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エピクロスの倫理思想

 今までのいくつかの記事をまとめました。

エピクロスの倫理思想

 道徳原理には大きく分けて二つの種類がある。またその下位には二つずつ種がある。

 

 (1)経験的原理に立脚する道徳的形而上学=幸福の原理に基づく道徳

   1. 自然感情に基づく立場 → エピクロス

   2. 道徳感情に基づく立場

 (2)理性的原理に立脚する道徳的形而上学=完全性の原理に基づく道徳

   1. 理性的の理念に基づく立場 → ストア

   2. 神意の理念に基づく立場

 

 エピクロスの「精神の平静と肉体の無苦」を第一の善として快楽を認める立場は、自然感情に基づく立場である。不必要にご飯を食べるべきではないのは、それが不必要だからである。長期的に第一の善のために役に立つとみなされることならば、たとえ苦痛だとしてもやらなければならない。快楽の選択には各人の思慮が大切であり、学問をすることはその方法なのだ。まさにそのために、学問することそれ自体が精神的な快楽でありうる。キュレネ派はエピクロスの幸福を「死人の状態」といった。しかし死ぬと感覚がなくなるため、エピクロスにとって死は善いものでもなければ悪いものでもない。どうでもいいものである。

 エピクロスのこのような倫理思想は、生物一般が生まれ落ちたときから快楽を求め、苦痛を避けるという経験的事実から来ている。このように「倫理的行為の基礎は生まれたときから自然本性的に組み込まれているという前提」をもち、その自然本性を生まれたての揺籃期に求める論法を「揺籃の論法(cradle argument)」と呼ぶ。

 善と快楽が一致していること自体はエピクロスは論証するまでもないと考えていたようである。というのも、別の記事で紹介したように、エピクロスの証明は感覚に基づいている。悪い言い方をすれば「そう感じるんでしょ。じゃあそうじゃん」なのだが、詳しくいうと、感覚というものはエピクロスにおいて、嘘をつくことなくありのままをそっくりそのまま受容していると考えられている*1

 

 快楽をどのように選択するのか。快楽は欲求にはじまるから欲求の分析が肝要となる。自然的・必要の観点から分けて、エピクロスは自然的で必要な欲求の充足を求めた。食欲は自然的で、腹が減ったら食べなければ苦痛が生じる。だから、これは快楽に資する欲求である。しかし、食いすぎるのは問題である。*2

 快楽には大きく分けて静的快楽と動的快楽がある。第一の善とされるのは静的快楽であり、まさに「精神の平静と肉体の無苦」である。動的快楽は「喜びや愉楽」である。静的快楽が基本で、動的快楽は静的快楽に資するか害さない場合に許される。

 

倫理思想に対する反論あるいは疑問

(1)サイコ野郎の扱い

 少なくともエピクロスの議論だと、「正義」という従わなければならない何かがあるわけではないことになる。人を殺すのは何故いけないのか、という質問に対して、刑罰があるからだと答えるような不気味さがある。昔の人だから「魂が穢れる」とか言いかねないが、そんなことは現代のわれわれには理解できないことは言うまでもない(『主要教説』には快よく生きることと、思慮深く美しく正しく生きることが等しくされている。にんじんもそう願うが、根拠に乏しい)。

 たとえば犯人は殺人をなんとも思っておらずむしろ愉快でさえあり、相手は反抗できない弱者で自分が傷つくおそれもなく、また絶対にバレないというお墨付きが与えられているような場合、エピクロスはなんと答えるのだろう。殺人をどういう理屈で止めるのか、彼の倫理からは見えてこない。エピクロスは「殺人たのし~」という中二病的創作サイコの行為が倫理的に間違っていることを論証できない。ニュースを見ている限り創作だけとも言えないから厄介である。

 

 これがミルやベンサムの功利性原理に繋がっていくのだろうが、「エピクロス倫理」と「功利主義」を並べてみたとき、とてもふたつが進化前・進化後という関係にあるとは思えない。相当に異質なものに見える。

 

(2)どの程度思慮があればいいのか謎

 選択をするときはよく考えようね、と言うが、考えないで選択してないやつのほうが稀である。特に、それが重要な決断ならば。もちろん「勉強し続けようね」という答えも理解できないわけではないが、もし勉強し続けなければならないならアタラクシアに達するなど絶対に不可能である。なぜなら常に「おれの力は足りていたか?」と悩まなければならないから。

 「いや、可能だ」とすることもできる。思慮が必要なのは欲求を選択するときだから、それが起こらないように、感じないようにすればいい……。しかしこれはストア的な禁欲である。ストア派はまさに「感じない」ことを第一とするかのような極端な派閥だから、エピクロスとは相容れないだろう。

 

(3)人間関係はやっぱり道具?

