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にんじんの書棚「猫に学ぶ いかに良く生きるか FELINE PHILOSOPHY Cats and Meaning of Life」

 恐怖に追い立てられてできた宗教、そして哲学。ヨーロッパ哲学の三大潮流、エピクロス派は「病後療養所」のような雑音を一切許さない心休まる静寂だけが支配する「神経衰弱的幸福」に論じ、ストア派は合理的秩序を見出し宇宙と一体であることを認識し救われようとしたがそこに待っていたのは「忍従と諦念にみちた葬式」だった。ピュロン派はすべてを懐疑し判断を保留したが結局そこにも救いはなかった。ではどうすればいいのか。猫を見よ。「猫にとっては人間から学ぶものは何ひとつないが、人間は、人間であることにともなう重荷を軽くするにはどうしたらよいかを、猫から学ぶことができる」。

 

人生の目的は幸福になることだと言うことは、自分は惨めだと言っているに等しい。

哲学は治療を標榜してはいるが、じつはそれが治すと称している病の症状にすぎない。

われわれ人間は自分自身の思索という牢獄から解き放たれ、必死に幸福を追求してもかならず失敗するのはなぜかを、猫から学ぶことができる

 

古代の哲学者たちのなかでも、エピクロス派は、欲望を抑制することで幸福を手に入れることができると考えた。

じゅうぶんに手入れの行き届いた庭園の静かな場所に身を潜めることで、苦痛と不安から逃れ、静謐(アタラクシア)を達成することができる。

しかし、果てしない飢え、過労、迫害、貧困で苦しんでいる人びとに対して、エピクロスに何が語れるのだろうか。

 

ストア派の考えでは、思考をコントロールすれば自分に身に降りかかるどんなことをも受け入れられる。頭のなかで、自分が必須の部分であるような合理的な体系を組み立てることで、アウレリウスは不幸や死と和解しようとする。

その結果は忍従と諦念にみちた葬式である。

夢から人生へと引き戻された彼は、哲学という身にまとう屍衣を、最初からまた編みなおさなくてはならない。

 

これら古代の哲学にはすべてに共通する欠陥がある。いずれも、人間の理性によって人生を秩序だてることができると夢想しているのだ。

人生のほとんどは、そして哲学のほとんどは、その事実から目を逸らさせようという企てにすぎない。

猫は自己イメージをつくりあげたりしないので、いつかは自分も死ぬという事実から目を背ける必要がない。もうすぐ死ぬことを悟るときがくるかもしれないが、死の到来を恐れながら生涯を送るということはない。

時間のなかを進んでいくというわれわれの自己イメージは、われわれはいずれ死ぬという認識を生む。そのために人生の大半を費やして、自分自身の影から逃げ回る。

モンテーニュにとっては、人間の不安は人間という動物の欠陥に由来する。

人間は、自分の死を思い出させるものを片っ端から恐れ、その経験の多くを、自分の内なる無意識的な部分へと押し込む。人生は、闇のなかでじっとしていようという闘いになる

猫は人生の計画などは立てず、なるがままに生きている。人間は自分の人生をひとつの物語にせずにはいられない。

人間生活の大半は痙攣の連続である。仕事、恋愛、旅行、変わっていく人生哲学、これらはすべて心の痙攣であり、それを落ち着かせることはできない。パスカルが言ったように、人間は静かに部屋に座っていることができない。ジョンソンは、自分がどこへ行っても静かに座ることができないのはわかっていたが、それでも自分の不安を解消することはできなかった。他のすべての人間と同じく、彼もまた想像力の奴隷だったのである。

ジョンソンにとって、想像力から逃れる最良の方法は、誰かといっしょにいることだった。

人間以外に、孤独に耐えられない動物はいるのだろうか。

道徳が他の何よりも大事だという人びとは多い。

良い人生とは、生きる価値があるというだけではなく道徳的でなければならない。

どのような人間も、何よりもまず道徳的でなければならない。そのように考える人たちは、道徳が何を命じるかを自分は知っていると思いこんでいる。。

だが実際には、道徳を実行する人間にとって、まったくもって曖昧模糊としている。

古代のギリシャや中国には、今日道徳と呼ばれているものとはおよそ無関係な倫理的伝統があった。

どちらの思考法も「道徳」を前面には出さない。

そうではなく、良き人生とは、与えられた本性とともに自力で生きることを意味した。

合理主義の欠陥は、人間は理論を適用することで生きていけるという思い込みである。

われわれは何かを触らずに見ることができる。だが良き人生とはそういうものではない。よき人生はそれを生きることによってのみ知ることができる。

ソクラテスの言葉とは裏腹に、検証された人生は生きるに値しないかもしれない。

良く生きることはできるだけ意識的になることではない。いかなる生物にとっても、良き生とはそれ自身でいることである。これは、われわれは誰しも唯一無二の個性を自力でつくりあげなければならないというロマン主義者の考えとはちがう。

自分個人の本性を実現するという倫理は、自己を創造するという考え方とは違う。人間がみずから自己だと思っているものは、じつは社会と記憶がつくりあげた物である。

人間以外の動物はそうした幻影を抱きながら生きたりはしない。

もし猫に人間たちの意味の探究が理解できたなら、彼らはその馬鹿馬鹿しさに、うれしそうに喉を鳴らすだろう。いま生きている猫としての生活が彼らにはじゅうぶんな意味をもっている。それに対して人間は自分たちの生活を超えたところにある意味を探すことをやめられない


捨てられる荷物のひとつは、完璧な人生はありうるという思い込みだ。人間の人生は必ず不完全なものだという意味ではない。人生はどのような完璧な観念よりも豊かだ。良き人生とは、これまでに送ったかもしれない、あるいはこれから送るかもしれない人生のことではなく、今すでに手にしている人生のことだ

  1.  人間に向かって理性的になれと説教するのは、猫に向かってヴィーガンになれと説得するようなものだ。
  2.  目的に役立つことを、あるいは、それ自体が面白いことをしなさい。そうやって生きれば時間はたっぷりあるはずだ。
  3.  苦しみに意味を見出すのはやめよ
  4.  他人を愛さなくてはならないと感じるよりも、無関心でいるほうがいい
  5.  いちばん興味のあることをやれば、幸福のことなど何ひとつ知らなくても幸福になれるだろう
  6.  人生は物語ではない
  7.  行動する前に考えろと教わってきたことだろう/だが時には、闇のなかにちらりと見えた暗示に従ったほうがいい。
  8.  目が覚めたときにもっと働けるように眠るというのは、みじめな生き方だ/楽しみのために眠れ。
  9.  幸福にしてあげると言ってくる人には気をつけろ

     

  10.  猫のように生きるということは、自分が生きている人生以上には何も求めないということだ。

猫に学ぶ――いかに良く生きるか