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にんじんと読む「フッサールにおける超越論的現象学と世界経験の哲学」🥕 第二章①

第二章 現象学の展開

 フッサールは「現象学は記述的心理学である」と書いている。これは第一章で見たように、論理学的認識一般の解明のために意識を研究するのだからこう呼ばれるのであるが、しかしそれはやはり通常の意味での心理学ではない。現象学は心理学の理論そのものではなく、その前段階だからだ。心理学はデータを集め、帰納的一般化を行い、仮説を立て、検証し、予測などがされる。しかし記述的心理学は論理学的諸概念、理念的なものの源泉を開明する。現象学は対象の存在といったようなことについて、超越的なものについて、一切記述を行わない。これに対して科学である心理学はそうした対象を前提としながら進む。「無前提性の原理」とは、「現象学的に完全に実現されえないような想定は、すべて排除する」ということを意味する。

 記述的心理学に対して、超越論的現象学というものもある。現象学と心理学には二つの対立軸があり、それらに応じて二つの方法が要求されている。

  1.  事実的/本質的。『形相的還元』によって現象学と心理学を区別。
  2.  実在的/非実在的。『超越論的還元』によって現象学と心理学を区別。
  • (Ⅰ) たとえば人間は理性的な動物であるという言明は、人間が「何であるか(本質存在)」を言い当てようとするものだが、たとえ真であるとしても人間が「実際にある(現実存在)」ことは含意しない。つまり言明が真なら、人間が一人でもいるならたしかに理性的な動物であろう。現象学が本質学であるのは、《ある種の意識経験(例えば知覚)が実際に生起しようとしまいと、それがこの種の意識経験(知覚)であるかぎりはそうでなければならないような本質のみが問題であるということ》である。そのような体験が現実存在するかどうかはどうでもよろしい。それはたとえば幾何学が、「三角形なんて本当に存在するのか?」などということに興味を抱く必要がないのと同じことである。一方、心理学は事実的なあり方を問題にする。
  • (Ⅱ) 実在性とは時間・空間によって個体化される存在者一般のカテゴリーである。ところで非実在的=理念的という等号は成り立たないことに注意しよう。フッサール非実在的ではあるが、理念的ではないようなものがあると主張しており、そうしてそのような理念的ではない非実在的なものを確保する方法として挙げられているのが『超越論的還元』である。

 形相的還元というのは心理学的現象から本質へ導いていくようなものであり、記述的心理学と心理学を区別するものがこれである。言い換えるならば、形相的還元とは、《与えられる事実に対して、それを一つの個別事例(インスタンス)として持つような本質を主題化する手続き》(p.58)である。

 一方、『超越論的還元』は本質/事実という二つのカテゴリーとは基本的には関係がない。超越論的現象学は実在的な現象をこの超越論的還元という手続きに従って非実在的なものとして主題化し、形相的還元によってこの非実在的なものの本質を主題化するというステップを踏む。超越論的還元によってわれわれが手にするのは本質ではなく、非実在的なものであるがゆえに、形相的還元とは異なる。

 

 フッサールも最初は上のような概念区分を明確にしていたわけではない。ここからは「心理学」と「現象学」のコントラストの内実をより明確に跡付けていこう。

 

【これまでのまとめ】

  •  フッサールが『論理学研究』第一巻においてはじめたのは、心理主義に対する批判である。フッサール心理主義の対立は、《論理学の主題がただ実在的なもの(出来事)であるに尽きるのか、それともそうではない》(p.4)かであるとまとめられる。フッサールは、論理学の主題が理念的なもの、つまり生成消滅することのない非実在的なものにあると見た。この主張を支持することによって生じてくる問題は、「実在的な存在者」と「理念的な命題やその論理的連関」の関連である。それらはなんらかの意味で関わりあっているはずである。理念的なものについて我々は考えることができるが、そもそも理念的に客観的なものが実在的で主観的なものにおいて把握されるなどということが一体どのようにしてなされるのか。この問題を考えるためには、まずそうした事実を支持する(論理学的認識の基礎づけ)か、批判するか、どちらかの道を選ばなければならない。
  •  しかしいずれにせよ、論理学的認識というものを考えるためには、認識というものについてわかっていなければならない。そこでまずは「理念的に客観的なものが実在的で主観的なものにおいて把握される」ということが起こっている舞台である意識というものの働きを解き明かすという課題が生じる。そこで登場するのがフッサールの志向性の理論(論研「第五研究」)である。
  •  志向的体験=作用を、実的な部分=その体験を実質的に構成している部分に則して記述することが「現象学的分析」と呼ばれるものである。逆に言えば、実的な部分でないものにはフッサールは興味がない。たとえばそれは対象の現実存在などが例に挙げられるだろう。なぜならそれがたとえ幻覚であろうが、そのような志向的体験は可能だからである。
  •  実的な部分のうち、抽象的な部分=それ単独では成立しえず、必ずある全体に付随して見出されるような部分のことを「契機」と呼ぶが、これによって志向的体験を識別することができる。それが「質料」であり、また「性質」である。実は志向的体験というのは、質料と性質の二つの関数のようなものといえることが判明する。
  •  目を向けるのは「意味志向」である。これはたとえば「知覚作用」を支えにして成り立つものであるが、知覚作用とは確実に区別される独特なものである。私たちが、雨が降っているといわれてそれをほんとうだと思うのは、たとえば実際に窓の外を見るときだろうが、このほんとうだという意識は「意味充実化作用」と呼ばれるものである。そうしてこの充実化こそ、客観的諸概念という手形の現金化のようなものであり、現象学の主題であり、方法である。「事象そのものへ」とは、言い換えれば「直観せよ」ということでもある。
  •  ところでこの直観というものには、個々のモノを捉える感性的な直観だけではなく、一般者・種・本質を捉える「理念化的抽象」もあるのだとフッサールはいう。実際、同じ色や同じ音、同じ動物といった言い方をすることからも、直観がいつも個別を相手にしているわけではないことがわかる。