 倫理といえば人と人との関係が思い浮かぶが、エピクロスの場合、その理論のなかに他の人間が登場するところはあまりなさそうに見える。彼は「友情の所有こそが」最高だといっているが、なぜそうなるのかよくわからない。

 

 

 

 これらは単純な疑問であるし、主要教説などにも言及が見られることである。たとえば正義はお互いに害さない契約であるとされていて、一応理由付けは与えられている。ただやっぱり「刑罰があるから人殺しはいけません」と言う風にいってるように見える。実際、主要教説34によると、不正発覚による処罰恐怖が動揺をもたらすのでよくない(悪である)と書いている。しかし本物のサイコ野郎はそんなことを考えないと思う(1)。ただ、人間は不快を避けるという前提があるのだから、エピクロスが処罰を避けると考えたのは理にかなっている。しかし、その処罰以上に不正に快楽を見出す人間も考えられないこともない。

 殺人の処罰として「アイアンメイデンによる拷問」などといったように残酷すぎるものを選べば犯罪は減るだろうか? そのような残酷な刑罰を採用することは倫理的にどうなのか?

 

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アタラクシアと幸福

 エピクロスの倫理思想を見ていく。

 

 エピクロスにとって第一の善とは「精神の平静と肉体の無苦」であった。

 精神の平静とは、動揺(タラケー)のない状態である。これはアタラクシアとも呼ばれていた。そもそも動揺というものは根拠のない信念によって生じる。これを除くのが理性であって、哲学もそのためにある。彼が具体的に考えていたのは『魂は不死であり、我々の魂は(身体の)死後にそれぞれに応じた報いを受ける、また神々は我々の生活に様々に関与する』という誤った信念である。

 アタラクシアへ至るためには魂や神々、自然一般について考察し、理性的に判断せねばならない。そして真とか偽とかを判断するためには規準が必要である。これによって生じてくるのが規準論であり、進んで自然学であるが、すべてはアタラクシアを第一の善(倫理学)とし、そこに向かうためなのだ。アタラクシアの状態にあるものは、根拠のない信念を持たない知者である。

 

 

動的快楽と静的快楽

 アタラクシアは静的快楽と呼ばれ、ふつうに想像される快楽とは異なる。味覚による快楽、セックスの快楽、音楽を楽しんだり、運動を楽しんだり……そういった快楽を動的快楽と呼ぶ。特徴づけるなら、静的快楽は苦痛がない状態であり、動的快楽は快がある状態である。エピクロスは静的快楽こそが真の快楽であるというが、動的快楽についてはどのように考えていたのだろうか。

 

 まずその前にこんな疑問が浮かばないだろうか。

 もし君がいまアタラクシアの状態にあるとしよう。それは苦痛のない状態である。私は苦痛のない状態を快楽であると感じるだろうか。恐らく感じないだろう。だとすれば、動的快楽を認めないということは「快楽なんて感じない状態」を理想とすることを意味する。しかし認めたところで、結局のところ感じるのは動的快楽だけであることには違いはなく、それじゃあそもそもアタラクシアなんて言葉は持ち出さずに「将来のことを踏まえて快楽を選びましょう」とだけ言っておけばよかったのではないか。哲学なんてやっていない限り、誰がアタラクシアなんて求めるだろうか。……

 

 エピクロスとして譲れないのは「アタラクシアと肉体の無苦」が第一の善だということである。そしてそのことから帰結するのは、次である。:動的快楽を認めないことは『快楽がない』を理想とすることに等しい。だからそれを避けようとすれば、動的快楽は理論的に認められなければなるまい。しかし、そうすると静的快楽の地位が危ぶまれるのだ。静的快楽と動的快楽はどのような関係にあるのだろうか。

  Ristはこれに関して、「全ての動的快楽は常に静的快楽の先在を前提とし、専らそれに継起するものに過ぎない」としている。たとえば、食事をするとき、『我々の口蓋は、何の苦痛も経験していないが故に既に静的快楽の状態にあり、摂食の動的快楽を感じるに至る。その後、食物が口を経て身体へと通過してしまった時には、この動的快楽は消滅する。その際、身体の様々な部位は食物によって回復せられ、静的快楽がその回復に伴う』という。

 

 お腹には苦痛が生じていると仮定する(空腹)。まず口は静的快楽の状態にある。食べることでお腹の苦痛が除去される(動的快楽)が、それはすぐに消えてしまい、静的快楽の状態となる。ところでわれわれは腹を満たした後も、食事をとることができる。しかしもはや、得られる快は限界に達しておりそれ以上得ることはできない。その後はただ「多様化される」とエピクロスは言っている。つまり、そのまま食べ続けても快は新しく得られず、最初に得たものを様々の形に変えていくだけである。

