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もう一度にんじんと読む「哲学的思考(西研)」🥕 第四章(途中で終わり)

第四章 何のための〈還元〉か(2) 

 とにかくわかりづらいので、『純粋心理学』について見なおしておこう。

 まず純粋心理学とは心を扱う学問である。心的なものの存在を私たちに感じさせてくれる経験とは「反省」である。反省によって与えられる心的体験は、なんらかの事象が私たちに現われてくるという体験である。これを現象ともいう。

 現象の根本性格は志向性であり、志向性には総合というはたらきがある。このことが示しているのは、わたしたちが出会うさまざまな対象というものは、私たちの意識生活のなかで成立してくるということだ。たとえばサイコロという志向対象のいろいろな側面をサイコロとして新たにまとめあげていくということを私たちは不断に続けているのだ。だからサイコロというのは実際のところ、目に見えている以上のことを含む全体像として把握されている。このように実際見えている以上のことを含むので、こうしたものは「超越物」といわれる。わたしたちは超越物に取り囲まれているのだ。

 さて、純粋心理学における研究方法から考えよう。何を研究するにせよ、私たちはまずそれにまつわる心的体験を反省しなければならない。しかし自分が対象をいかに経験しているかということを報告する際に、「歪み」が入っては困る。歪みとして考えられるのはたとえば””目に反射した光が入って神経を通って脳に通じてものが見えた””などといったことだろう。だれもそんなことは経験していないからだ。また次のようなことも困る。:””私はそれをマネキンだと見間違えたんですけど、もともと人間だったんですよ””。だがそんなことは経験していない。正確に言えば、彼はまずそれをマネキンだと経験し、そしてなんらかの予想が裏切られる形で、人間だと思い直したのである。この歪みを一言で言えば、「客観的・第三者的な見方をしない」に尽きる。これを難しくいうと「客観的定立の遂行の禁止」という。この準備作業を〈心理学的還元〉と呼ぶ。

 そしてこのような立場のもとで心的体験を記述することによって、体験のなかの一般的なものを取り出しを行う。これを本質観取といい、純粋心理学に与えられた課題である。

 【現象学的還元】

※このあたりでまったくわからなくなり、やめる。一応書いたもの⇩

 純粋心理学でとどまっていられないのは、フッサールの目的が「あらゆる学問の基礎学」だからである。今のままでは、あくまで心についての学問であり、その意味で物理学やその他の学問と肩を並べる存在にすぎない。

 フッサールは純粋心理学的手法は基礎学においても有用だと考えた。これを一歩前に進めるためには、この二つの学の差異を明確にしておかなければならない。そしてそれは「超越論的問題」を自覚しているか否かに求められる。

 自然的態度を脇におき心理学的還元を果たしたとき、世界と諸対象の意味と存在妥当(確信)は意識生活において成立してくることが明らかになった。だがこのことはただちに謎を呼び起こす。その謎とはもちろん「けっきょく世界は客観的にそれ自体として存在しているの?」ということだ。しかしこのことは先ほど脇に置かれてきたばかりで、考えることは無意味だと先述した。だが同時にこうも書いた。重要なのは、「なぜ客観世界の存在を確信しているのか?」という問いだと。客観的に存在している世界という信念もまた意識のなかで成立していることから、フッサールはこれを「意識を基盤として、信念がいかに成立しているか」に答えることによって解決しようとする。

 アイディアとしては純粋心理学的手法を超越物(意識を超越して存在すると確信されている対象)に向ける時、超越論的現象学になる。そして確信を生み出す意識生活を純粋意識と呼ぶのである。

 だが主題の変更とともに、最初の心理学的還元も考え直されなければならない(なにしろ、純粋心理学においては超越論的問題は脇におくのだから)。

 

おわりに

 まず、私たちの考えの発端はいつも「現象」にある。それは「出来事」ともいってよいと思う。現象とは〈現れるもの〉である。

 区別しなければならないのは、「現象」と「現象について語ること」である。たとえばものを見るというのは、””物体から反射された光が神経を通って脳に達し云々””と記述されることがあるが、これは現象ではなく、現象について語ることである。

 古代懐疑主義者はこの区別を重視した。彼等は「現象」について懐疑の目を向けることはなかったが、「現象について語ること」については攻撃した。フッサールが客観的世界の存在を判断保留しろと言ったのは、そのような経過をみればきわめて当然のことである。そうでなければ「現象」をみることができないのだから。

 そうしてこれこそ現象学の〈還元〉という方法のように思える。しかしこのように解すると、現象を「記述」することに対する困難が生じる。

 

 もちろんフッサールは意識現象の記述自体を客観的に正しい記述だ、などとはいっていない。しかし「志向性には《総合》というはたらきがある」という””一般的報告””は明らかに行き過ぎてはいないだろうか? たしかにそういわれればそんな気がしないでもないが、まったく別のことを言われていたとしても「そんな気もするな」と言っていたことだろう。

 

 ドグマティストは現象の背後に本質があると考え、本質の顕現が現象だと考えていた。プラトン哲学のイメージとしてよく語られる「イデア論」もそのような理論のひとつである。「本質はなく現象だけ」という主張も出てくるなか、やがてイマヌエル・カントの「現象は物自体と主観の共同作業によって作られる。物自体は不可知」に至る。

 カントと実質的にどこが違うか、しっかり確認しないといけない。