのがふつうである。

 決算に含まれる財務諸表には①貸借対照表、②損益計算書、③キャッシュフロー計算書があり、これらをもとに企業の財布の様子を確認できる。これによってその年にその株を保有し続けてもよいか判断したり、あるいは、投資しても大丈夫な対象かの基準にすることもできるだろう。

 

貸借対照表

  1.  (手元流動性)すぐに使えるキャッシュがなければ何もできず潰れる。売上高から月平均を計算して、すぐに使える現預金や売れる有価証券が何か月分あるか計算しましょう。1~1.5か月分ぐらいがOKライン。
  2.  (短期的安定性)1年以内の借金を返すあてがなければいくら売り上げがよくても会社は潰れる。流動資産と流動負債を比較し、負債を賄うだけのカネを決算時点で保有しているかをチェックしましょう。ただし、業種によっては「日銭」が多く入るところもあり、流動負債の額が大きくても大丈夫なケースもある。
  3.  (中期的安定性)会社の金は借金と株発行による調達したカネから成り立っている。株で集めた金は返す必要がないが、負債は返さなければならないので、負債の占める割合がデカすぎると潰れる。自己資本比率=純資産/資産を計算し、全体の15~20%ぐらいが返す必要のない金であることを確認しましょう。10%以下はヤバイ。

 会社のカネは負債と純資産から成る。この違いは返済の要不要であるが、両方に「調達コスト」がある。借金をすれば金利がつく。もし金利なしならゼロコストだってこと。そして株を出してもコストはつく。ふつう、株主が株に手を染めるのは国債とかいう安定した金融商品が役立たずだからだ。つまり株主は国債の利率よりも多くの利益を期待する。そしてその期待を大幅に下回ろうもんなら売却され、株価は下がる。これがコスト。しかも株主が期待する利回りは、ふつう、借金の金利よりずっと高い。

 だから自己資本比率は高けりゃいいっていうもんじゃない。それぐらい稼がなきゃいけないってことだから。で、資産あたりどれぐらい稼いだかっていう比率がROA(資産利益率)=利益/資産。このパーセントが高くなきゃ企業は続かない。なぜなら金利分も稼げてないし、株主を満足もさせられないから。純資産あたりどれぐらい稼いだかっていう比率がROE自己資本利益率)=純利益/自己資本。どちらが大事かといえばやはりROAだが、「自己資本比率が高く」安定的であるくせに、「低ROE」でその資本を有効活用できていない企業はやはりよくない。

 

 

 

 

釈迦の目指した「悟り」とはなんだったのか?【過去記事「仏教思想のゼロポイント」】

「悟り」とはなんなのか

 仏教の最終目的は「悟り」「解脱」「涅槃」である。だが、これがわからない。

 釈迦の教える生活の基本条項は『労働の否定』『生殖の否定』であり、ブッダ本人もそれが「世の流れに逆らうこと」(『聖求経』偈)であり欲望に流され楽しむ人々には理解できないだろうと言っている。もちろん在家の信者にまでここまで厳しい教えを守れとは言っていないのだが、最終目的が悟りである以上、彼らも最終的には《異性とは目も合わせられないニート》(p.35 仏教思想のゼロポイント―「悟り」とは何か―)になることが求められる存在である。仏教はまず「人間として正しく生きる道」という誤解を取り去って、理解されなければならない。仏教の最終目的はこの悟りであるから、瞑想によって人格をよくしようとかいう意図はないし、いいことをしようとかは二次的な問題なのである。マインドフルネスの目的は、放っておけば対象への執著に流れていく煩悩のはたらきを気づきによってせき止め、智慧によって塞いでしまうことで、悟りに至ることだ。

 仏教とは「転迷開悟」、つまり迷いを転じて悟りを開くのが目的の宗教である。これは一言でいえば、《衆生がその『癖』によって、盲目的に行為し続けることを止めること》(p.42)である。私たちはこれまでに多くの反応パターンを身に着けてきており、それに盲目的に従って喜んでいる。これはいわば自然選択によって得た我々の欲求のことだといえるだろう。その欲求には終わりがなく、常に、必ず、不満足に終わる。これが「苦」である。苦を避けるためには、そうした欲求を打ち捨てる必要がある。そうしてこの打ち捨ててしまうことを「悟り」と呼ぶのである。

煩悩の流れをせき止めることが悟るための唯一の道なのだが、当たり前のように、そこから悟るのはそれほど簡単なことではない。もしあなたが「よし今日から女に余計なイメージを持たずに単なる現象として見よう」などと思ったところで数日後にはPornHubである。ジブリ飯を見ておいしそうなどと思ってはいけないし、タランチュラが腕に這ってようが叫んではいけない。ゴキブリなんてただの現象だと思っても飛ばれるとキレるだろう。釈迦がマジで悟ってるとすると、どれだけヤバイ(すごい)ヤツかがわかる。多分拳銃突き付けられても平然としているし、アイアンメイデンに入れられても真顔だろう。

にんじんと読む「仏教思想のゼロポイント(魚川祐司)」🥕 - にんじんブログ

 

 さて、事実として釈迦は病気になって死んだ。悟ったわりに普通の死であるが、彼は悟っているのだから、亡くなるときには生老病死というものが単なる現象の継起にすぎないことをはっきりと把握していたことだろう。

 一番の問題は彼が死んだことではない。なぜ悟った時点で死を選ばなかったのかである。悟った時点で、釈迦は人間というものが単なる現象にすぎないことを理解した。ならなぜそんな人たちを教えてやらないといけないのか。それは少なくとも優しさではないし、愛情でもない。人々が哀れだったわけではない。ただ輪廻しているという、それだけのことで、良くも悪くもない。説法してやる意義も必要性もまったくない。

 とすると、釈迦は「遊んでいた」ことになる。悟ったあとの世界を楽しんでいた。必要性など一切ない遊び。意味など無い。釈迦は悟る才能のあるものだけ説法してやり、悟らせてやることにした。別にいいことをしているつもりではない。

 釈迦は世界で生きている人々を悟らせるためには、世界のことばで語ってやらなければならないと気づいていた。「物語」で人々を悟りまで少しずつ導いていく。原始仏教はその物語の一つに過ぎない。覚者によって物語は様々ありうるが、それが仏教の多様性に繋がっているのである。

 

 

 

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