 静的快楽が先在するとは、つまり動的快楽が静的快楽への「復帰」によってもたらされるということだと解釈できると思う。静的快楽という状態への回帰こそが動的快楽なのである。

 

 

 

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人と思想 83 エピクロスとストア

人と思想 83 エピクロスとストア

  • 作者:堀田 彰
  • 発売日: 2014/08/01
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 エピクロスの勉強

 

 

 カール・ヤスパースは紀元前500年から前後300年の間を「枢軸時代Axial Age」と呼んだ。中国では諸子百家、インドでは釈迦、そしてギリシャでは哲学が興り、ソクラテスプラトンアリストテレスなどを輩出した時代である。

 最初の哲学者タレスは紀元前624年頃に生まれた。紀元前460年頃には原子論(アトミズム)という物質観を唱えるデモクリトスが誕生し、紆余曲折を経て、現代へと引き継がれた主たる思想となっている。

 紀元前341年に生まれたエピクロスは快楽主義の哲学者として知られる。彼はデモクリトスの原子論を知り、自然に対する見方を学んだ。アトムについて想像することで彼は「重さが違う物体でも、落下速度は同じ」という結論を導いた。しかしアリストテレスが「重いほうがはやく落下する」と言ったため16世紀のガリレオに至るまで、物体の運動は誤解され続けることになる。

われわれの生活が必要としているのは、もはや理に反することでもなければ、根拠のない思惑でもなくて、われわれが魂を乱されることなく生きることである。『ピュトケレス宛の手紙』

  彼の快楽主義は、放埓に生きることをすすめない。ふつう思い浮かべる快楽主義のイメージに近いのは紀元前435年頃に生まれた、ソクラテスの弟子のひとりであるというアリスティッポスである。彼は快楽を抑制するのではなく快楽を求める本能に従うべきだと唱えた。

 エピクロスにとっての人生の目的とは魂が乱されないことである。それは平静な心身の実現であり、そのような状態はアタラクシアAtaraxiaと呼ばれる。快楽とはそれぞれの思慮によって弁別されなければらならない。快楽は欲望の先にあり、欲望はいくつかの種類に分けられる。(1)自然的かつ必要、(2)自然的だが必要ではない、(3)自然的でも必要でもない、むなしい想いによって生じたもの。*3たとえば単に腹を満たすだけでなく、特別な珍味などに対する欲求は三番に該当するだろう。それは生理的欲求の解消というよりも、珍味という記号の消費に他ならない。*4

もろもろの欲望のうち、充足されなくてもわれわれを苦痛へ導くことのないような欲望はすべて、必要なものではない。『主要教説』

 エピクロスはアタラクシアの妨げとなるような快楽とそれに至る欲望を戒めたと言えそうである。判断の方法は「必要性」であり、その必要性は苦痛を取り除けることが条件で充たされる。われわれを肉体的に傷つけるもの・ことはやめたほうがいいし、われわれを襲う漠然とした死の恐怖などはそれを熟考し不安を取り除かなければならない。ちなみにエピクロスは死について、「絶対に経験できないので自分にはまったく関係ないという考えに慣れるがいい」という意味のことを言っている。もちろん納得できる話ではない。この点は彼が原子論者であったことも関係しているだろう。そもそも唯物論者が「倫理」について語っているのが変なのだがこれについて岩崎武雄はこう述べている。

それは、元来かれの自然学がただ迷信や恐怖を取り除くためにのみ考えられているのであって、決してそれ自身理論としての意義を持つものとは考えられていないからである。ここにエピクロスの場合にはストア派の場合以上に理論に対する軽視の傾向が見られる。

西洋哲学史 (教養全書)

  彼にとって理論はアタラクシアに至るための方便だったのだろう。*5しかしながら、唯物論者だからといって決定論を支持しているとは限らないし、治療としての自然学が破綻したものなら不安など解消できるわけがないので決して軽視していたわけではないと思われる。

 

エピクロスの思想

 規準論のみを下に書いた。

 エピクロスの思想の概要:感覚と感情が真理の規準であり、それは裁判における「証言」という意味で規準である。感情とは快・不快であり、人間の選択はこれをもとに行われる。第一の善は「精神の平静と肉体の無苦」である。この第一の善をもとに、快楽はすべて善きものとは認められず、思慮による選択が必要なのである。

