そこで私は古代ギリシア人から始める。なぜそのように遠いところに出発点を求めるのか。答えは簡単で、プラトンとアリストテレスの仕事はまだ乗り越えられていないからである。
プラトンとアリストテレス以前
民主的な政治をしていたアテナイでは、集会や法廷で弁舌巧みに相手を説得する能力が政治的な成功のカギとなっていた。その弁論術を教えたのがソフィストであるが、彼らは尊敬される一方で強烈に非難されてもいた。黒を白だといいくるめる悪しき技術を教える者たちだとみなされたからである。
ソフィストの一人であるプロタゴラスは「人間は万物の尺度である」と言った―――黒を白だと言いくるめるとあなた方はいうが、そもそも真理というものは人間が決めるのであり、客観的真理などというものはない……こうして、彼は非難をかわそうとしたのである。そして多くのソフィストも彼と同様に、非難をかわすために真理という概念を攻撃した。この考え方は、彼らの倫理思想にも影響していく。
ノモスーピュシス
たとえば道徳の問題はノモス(法律・慣習)の問題である。ノモスはピュシス(自然)と対置される―――あの社会ではこうしておりこうするのが駄目だという、しかしこの社会ではこうするのはよいとされているではないか。道徳だとか正義だとかは結局のところ人間が生み出したノモスに過ぎないのだ………という理屈である(「道徳はピュシスではない」道徳的相対主義)。
この道徳的相対主義は、時に道徳的ノモスの重要性を強調した。しかし急進的なソフィストらによれば、「道徳的な強制が単なるノモス(法律・慣習)に過ぎないならそんなものは捨て去られるべきだ」という。ノモスに従うよりもピュシスに従って生きるべきである、という立場である。「自然に従って生きる」という言い方にはさまざまな解釈がありうるだろうが、もっとも一般的なものは自分自身の利益追求のことである。そしてそのためならばノモス的な束縛を拒否することもある。
保守と急進のふたつのソフィストは、共通点がある。道徳的な正しさとやらに客観的真理をまったく与えようとしないのが保守(その代わりノモスを与えた)であり、道徳的正しさとやらに法律だとか慣習だとかそんな基準を認めないのが急進派である。ふたつの派閥はお互いに、正しさの規準を問題視していた。つまりこのような問題を浮き彫りにした。:「私はなぜあのような仕方でなくこのような仕方で行動すべきか?」
保守はノモスと答え、急進はピュシスをとった。だが大抵の場合、真理はちょうど真ん中にあるものだ。これに答えたのがプラトンやアリストテレスだった。彼らは勇気や節制、知恵、敬虔、正義などの伝統的なギリシャ的観念を擁護しつつ、これらに従う生活こそが最も幸福なのだと示そうとした。
もしこれが成功すればノモスとピュシスの闘いは終わる。単にノモスに従えというのでもなく、自分の利益追求にひた走れというのでもない。「ノモスに従う生活が実は君のいうピュシスに近づいているんですよ」というわけだ。
ソクラテス・プラトンの道徳 → 倫理学的自然主義へ
『国家』においてソクラテスは「正義とは何か」という問題を扱った。
まず老ケパロスと息子ポルマルコスがノモスの立場を代弁する。これに対してトラシュマコスが「ノモスというのは社会の支配者グループによってつくられたものだから自分が首尾よくやれるならそんな正義は無視して利益を追求せよ」というピュシスの立場を代弁する。そしてこの後、グラウコンがこの二つの立場を調停しにかかる。
グラウコンがいうには、たしかに利益追求というのは望ましいけれども、君がそればかりやるということは他の者もそればかりをやって君に危害を加えることもあるだろう。だから各人は出来る限り互いに危害を加えないというノモスの正義があるほうがよいのだ……。つまりそちらのほうが損害を小さく利益を得ていくことができるため合理的だという、今日にも一般的な意見である。
さて、このようななかでソクラテスの問答が始まる。
- ソクラテスはピュシスとノモスをグラウコン以上に近づけようとする。ノモス的正義はピュシスのための最善策というに過ぎないわけではない。ノモス的正義自体も人間の自然的本性に属すものなのだ。
