にんじんブログ

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納豆の隠れたうまみに気づく

 妙な話なんですが、最近納豆のおいしさに改めて気づきました。

 

 にんじんはよく納豆を食べます。最近は美味しさよりも大豆に含まれている栄養素のため。ご飯のお供は他にもあるので本来は買わなくていいのですが、やっぱり畑の肉と言われる大豆は食っといたほうがいいよなあという浅知恵です。

 この前いつものように納豆を開けたら、豆がカラシの上に落下してしまいました。拾って封を切ろうとしましたがぬるぬるしてうまくいきません。それでとうとう我慢できなくなってカラシを投げ捨てる(※後日、美味しくいただきました)ことになってしまいました。にんじんはいつもカラシを入れるのでなんだか不満でしたが、あのぬるぬると真面目に格闘するよりも何も入れずに食べたほうがよいと判断したわけです。

 それで食べてみると、豆が甘いこと。そしてご飯にあうことあうこと。驚いて思わず笑ってしまうぐらいでした。そういえば昔、父親が「納豆にカラシを入れるやつは素人!w」と言っていたのを思い出します。

 

 やることとやらないことの区別というのも、案外難しいとこの頃は思います。やらないことも、その要因をOFFにするという意味でやはりやっていることになるからです。結局ものの違いなどというものは相対的なものなのでしょう。……と書いているとやはり思い出すのは「老子」です。

天下みな美の美たるを知るも、これ悪のみ。みな善の善たるを知るも、これ不善(ふぜん)のみ。故(まこと)に有と無相(あい)生じ、難と易相成り、長と短相形(あらわ)れ、高と下相傾き、音と声相和し、前と後相随(したが)う。ここを以(も)って聖人は、無為の事に処(お)り、不言(ふげん)の教えを行なう。万物ここに作(おこ)るも而(しか)も辞(ことば)せず、生じるも而も有とせず、為すも而も恃(たの)まず、功成るも而も居(お)らず。夫(そ)れ唯(た)だ居らず、ここを以って去らず。

 

世の人々は皆美しいものを美しいと感じるが、これは醜い事なのだ。同様に善い事を善いと思うが、これは善くない事なのだ。何故ならば有と無、難しいと易しい、長いと短い、高いと低い、これらは全て相対的な概念で、音と声も互いに調和し、前と後もお互いがあってはじめて存在できるからだ。だから「道」を知った聖人は人為的にこれらを区別せず、言葉にできない教えを実行する。この世の出来事をいちいち説明せず、何かを生み出しても自分の物とせず、何かを成してもそれに頼らず、成功してもそこに留まらない。そうやってこだわりを捨てるからこそ、それらが離れる事は無いのだ。

老子 第二章 天下みな美の美たるを知るも、これ悪のみ | ちょんまげ英語日誌

 

 ものの区別といったようなものは相対的なものである、というような意味の事です。老子は「道」という万物の大元についての説明を加えています。:要するにもともとはひとつであるところのものを人為的に区別したのが言葉であって、善も美も有も結局、名前に過ぎないのだ、ということです。この章はにんじんの世界観にも非常にマッチしたものなので、強く記憶に残っています。老子は、夏目漱石が「儒学よりも老子のほうが好きだ」みたいなことを言っていたらしいので見るようになったのですが、なるほど、老子道徳経は感じるところがあるだろうなと思います。講談社学術文庫金谷治さんの老子がおすすめですが、まぁなんでもよろしいので、一度読んでほしいと思います。

 

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