エピクロスの思想

 彼は、哲学とは言語と推理を用いて幸福な生活の確保を目ざす実践活動である、と規定し、精神の平静と肉体の無苦を説く説教者の立場に立った。とはいえ、人間の生活が神々の気まぐれな介入と死後の霊魂に降りかかる懲罰の恐怖とによって脅かされている状況にてらして考えれば、この二大脅迫要因から人間を解放するために自然界の本質と法則に関する知識も不可欠となる。エピクロスも、自然学の探究は苦痛をともなわないので純粋な快楽であると信じ、弟子たちにその探求を勧めている。

人と思想 83 エピクロスとストア

 自然学の探究は「精神の平静と肉体の無苦」のためであり、そして「純粋な快楽」のためであった。彼にはまず第一に「精神の平静と肉体の無苦」があったのであり、理論はそれに奉仕するのである。

 この思想は非常にわかりやすいものだが、しかし、文学・修辞学・数学・天文学・論理学などを「無価値だとし」て、「不信を表明した」そうで、正直この点に関しては理解しかねる。これについては、エピクロスが原子論を基礎にする唯物論者であり、精神作用も結局は原子の運動にすぎなかったために、原子の衝突を扱う自然学にのみ力点をおいたと考えられる。とはいえ、唯物論者の割に精神の平静がどうだのと取り扱っているのは少々妙な感じがする。

 

 エピクロスの思想は「規準論」と「自然学」と「倫理学」の三つに分かれる。

 

 

規準論

 ディオゲネス=ラエルティオスが伝えるところによれば、エピクロスは真理の標識として「感覚と先取観念および感情」を挙げており、エピクロスの弟子たちがこれに「精神の表象作成的接触というものを付け足した。そして先取観念と精神の表象作成的接触というもののふたつは、感覚に由来するため、結局は感覚と感情が真理の規準であるとされる*6

 エピクロス認識論においては、判断の真理性は感覚に帰着して検証される。たとえば遠くに人が見えたとする。それを「人である」と判断している。しかしそれは遠くから見ている限りのことで、〈確証の期待されるもの〉に過ぎない。であるから、近づいてみて感覚によって確証されればそれは真、マネキンだったらそれは偽ということになる。だがたとえば原子であるとか、天界のことなどは確証を期待する方法がない。感覚することができないからである(原子というと周期表が思い浮かぶが、エピクロスの場合、精神すら原子によって構成されている。””アトム””と呼んだほうが誤解が少ないかもしれない)。こうした原子などに対しては、感覚によって反証されない限り、真だと認めるとされる。

  •  感覚できるもの【確証の期待されるもの】 → 確証
  •  感覚できないもの【不明なもの】 → 逆証欠如

 これが「真である」ということで、偽であるのはこれと逆に確証欠如&逆証である。 

先取観念

 正しいものについての観念内容を個々の事例が正しいかどうか考察する以前にすでにもっている……という思想のもと、この観念内容を〈先取観念〉と呼んだ。これはプロレープシスの訳語であり、proというのは「前の」という接頭辞である。エピクロス哲学の全貌を簡潔に伝えているのが『ヘロドトス宛の手紙』であり、これは弟子たちから「小摘要」と呼ばれていた。*7

 われわれは語の基礎にあるもの(語の示す先取観念)を捉えるべきである。というのは、それ(規準としてのそれ)に帰着することによって、判断・吟味・問題の対象となるものを判定しうるためにであり、そして果てしなく説明をつづけるばかりで何ひとつわれわれに判明にならなかったり、あるいは、われわれが無意味な語を用いたりなどするような、そういうことのないためにである。じっさい、このためには、われわれは、おのおのの語について、最初に浮ぶ心像に着目せねばならないのであり、もしわれわれが吟味・問題・判断の対象となるものの帰せられるべき拠りどころ(語の基礎にある先取観念)をもっているならば、語の説明などもはや何らの必要もなくなるからである。

エピクロス―教説と手紙 (岩波文庫 青 606-1)

 先取観念に対する批判はあとに回そう。先取観念というものが必要とされる理由はわかりやすい。たとえば「これは馬か、牛か?」と問う時、そう問う以上、馬や牛を知っていなければならないからである。下記の「了解」との差異は、この「知っている」ということの理解にかかわる。先取観念を有することはそれをそれとして知っていることと同じではない、とにんじんは思う。

 さて、その先取観念はエピクロスによれば感覚経験によって形づくられる。それはたとえば、椅子と呼ばれるものを何度も見ることによって記憶に留められたある型である。つまり先取観念は感覚により成立するのであって、先天的なもの、アプリオリなものではない*8。だから真理の規準として挙げられていた四つは実は三つで済むことになる(人と思想 83 エピクロスとストア)。