- ノモス的正義を守っていたら個人の利益が阻害されることも否定する。ノモス的正義に合致した生活は最も幸福で価値がある。グラウコンは正義は幸福の手段であったが、ソクラテスにとってはそれは一致するのだ。
- 正義は人間の自然的本性である。だから彼はソフィストの言う客観的な倫理的真理の不存在を否定する。
さて検討に入ろう。
まず第一点だが、そもそもピュシスの正義がノモスの正義に一致するのだろうか。
第二点だが、正義というものはピュシスだといっているのだから、それを認めれば個人の利益となるのは自然なことである。つまり正義とは健康のようなものであって、病気(不正)をするより健康なほうが望ましい。
第三点だが、正義が健康と似ているという比喩を用いれば、たしかになにが正義かは客観的に規定可能なように思われる。
正義は健康のようなものか
つまり正義とは精神の健康である。だがそのように考えることには問題はないのだろうか。
(1)「不道徳的なやつは精神的に病んでいる」のだろうか。不正を行いながらも平然として、異常な気配もないやつはどうなのだろう。われわれは括弧で示した考えが現代にも及んでいることを見るだろうが、同時に、不正をしながらまともな顔をしている人の存在をも見るだろう。
(2)肉体的に健康であることは身体上の事実によって決定されうるけれども、精神の健康についてはわれわれが前もって持っている価値観による。このことは客観性とはほど遠いように思われる。
(3)肉体的健康が医師免許をもっている人に委ねられるように、精神的健康も専門家に明け渡すのか。
アリストテレス
エウダイモニア
アリストテレスの倫理学はまず「人間活動の究極目的は幸福である」という主張から始まる。この幸福というのはエウダイモニアを訳として登場するが、注意を要する。それはエウダイモニアというのは、そのような〈状態〉を指すのであって、それを〈感じる〉ことではない。幸福であることと、幸福と感じることの区別のされたことは注目に値する。
- さて、「幸福と感じる」と聞くと「快楽」を連想するかもしれない。もししなかったとしても、幸福と快楽というのはどのような繋がりがあるのかは気になるところである。これについてアリストテレスは、幸福な人は自分の生き方に快楽を見出すとしたが、逆は成り立たないとした。つまり、快楽とは幸福に付随して起こる。「快楽が活動を完璧なものにする」。
- このことを快楽の側からみれば、快楽には幸福に関係するものとしないものの二つの区別があることになるだろう。アリスティッポスなどの典型的な快楽主義は一切の快楽を幸福と一致させるので、このような区別は生まれない。この点、エピクロス倫理思想は条件付きで快楽を容認する立場であるから穏健である。よい快楽と悪い快楽の区別を認めるならば、快楽というのはそれ自体では何も言わず、規準になるものではないことがわかる。
次に問題になるのはこの主張自身であろう。つまり、エウダイモニアを目ざしてわれわれは日々活動しているのだろうか。アリストテレスはそうだといい、一般的な合意があるとさえ言っている。無理矢理な気もするが、まぁそうだろうなという気もする。
いかなる技術も探求も、また同様にいかなる行為も営みも、何らかの善を目指していると考えられる。
むしろここで問題としなければならないのは、「目的/手段」という枠組みの導入である。この活動はあれを目的とし、あれはそれを目的とし、という系列はいずれそれ自体を目的とする何かにぶつかるだろう。この主張は最初の主張を補強しているように見える。というのは、行為することはAという目的のためになされ、最終的にCというそれ自体が目的とされるものにぶつかるのだから、そのCがエウダイモニアであるとみなせば、たしかに人間活動の究極目的はエウダイモニアだからである。しかし目的の連鎖が共通の目的に達するかどうかはわからない。つまり、エウダイモニアは「それ自体目的な事柄」の集合であると見なしたほうがよい。だが、主要な主張を補強するこのテーゼ自体には論拠は与えられていない。いかなる行為も目的を持つのだろうか?
