にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

MENU にんじんコンテンツを一望しよう!「3CS」

にんじんと読む「老子・荘子(森三樹三郎)」🥕 ①~⑤

老子 (講談社学術文庫)

老子・荘子 (講談社学術文庫)

荘子 第一冊 内篇 (岩波文庫 青 206-1)

 

老荘の思想

老荘の生きた戦国時代

 紀元前1046年~紀元前256年の古代中国には「周」という王朝がありました。ずいぶん長く続いたようですけれども、実は支配力をもっていたのは最初のうちだけで紀元前771年には東西に分裂し統率力はゼロ、中国全土の諸侯が大暴れしていました。これが春秋時代の幕開けで、およそ320年ほど続きます。

 紀元前552年頃、「孔子」という男が荒れ狂う時代に生まれました。彼は、落ち着いていた周国の初期の時代にあった秩序ある社会を回復しようと努めました。なぜあの社会が失われたのかといえば道徳と礼が失われたからだ、と診断した彼は道徳による政治を説いて回りはじめました。なにしろ周の初期の時代には家族道徳が政治の根本精神であり、支配は礼に基づいて行われていたからです。

 でも「老子」という人物(あるいは「人物たち」とされる)は孔子のようには考えませんでした。乱世をもたらした原因はまさに、周の支配原理そのものにあると言ったのです。道徳だとか礼だとか、そんな人為的な文化に重きを置いていたのが諸悪の根源なのだと老子は診断しました。自然に帰れ、というのが彼の主張です。

 彼は人為、つまり文明といったようなものをすべて排しました。

  •  知識もそうです。なにかを知るということは分けるということだからです。真偽・善悪・美醜など。しかしもともとひとつであるものを分けるのですから、もとの形を歪めることになります。人間は臓器ひとつひとつに分解することができますが、もう一度寄せ集めてももとの人間には戻りません。
  •  このことからもわかるかもしれませんが、分けた二つを一つに寄らせて彼は万物の根本を「道」と名づけました。これは知識によっては決して理解することができないものです。この思想はもしかすると理解しがたいかもしれません。しかし私たちはたとえば「ペン」というものを重さ何グラムで、形はこうで、スプリングがこう動作して、等々といったようには理解していません。ペンはまさにペンでありその全体を直接に理解しているのです。
  •  また分けるということがもたらす害悪は他にもあると彼は考えました。分けることは対立・差別を生みだすのだと。自らを善とし、他者を悪とすること。それが争いの根本原因なのだと。知識の増加はまた、欲望の増加をもたらします。老子は「禁欲」ということをいいません。「無欲」をいいます。禁欲は努力してそうなっているのだけれども、無欲というのは別に努力しなくてもそのままで欲がないのです。欲望をなくすというよりも、欲しいものがないわけです。

 孔子が唱える「道徳」「礼」だとかいうのは、「道」が失われた結果出てきた人為的なものだと老子はいいます。善悪を決めることはあいつは悪者だという対立を生んでしまうのです。目上の人にはハイといい、ウンといってはいかんなどとまじめな顔をして言っているのが老子にはおかしなことに思えたのです。

 

諸子百家 (講談社学術文庫)

諸子百家―儒家・墨家・道家・法家・兵家 (中公新書)

諸子百家 (角川ソフィア文庫)

理想郷の農村共同体と無為自然の政治

 無知無欲・無道徳の老子の教えを実現しているもの、それは当時の中国の農村でした。土地があまりにも広大であるため農村にまで政府の支配力が及ばず、たいてい農村の自治は放任されていたのです。

 そうすると、大きな国は一旦潰して、小さな村落をたくさん作るのがいいのでしょうか。老子は中央集権的な政治には反対するものの、中央政府自体は否定しませんでした。中央政府には「無為のままで治める」ことを求め、その君主の立場として書いたものが『老子』という書物なのです。

 老子は人為的なことを拒絶します。だからその政策も自然とそのようなものになってきます。たとえば儒家においては、「学校を設け英才教育をし賢者を政治に送り込もう」としますが、老子はとんでもないとはねのけます。老子の国では、民衆は教育も訓練もされません。いっさいの干渉をしません。「政治のない政治が、いちばんよい政治だ」とされます。

 こうなると、いかにもこの君主が無責任のように思えます。干渉しないというのは、場合によっては、干渉してくれない、ということにもなりますから冷酷なようにも思えます。実際老子はこのことを認めていました。けれども非常に見えるこの仕打ちが、結果的には人間をいつくしむことに通じると考えていたのです。もしこの国の民に君主のことを訊けば「さぁ……そういえばいたね。何をしてるか知らないが」と答えるでしょう。

 

孔子(新潮文庫)

論語 (岩波文庫 青202-1)

現代語訳 論語と算盤 (ちくま新書)

老子の人生哲学

 無為自然という政治原理は、より広く、生き方の原理としても捉えられました。

  1.  柔弱の徳 剛強ということは、いつも張りつめていて努力の持続を前提としています。それは有為ということであり、それゆえ、老子においては「柔弱」ということが重視されます。老子にとっては「赤ん坊」がもっとも自然の状態であって、なんの抵抗もないから襲われることも少なく、骨が弱く柔らかなのにモノを固く握ることができます。老子はしきりに「嬰児」という語を持ち出すのです。
  2.  女性原理の哲学 また柔弱ということは、女性とも結びつけられます。儒家が強く男性原理のもとに動いていたのとは対照的に、老子は女性原理のもとに動こうとします。農耕民は五穀のみのりを女性の生殖力と結びつけ、女を神とすることが多いそうで、ここもまた老子の哲学が農耕民の色彩を帯びていることがわかります。
  3.  水の哲学 また水も柔弱ということと結びつけられます。水はまったく無抵抗に落ちていきますが、するりと自在に形を変え、岩さえも穿つ力を秘めています。水も、そして女性も、谷間を流れ下位に扱われることが多いのだけれども、剛強よりもよほど力を秘めているというわけです。
  4.  不争の哲学 低き位置につくということは他と争わないということです。「すぐれた士は、武の心をもたない」と老子はいいます。彼は哲学的背景のもとに、戦争ということを否定します。
  5.  無名の信条 老子は生きることを尊びます。柔徳や不争というのもそのためのことです。儒家は「徳のあるものは必ず世間の名声を得る」といって名をあげることを信仰していましたが、老子は「名声とわが身のどっちが大事か」と正面から否定しました。

