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にんじんと読む「徳倫理学について(ハーストハウス)」🥕 徳であるための客観的基準

徳であるための客観的基準

 ある特定の性格特性が徳であるといえるための客観的基準は存在するのだろうか。徳倫理学を説明するためには「徳とは……」という、……の部分を補完しなければならない。それは義務論が、何を正しいルールとするかを決めなければならないのと同様である。しかしだからといってそのリストを適当に挙げたのでは、なんでそれが正しいのかと文句が出てしまうことだろう。何が徳なのか挙げることができないとなってはそもそも話が破綻してしまうのは言うまでもない。コレコレの性格特性こそずばり徳だと正当化することはそもそも可能なのかという問題に、私たちは立たされている。

 この問題に対する答えはイエス。とはいえ、そこで設けられる評価基準の妥当性の検証は自らの倫理観で為されるものであり、いわゆる中立的な視点から為されるべきではない、という但し書きがつく。しかしそういってしまえば、もはやその検証に合理的な正当化など望むべくもない。私たちがその問題にぶちあたったときになしうることは、自らの倫理観をこそ、中立的な視点から語ること以外にはないだろう。だが残念なことに多くの哲学者は、自らの倫理観を中立的に語るなどということが不可能だろうし、なんの益もないと思っている。だがここには抜け道がある。

 クワインは私たちが持っている概念図式、つまり枠組みのようなものについて、だいたい次のように語っている。:私たちが持っている概念図式は一部ごとに少しずつ形を変えることができる。変わっているあいだにその概念図式を支えるのは、その概念図式以外にはない。ノイラートという哲学者が、その仕事を大海原の上で船を修理しなければならない水夫にたとえたのはもっともなことだ……。

 反省や吟味というものは獲得済みの倫理観に基づいてその内部でなされるが、それは単に倫理観の反復になるのではなく、「更新」することができるのである。とはいえ、心配性の哲学者の主眼は、そもそも彼の持っている倫理観というものが一切合切すべて誤りかもしれないというところにある。判断の一切が狂っているならば、どんな有意義な体験も無になるだろう。

 しかし私たちとしては、そのような心配事を否定してかかる必要はない。そもそもこのノイラート的なアプローチでは、「瞬時に倫理的是非を看破し正しい倫理観を獲得する」というような奇跡を否定している。このアプローチは理論的に、いい倫理観を得るために時間が必要であり、船をいろいろいじくりまわしていい具合に動くようになったあとで「最初の状態はほんとカスだったな」と回顧することも十分ありえるのである。