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存在の問いへ

 

 鳥という対象を志向するためには鳥が鳥であることの意味の把握が前提となっている(フッサール 志向性の哲学)。鳥は常になんらかの仕方で現われ、たとえば鳥は飛んでいるが、それは単に鳥が飛んでいるということだけではなく、巣で休んでいたり、えさを採りにいったり、ひなにえさをやったり、といったその他のさまざまなふるまいとも結びついている。さらに鳥はつねに他の存在者のただなかにおいて飛ぶのであり、飛ぶことはそうした他の存在者との関係において理解されている。

 われわれは存在者と関わるとき、その存在者をつねに何らかのあり方において捉えている。そうした意味で、われわれはその存在者の存在を了解している。そしてそのあり方は、その存在者が取りうる他のあり方の系列、ならびにそれらのあり方がそのただ中で生起する他の存在者との関係のうちに位置づけられて理解されている。

ハイデガー『存在と時間』入門 (講談社現代新書)

 存在者の存在の了解、対象の意味の把握はその存在者がもちうる他の存在者と関連付けられた活動空間全体への了解・把握といえる。すなわち、存在者の存在というものは周囲の存在者との関係に規定されている。伝統的な存在論においては存在者は他の存在者から切り離されて理解されてきた。

 いろいろな存在者のなかで際立っているのが、「現存在」である。ふつうの対象・存在者のその存在・意味=それがなんであるかはその存在者がもつ主要な属性を挙げることによってなされる。だがその存在を了解あるいは意味を把握している当の存在者はみずからの存在自体を了解し意味を把握することになる。自分で自分のあり方を規定するという特徴を持つこの特殊な存在者を「現存在」と呼ぶのである。

 存在了解が自分へと跳ね返ってくるとしても現存在はそれだけで特別なわけではない。現存在はみずからを草木などと同じようなひとつの対象として扱うこともできるからだ。たとえば自らを二足歩行の動物というような一般的規定をもって了解することもできる。その場合、隣にいるあの人間も、そこにいるあの人間も、みなまったく同じで異なるところはないということになってしまうだろう。だが私たちはそれぞれの個別性を認めている。各自がそれぞれ固有の状況におかれその状況のなかで対処を迫られている。対象と同じような一般的規定は現存在にとって最も本質的なものであるはずのこの個別性を汲み取ることができない。この特別な在り方をしている現存在の存在のことをハイデガーは「実存」と呼ぶのである。現存在に関しても周囲の存在者との関係に規定されているだろうことは変わりがない。

現存在=おのれの存在を了解している存在者

 現存在 ←←←(志向)→→→ 対象

 実存=現存在の存在を明らかにしようとする場合、現存在の周囲の存在者たちもそこに絡んでくるのだから、必然的に他の存在者についてもつ存在了解の解明を必要とする。ゆえにハイデガーは「現存在の実存論的分析」に着手し、ほかのすべての存在論の源泉としてそれを基礎存在論と名づけるのである。

 

世界内存在

 現存在の存在了解について、次の例がわかりやすい。

説明のために次のような例を考えてみよう。ある特定の文化Cのなかに育てられ、Cに適合した形で人生を送っている女性Wの例である。文化Cは、西洋的な近代化をくぐってきてはいうが、女性の役割に関しては保守的な部分を残しており、社会で主導権を握っている男性の役割を肯定し、もっぱら女性に子供の養育者としての義務を課しているような社会である。女性Wの日常的な存在了解のなかには「子供の養育者であり男性より劣ったもの」という可能性が含まれているだろう。彼女はこの可能性を選択しているわけではないが、受け入れ、正当だとみなし日々を送っていて、この自己の可能性の了解は特に論じられたり表だって意識されないまま、彼女の人生の核心をなしている。Wは無能な男性が彼女より高い社会的地位にいても気にしないし、そもそもそのような比較をすることすらしないかもしれない。こうした自己についての存在了解は、語られたり意識されない仕方で、日常のふるまいのなかに浸透しそれを導く。

『存在と時間』の哲学〈1〉

 そして前に見たように、こうした現存在自身の存在了解は、それが成立するのに不可欠な世界の存在了解とともに生じている。すなわち、たとえば「大学教師である」という現存在の存在可能性は、大学教師という職業が意味をなし、大学教師であると認められるような標準的な型があるようなコンテクストを生きることなしには成立しない。そうしたことを受けて、私たちは現存在の存在了解には自己へ向かうものと世界へ向かうものとの二つのベクトルを見たのだった。