道徳の哲学者たち―倫理学入門においては『人間が欲求する他のものはすべて幸福への手段として欲求されていると語ってもいない』(p51)と書いているが、あらゆる行為や活動がエウダイモニアに目的連鎖で繋がれている以上、エウダイモニアへの手段と言わざるを得ないので、これはどうかと思われる。
ちなみに、エウダイモニアを「それ自体目的」の集合体にすぎないので、その要素同士の優劣を言い立てるのは無理があるだろうと考える。
- サルトルの考えによると、「人間をある目的のための存在だと見なすことができるのは、人間がナイフと同様に神という職人に作られたものだとする場合に限ってのことである」(道徳の哲学者たち―倫理学入門)。アリストテレスは理性に従って行為することが本来だといったが、なぜそれが本来なのかは説得力がない。
伝統的な徳は理性の形態
アリストテレスはエウダイモニアを目指すところとし、理性的に行為することが本来的であるとする。そして勇気や節制のような伝統的な徳は、そうした理性に一致した行為の様々な形態として把握されるのである。もしこれらが正しければ、ノモスとピュシスを一致させたプラトンの企てがここでも行われることになる。
どうして理性的に行為することが伝統的な徳に繋がるのか。それが「中庸」というアリストテレスが唱えた有名な説である。これは中点を常に選べという教訓というよりも、「しかるべき時にしかるべきことをしかるべき程度で、過不足なくやる」というぐらいの意味である。激怒することを戒めたわけではもちろんない。やりすぎや、やらなさすぎを戒めていた。合理的に怒れ、というわけだ。怒りたくなる。この感情を理性でコントロールする、というイメージが近いと思われる。
誤解を防ぐために中庸というものを区別しておくことは有用だろう。(1)事柄における中庸 …… 両極端のあいだの中点、(2)我々に関連しての中庸。問題となっているのは「我々に関連しての中庸」なのである。これは状況にふさわしいアリストテレス
エウダイモニア
アリストテレスの倫理学はまず「人間活動の究極目的は幸福である」という主張から始まる。この幸福というのはエウダイモニアを訳として登場するが、注意を要する。それはエウダイモニアというのは、そのような〈状態〉を指すのであって、それを〈感じる〉ことではない。幸福であることと、幸福と感じることの区別のされたことは注目に値する。
さて、「幸福と感じる」と聞くと「快楽」を連想するかもしれない。もししなかったとしても、幸福と快楽というのはどのような繋がりがあるのかは気になるところである。これについてアリストテレスは、幸福な人は自分の生き方に快楽を見出すとしたが、逆は成り立たないとした。つまり、快楽とは幸福に付随して起こる。「快楽が活動を完璧なものにする」。
このことを快楽の側からみれば、快楽には幸福に関係するものとしないものの二つの区別があることになるだろう。アリスティッポスなどの典型的な快楽主義は一切の快楽を幸福と一致させるので、このような区別は生まれない。この点、エピクロス倫理思想は条件付きで快楽を容認する立場であるから穏健である。よい快楽と悪い快楽の区別を認めるならば、快楽というのはそれ自体では何も言わず、規準になるものではないことがわかる。
次に問題になるのはこの主張自身であろう。つまり、エウダイモニアを目ざしてわれわれは日々活動しているのだろうか。アリストテレスはそうだといい、一般的な合意があるとさえ言っている。無理矢理な気もするが、まぁそうだろうなという気もする。
いかなる技術も探求も、また同様にいかなる行為も営みも、何らかの善を目指していると考えられる。
むしろここで問題としなければならないのは、「目的/手段」という枠組みの導入である。この活動はあれを目的とし、あれはそれを目的とし、という系列はいずれそれ自体を目的とする何かにぶつかるだろう。この主張は最初の主張を補強しているように見える。というのは、行為することはAという目的のためになされ、最終的にCというそれ自体が目的とされるものにぶつかるのだから、そのCがエウダイモニアであるとみなせば、たしかに人間活動の究極目的はエウダイモニアだからである。しかし目的の連鎖が共通の目的に達するかどうかはわからない。つまり、エウダイモニアは「それ自体目的な事柄」の集合であると見なしたほうがよい。だが、主要な主張を補強するこのテーゼ自体には論拠は与えられていない。いかなる行為も目的を持つのだろうか?
道徳の哲学者たち―倫理学入門においては『人間が欲求する他のものはすべて幸福への手段として欲求されていると語ってもいない』(p51)と書いているが、あらゆる行為や活動がエウダイモニアに目的連鎖で繋がれている以上、エウダイモニアへの手段と言わざるを得ないので、これはどうかと思われる。
ちなみに、エウダイモニアを「それ自体目的」の集合体にすぎないので、その要素同士の優劣を言い立てるのは無理があるだろうと考える。
サルトルの考えによると、「人間をある目的のための存在だと見なすことができるのは、人間がナイフと同様に神という職人に作られたものだとする場合に限ってのことである」(道徳の哲学者たち―倫理学入門)。アリストテレスは理性に従って行為することが本来だといったが、なぜそれが本来なのかは説得力がない。
伝統的な徳は理性の形態
アリストテレスはエウダイモニアを目指すところとし、理性的に行為することが本来的であるとする。そして勇気や節制のような伝統的な徳は、そうした理性に一致した行為の様々な形態として把握されるのである。もしこれらが正しければ、ノモスとピュシスを一致させたプラトンの企てがここでも行われることになる。
どうして理性的に行為することが伝統的な徳に繋がるのか。それが「中庸」というアリストテレスが唱えた有名な説である。誤解を防ぐために中庸というものを区別しておくことは有用だろう。(1)事柄における中庸 …… 両極端のあいだの中点、(2)我々に関連しての中庸。問題となっているのは「我々に関連しての中庸」なのである。これは状況にふさわしいように、つまりやりすぎもせず、やらなさすぎもしないように、行為するということ。このふさわしさを見ぬくのが理性である。