解釈学的な「了解」との差異 

 この〈先取観念〉という語は非常に興味深い。とはいえ、これはハイデガーのいうような「存在了解」でも、和辻哲郎のいう「実践的了解」でもないだろう。というのも、〈先取観念〉とは表象のことであり、記憶のことだからである。たとえば椅子というものを何であるかを知るとき、われわれは何を知っているのだろうか。ドレイファスが『世界内存在』の第四章で語っている「椅子がなんであるかを知っていること」の一例が先取観念に近いと思う。

(b)われわれは、プロトタイプとしての標準的な椅子のイメージを持っており、それと他の対象を比較して、対象がプロトタイプからどのくらい隔たったものかを判定するのかもしれない。

世界内存在―『存在と時間』における日常性の解釈学

  エピクロスの場合はこうなる。何度も「椅子」と呼ばれるものを見るうちに、自分のなかに「椅子」というある型ができてくる。そしてその型を用いて、次のモノに出くわした時にそれが椅子か椅子でないかを判断するのである。しかしこのようなイメージを仮に椅子を使わない部族に持たせたと想定しよう。このとき彼らは椅子を理解しているといえるのだろうか。彼らがそのイメージを用いて対象を見分けられたとしても、「椅子」を知っているとは言えないだろう。「椅子として」は知られていないだろう。

 「了解」と異なるのはそれが表象、つまりイメージ・手持ちの見本のようなもの、だからであり、それをどう使うかなど連関的な理解に至っていないからである。椅子を知らない人たちにいくら椅子の見本を見せて「これがisuデス」と区別できるようにしたところで、彼らが「椅子」を知っていることにはならないのだ。

精神の表象作成的接触

 これはepibolaiの訳語であり、表象作成的接触(image-making contact)とか把握(apprehension)とかと訳すのが今日流である*9。ここでは以後「精神の把握」と呼ぶことにしよう。

 精神の把握というのはわかりづらい。本節冒頭のエピクロス認識論を思い出そう。【不明なもの】の真理性は逆証欠如のことで、不明なものとは原子や天界のことであった。不明なものが確証ではなく逆証欠如のこととされたのはそれが普通の意味で感覚されないからである。エピクロスがいうには、そうした不明なものは精神を構成する微細な原子によってだけ知覚される。こうした知覚を「精神の把握」と呼ぶのである。

神のごときものは微細な映像を送ってくるので、その映像は精神を構成する微細な原子によってだけ知覚される。

人と思想 83 エピクロスとストア

人と思想 83 エピクロスとストア』においては精神の把握が「感覚の変種」であるとしてこれを感覚のうちに含めている。これはもとの「感覚」の意味を広げるもので、先取観念の議論とは異なり、やや強引である。しかし感覚と同様に受動的であるのは間違いない。

 広げた感覚概念を「広義の感覚」と呼べば、真理の規準は「広義の感覚」と「感情」とまとめてしまうことが許されるだろう。しかし、わざわざまとめるに足る積極的な理由は特にないように思われる。用語的にややこしいし、むしろ精神の把握という言葉を残しておくことで、エピクロスの原子論的な思想が残るような気がする。

 

 

 

 

*1:結局それでも「そうでしょ? ならそうじゃん」の一言を長く言ったに過ぎない感じはある

*2:このことは、贅沢を否定するように思われる。

*3:自然的・必要の二次元で分けたものだが、「自然的ではないが必要なもの」のカテゴリーがない。すると、「必要な欲望ならば自然的だ」と受け取れる。つまり「自然的でないなら不必要だ」とも取れる。

*4:しかしこの点に関しては「贅沢」という観点から考えられる。むしろ少々の贅沢が可能であるほうが幸福である気がするからだ。また、なにを「自然的」とするかによっても態度は異なるだろう。精子を出すのが性欲なのか、子孫を残すのが性欲なのかによって、子を残すか残さないかが決まってしまう。ちなみにエピクロスは子を作らなかった

*5:とはいえ、知識を得るのが不快を避けるためだという考え方は彼だけのものではない。ジョン・ロックは、人間の意思決定は「落ち着かなさ」に由来しこれが感じ取られない限りは人は行動に移さないと言った。

*6:人と思想 83 エピクロスとストア

*7:哲学体系を伝えるものとして「大摘要」があったのだが、それは今日には伝わっていない

*8:これゆえに、カントが純粋理性批判でいう「予科」とは異なると指摘されている。エピクロス―教説と手紙 (ワイド版岩波文庫)

*9:人と思想 83 エピクロスとストア