 文化Cを生きる女性Wは標準的な生き方に従って、男性社員に適切なタイミングでお茶を出すという行為をするかもしれない。その行為は自己の存在了解に方向づけられ、同時に男性の上司や同僚、女性の同僚と共有されている文化的・制度的な環境としての世界に対する了解を具体的に解釈したものともなっている。ハイデガーはこのような、『自己存在の了解と世界の存在の了解が同時である』という根本的な機構を『世界内存在』と呼ぶ。文化Cを生きる女性Wの例からもわかるように、そのような文化世界の内に存在するということは、単にそのような世界という空間内にいることとは全く違う。内存在の<内>とは、そこに住まう、ということなのである。

世界内存在 —— 世界

 世界には四つの意義がある。解明すべき世界が(1)(2)のものでないことを確認しよう。

 ごく普通に考えられる『世界』とは、「世界の内部で事物的に存在しうる存在者の一切」(存在と時間 全4冊セット (岩波文庫))である[世界の存在的概念]。事物的存在性とは、「道具連関や主体の関心から切り離され性質に関して確定した実体」(世界内存在―『存在と時間』における日常性の解釈学)であり、上の意味での世界が事物的存在性のカテゴリーによって理論的に捉えられたものもまた世界の意義のひとつである。

 だが世界内存在という言葉において捉えられる世界とはそのようなものではなかった。女性Wが住まう文化Cを事物的存在者の集まりとみなすことは難しい。そして第一の意義に対する第二の意義のように、第三の意義における世界の””世界性””をまた第四のものとし、これからこの(3)(4)を解明していかなければならない。

 

 世界内存在は自己の存在了解と世界の存在了解が同時であるという根本機構を意味するのだった。そしてたとえば「大学教師である」という現存在の存在可能性は、大学教師という職業が意味をなし、大学教師であると認められるような標準的な型があるようなコンテクストを生きることなしには成立しないのだった。存在者の存在というものはそこにあるその他のさまざまな存在者との関係によって規定されている―――現存在がその存在了解においてさまざまなその他の存在者と出会い結ぶさまざまな関わりのことをハイデガーは「交渉」と呼ぶ。

 たとえば文化Cに生きる女性Wは男性社員にお茶を出す際に、お盆という道具と交渉し、お茶を出すふるまいを遂行しつつある。このお盆という存在者をハイデガーは「道具的存在者」と名づける。

 道具的存在者はなにかをなす際に現れるものであり、言い換えれば、文化Cにおける男性より劣った女性という存在の了解の解釈としての行為に関連して現れる。お茶を出すさいに交渉しているお盆という道具はお茶を出すというWの仕事への関連なしには成り立たない。お盆を使ってお茶を出すことが意味を成すというのは文化Cの内部でしか存立しえない。一つの道具的存在者とその局所的コンテクストとの関連性は「指示」と呼ばれる。指示は他の存在者への関連も含まれており、巨大なネットワークを作る。たとえば机はそれを支える平行な床を、ある場合には家を、家は土地を、世界を必要とする。だから一つの道具だけが存在しているというようなことはなく、道具全体のうちでのみ道具は当の道具でありうる。このような道具は実践的な交渉によってのみ出現し、道具が道具として現れるのはまさにその道具を使用するときなのである。第三者的に距離をとって大きさとか色をはかっているうちは道具は道具としては姿を消している。お茶を出すときにお盆を使うと、お盆はむしろ背景にしりぞきそこで目立っているのはまさにその仕事のほうである。注意が必要なのは、これによって世界というものがなんであれ道具的存在者たちの集まりと言う風にはならないことだ。なぜなら、道具的存在者が道具的存在者たりうるのは特定の文脈、仕事場・文化・公共的な共同性……のようなものを前提としているからである。

 

交渉と認識

 私たちはまず””単なる事物””に出会うのではなく、””何かをなすために事物を使用する””のである。道具的存在者が背景に退き、使用者もまた背景に退く。私たちは衣服を着たり仕事をしたり動き回ったりしゃべったり食事をしたりといった生活のほとんど大部分を没入状態で過ごす。だがそれは機械的な行動とは違う。

  •  反射的で自動的であるように見えても、対処のさなかにも状況にすばやく反応し対処する。
  •  また、私たちはひとつの存在者を実に多様な位相のもとで捉える。たとえば机は書き物とするところでもあり、読書をするところでもあり、ものをしまっておく道具でもある。
  •  また、現存在はうまくいかないとぎょっとする。
  •  さらに困難になると熟慮的な主観・客観の志向性に切り替える。

 これらの特徴は機械には見られない。考えたり見たり聞いたり、いわゆる””意識的””行動以前の新しい種類の志向性といえる。道具的存在性がいかに事物的存在性を生じさせてくるのかについて、(3)(4)で見たような””うまくいかない””ということがきっかけになっている。これを「故障」と呼ぼう。ドレイファスの整理に依ると、

