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「漢詩」ってなんかカッコイイよね(漢詩・日本語入門)

 本日のテーマは漢詩です。

 

 ⇩ 漢詩の入門。ガッツリした本から入って挫折したので、わかりやすそうなものから手に取ってみました。

基礎からわかる 漢詩の読み方・楽しみ方 読解のルールと味わうコツ45 (コツがわかる本!)

基礎からわかる 漢詩の読み方・楽しみ方 読解のルールと味わうコツ45 (コツがわかる本!)

 

 

 漢詩というのは古代中国語で書かれた詩みたいなもので、今のところ最古のものは儒教孔子がいた紀元前に編纂された『詩経』(しきょう)です。二百年ほど時は経ちますが、やはり紀元前の頃、今度は『楚辞』(そじ)が編纂されこれが大変な影響を及ぼし、戦国時代の終わりに(前漢)、なんとお役所が漢詩の専門部署まで立ち上げます(「楽府」といいます)。この間に詩の形式が徐々に固まってきまして、「唐」という国ができた頃に全盛を迎えるのです。

 漢文を大きく分けまして、唐以前のものを「古体詩」、以後のものを「近体詩」といいます。漢文には「平仄」と「押韻」というともかく二種類の規則があるわけですが、古体詩には「平仄」のほうの規則がありませんでした。しかも字数や句数も定まらず、先ほど言ったようにまだ詩の形式が固まっていなかったわけですね。

 

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 そういうわけで、まずは型ができあがっている「近体詩」を見ることで、漢詩の特徴を捕まえてしまおうということになります。平仄だとか押韻だとかは面倒だから後にして、今はただ形式的に分類しておきましょう。一言でいえば、『行列』です。

 たとえば上図には5×4の漢字行列が来ている。だから五言絶句です。同じように7×4なら七言絶句となります。

 とはいえ、100言絶句などはないわけで、そのあたりもある程度決まりがあります。基本的には「五言」「七言」であって、例外的に「六言絶句(りくごんー)」がある。そして句数は普通「絶句」「律詩」であって、例外的に「俳律」があります。

 

 さて、この形式的な分類では、漢詩というものは単に漢字を意味あるように並べただけのものとなります。1972年田中角栄元首相が日中国交回復交渉を始めた折に、

 

国交途絶幾星霜 国交途絶して幾星霜
修好再開秋将到 修好再開の秋(とき) 将に到らんとす
隣人眼温吾人迎 隣人の眼は温かく吾人を迎え
北京空晴秋気深 北京の空は晴れて秋気深し

 

 という漢詩を書いたのだそうです。けれども残念なことに、これはいわゆる「漢詩もどき」として有名になってしまいました。それはこの詩が『平仄の規則』も『押韻の規則』を守っていなかったからです。

 これは古代中国語の発音と、その並べ方の規則です。漢字には四種類のアクセントがあって「平声(ひょうしょう)」「上声(じょうしょう)」「去声(きょしょう)」「入声(にっしょう)」といいます。

 平声を「平」、その他を「仄」と呼び、これを置く規則を『平仄の規則』といいます。また、韻を踏む場所も決まっていて、これを『押韻の規則』といいます。古代中国語ですから、現代とはかなり違います。

 

漢文と日本文化

 漢字というのは、もともと日本のものではありません。漢字が入る以前、日本には文字を持っていませんでした。一時は、神代文字(じんだいもじ)といって、漢字以前に日本は文字を持っていたと主張されることもありましたが、今では認められていません。

 漢字……というよりも、「巻物」が……日本に伝来したのは、四世紀頃のこととされています。これは文化的には大変な幸運で、実は世界のほとんどの国は、大航海時代が始まる十五世紀頃までは無文字文化でした。ただし文字に触れたのは、いわゆる今の日本の領土というわけではなく、北海道のアイヌの人々、それから一般の庶民はしばらく先まで文字を知らずに過ごします。

 ごく一部の、当時でいうエリートが、漢字というものを翻訳しはじめました。これを日本で当時話されていた言葉に置き換えて、なんとか読みほぐしたものの成果が「漢文訓読法」です。①まずは返り点。漢文は中国の言葉ですから語順が違います。これを日本に合うようにします。②次に助詞。てにをはとか、であるとか、日本語を読むには助詞が必要です。けれど、日本は文字を持っていなかったわけですから、手持ちには漢字しかありません。そこで漢字の持つ意味を捨て、ともかくこう読むんだというカタカナを作りました。最初は漢字とほとんど同じものでしたが、だんだん省略されていき、現在の形に近づいていきます。カタカナとは別の、もうひとつの文字体系が「ひらがな」です。

 たとえば、カタカナのアは「阿」の部首が変形したもので、ひらがなのあは「安」が変形したものです。

 

 日本はよその文化を取り入れて融合させました。そうとはいえ、「文化」というものは大抵そういうものです。特に日本だけが特別なわけではありません。

 

 しかし、『漢語』ではなく『日本語』として成熟していったのは、不思議なことです。というのも、現地の言葉というものは、それよりも大きい文字文明にとってかわってしまうからです。日本がその道をたどらなかった理由として、

 もっとも大きな原因は、日本が中国大陸から海を隔てた列島であったということにつきる。(略)日本の漢文圏からの距離――それを象徴するのが、日本が科挙制度という漢文圏全体を覆う強力な牽引力から逃れられたという史実である。

増補 日本語が亡びるとき: 英語の世紀の中で (ちくま文庫)

  と言われております。

 科挙制度がもし日本に広く行き渡っていたら、漢字ばかりを練習し、現地語が深められなかっただろうということです。日本の「漢字」「現地語」の両方が使える男たちは、漢字も、そしてそれを用いて表される現地語も、両方使った。

 日本では、遣唐使を送るのも間遠になり、日本が内向きになるに従い、〈現地語〉の象徴とでもいうべきひらがな文を、読書人の男が進んで使うようになっていった。最初の兆候は、まずは、和歌という〈現地語〉の文芸の地位が上がっていったことに現れる。最後の遣唐使が八三八年(八九四年の遣唐使菅原道真によって中止された)。最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』が編纂されたのが九〇五年。中国との距離の広がりはそのまま和歌の地位の向上に通じ、そしてそれはそのまま、ひらがなで書かれた散文、すなわち、ひらがな文の地位の向上へとつながった。

増補 日本語が亡びるとき: 英語の世紀の中で (ちくま文庫)

  もちろん、それと共に漢文の理解も深まり、古今和歌集より前の、日本最古の詩集『懐風藻(かいふうそう)』が七五一年に成立しています。

 十五世紀に至るまでほとんどが無文字文化だったなかで、日本は四世紀には文字を取り入れ、しかも取り込まれることなく、両方を発展させてきました。