マンガ 老荘の思想 (講談社+α文庫)

老子・荘子 (講談社学術文庫)

老子と荘子が話す 世界一わかりやすい「老荘思想」 (PHP文庫)

道と無の形而上学

 老子は自らの思想に形而上学的な根拠を与えました。この点が他の諸子百家と異なるところです。諸子百家の多くは現実問題から離れることはありません。老子もまた最初は現実問題から始まりました。なぜその彼が形而上学に進んだのかといえば、おそらく「無知なるものが大いなる知恵をもつ」といったような逆説を唱えるにあたって、どうしてもその正当化が必要とされたからではないでしょうか。ほかの諸子百家は生活に根差しているため直観的に理解しやすいのですが、老子の場合は一般常識に反す思想が多く、このことが根拠を述べる必要をつくったのでしょう。

 けれどもそれは西洋的な「哲学」ではありません。根拠の与え方は詩的であり、象徴的で、文学作品のように彩られています。これまで述べてきた通り、老子はそもそも「言葉」を信用していません。知識は言葉によって伝えられ、その知識は差別を生み、それそのものを把握することを邪魔します。言葉は知識と同じ罪を背負っているのです。では何によって真理を伝えるかといえば、それは「直観」です。「あっ、わかった」という把握を老子は与えようとしています。

 老子が設定したあらゆるものの根源は「道」と呼ばれます。道とは無限者のことです。無限とは限りが「ない」ことです。人間に「道」の姿が見えないのは、否定の向こうにあるものだからです。老子においてこのように、根源は消極的な規定が与えられます。また一方で、老子は「道」を「一」とも呼びます。無限とは限りがないことであり、限りなく多いことではないことに注意しなければなりません。「限りなく多い」とはそこにいくつもの個物があってそれを集計するところに成立するものですが、無限のうちにあっては個物はなくすべてが一つに溶けあっています。差別が消え、すべてが「一」に消える地点……まさにこれが「道」なのだという意です。

 しかし厳密にいえば、老子は「道」と「一」を微妙に異なるものとして区別しています。「一」とは「道」と「万物」の中間地点に位置するものなのです。「道」が「一」に変わることで有形のものを生みだす契機を「持ち」、「一」から「万物」が生じてくる。「一」より前の数は「ゼロ=無」であり、「道」は「一」ではなく厳密にいえば「無」なのです。

 しかしなぜ、「無」から「一」が生まれるのでしょうか。何もないところからなぜ万物が生まれる契機を持つことができるのでしょうか。

 「道」とは無限者のことだとも、また、無のことだとも言いました。この二つは対立しているように思えます。けれど老子は無というものを「相対無」と「絶対無」に区別します。相対無とは、有に対立する無のことです。そして絶対無とは、無限のなかの無のことです。無限のものをそのなかに写し取るために必要となる無です。相対無は、それ以外の「有」のことであり、結局は有の一種にすぎないのです。けれども絶対無はあらゆる有を包み込む無限の無です。すなわち、絶対無たる「道」はすでにそこに万物の可能性を有していたということでしょうか。

 

 老子は「無」について考察した思想家ですが、その内容には不徹底なところもあります。これを徹底させたものとして荘子がいます。

荘子 第一冊 内篇 (岩波文庫 青 206-1)

荘子 古代中国の実存主義 (中公新書)

老子・荘子 (講談社学術文庫)

荘子の思想

万物斉同の思想

 老子においてはまだ政治的関心というものが働いていて、現実での成功を意識したものとなっていました。この鎖を断ち切ったのが荘子です。荘子においては村落共同体の自然な生活に対するあこがれはもはや残っていません。

 荘子もやはり「道」という地盤を持ちます。彼は無為自然、つまりありのままの真理をいかにして得るのかという問題を取り上げました。人間の思考方法は「わかる」ことを目指す、つまり「分ける」ことを目指すものです。ひとつのものを二つに割くようなやり方です。しかしこれは人為によって真理を曲げることだと荘子も考えました。ココもソコも人間の位置に相対的なものであり、人為を離れて眺めてみればそこに残る世界は二元の対立なく、ゆえに差別なく、万物は斉(ひと)しく同じであります。これが「万物斉同の説」と呼ばれる思想です。

 しかし、と荘子は立ち止まります。老子の教えではこうなっていました。まず初めに絶対無があり、万物はその無から生じた、と。しかし考えてみれば「初め」という固定した一点を捕まえること自体が無理に思えてきます。というのも、「初め」は無限のかなたにどこまでも後退していくからです。したがって、万有のはじめに固定した一点をおく老子の教えは誤りであることがわかるのです。

 「固定された無」ではなく、根本は「無限そのもの」でなければなりません。固定された無とは、「ここからが有ですよ」という一線を画した無のことです。その無は、区画のうちにとじこもっています。しかし無限はそういった区画を一切持たないものです。有と無の区別すらない、それが無限です。無限という虚無はありとあらゆるものを受け入れます。曇りのない鏡のように、ただ受け入れるだけです。