  1.  道具の機能の不調 利用不可能性は非道具的存在性をあらわにする。とはいえその程度が浅いと、それへの対処は基本的に用意してあるものだし、ほかの道具に取り換えたり、すぐに透明な行動を回復することができる。
  2.  一時的故障 何ものかが進行中の活動を妨害すると、それのもつさまざまな指示関係があらわになる。たとえばハンマーが大きすぎて釘を打つ仕事が遂行できないときことを考えよう。「手段性」が「釘を打つために使用される」であるなら、これを「棚板を適所に固定するために釘を打つ」という指示が妨げられる。するとそのことによってこの指示が表立ち、現存在は熟慮的に行為するようになる。さらに深刻になるとまさに熟慮しなければならなくなる。
  3.  全体的故障 利用不可能。道具的存在性が消えたかと思うほど事物的存在性が際立ってくる。

 一言でいえば、うまくいかないから””ものをよく見る””という認識に通じる。道具的存在性・道具的存在者の利用不可能性・事物的存在性という三つの存在の仕方が、世界という現象を理解可能なものにしてくれる。

 道具はそれが指示全体性のなかでもつ機能によって定義されるが、ここでさらに細かくいえば、それは有意味な活動のなんらかのコンテクストと適合するということでもある(適所性)。たとえばチョークという道具は黒板などその他のものを指示することによって意味をなす。ではチョークで字を書くというのはいかにして意味をもつのかといえば、それは図を描くことのひとつの手段であるからであり、その図を描くことはしかじかのことを説明するということ、さらには良い教師であることという目的であるもののためになされているからである。

 ここでは道具というものがさらに広がりをもって考察されている。道具というものは他の道具との全体性のなかで意味をなす。そして道具の使用というものは、それにくわえて、実践的コンテクスト+適所性+用途性(目標)+目的によって意味をなす。この目的というものを現存在の心のうちにある何ものかだと考えてはならない。人間は行為の狙っている達成内容を特定し続けなくても目的にかなった仕方で世界と関わることができる。考え事をしていたらいつのまにか駅まで歩きついていることなどよくあることである。このことは筋肉運動だけでなく、一般に技能まで広げることができる。

 するとここで改めて、現存在の存在についての自己了解に焦点が合ってくる。それはこれまで記述してきたように「大学教師であること」「(文化Cにおける)女性であること」など、主にそこ社会での役割に近いものだった。たとえば父であること、恋人であること、作家であること等々、他にも思いつく。だが<役割>は完全に正しい表現ではない。なぜならそれは事物的存在者のレベルで、いうなれば外部からの物言いだからである。まるで椅子というものの客観的特性について語るように、人は役割について語ってしまうので、少々注意を要するのだ。このような自己了解は選択的なものである必要はまったくなく、人は時に兄として、あるいはママべったりの息子として、生徒として、被災者として、存在する。それがある組織化された活動を導くのは、人が文化内で順応的に社会化されていくさいに捉えられていく。

世界とはすなわち、振る舞いと道具とそれを使用するための技能が連動しあっていることである。

世界内存在―『存在と時間』における日常性の解釈学

 

存在了解の二つのベクトル

 <世界内存在>とは、単に現存在が実存するということ、あるいは自己存在の了解と世界の存在の了解が同時であるということである。たとえば「大学教師である」という現存在の存在可能性は、大学教師という職業が意味をなし、大学教師であると認められるような標準的な型があるようなコンテクストを生きることなしには成立しない。存在者の存在というものはそこにあるその他のさまざまな存在者との関係によって規定されている。

 私たちの行為は自己の存在了解に方向付けられている。女性は男性よりも劣った存在だと考えられている文化Cに住まう女性は、彼女の仕事のなかに男性にお茶を出すことが含まれているかもしれない。「お茶を出す」というふるまいは他の存在者、たとえば椀やお盆などによって遂行される。椀やお盆などの他の存在者との関わりを<交渉>といい、当の存在者を<道具的存在者>と呼ぶ。ハイデガーが注意するのは、われわれはまず事物に<事物的存在者>として出会うのではなく、何かをなすために<道具的存在者>として出会う、ということである。

  1.  道具的存在者あるいは道具の根本的特徴はその手段性(何かのため)にある。道具は別の道具を指示する。インクスタンド、ペン、インク、紙、下敷き、机、ランプ、家具、部屋、窓、ドア、家……。道具はそのネットワーク<道具全体性>に適合する限りで道具は道具であるところのものなのである。
  2. さらにお盆という道具は湯飲み茶碗を運ぶという女性の仕事との関連なしには成り立たないし、彼女の職場のような局所的文脈、文化C内部でなければ成り立たない。このような道具との関連を<指示>と呼ぶ。道具はこのネットワークのなかにおかれることで道具となる【一個の道具を一つの道具として規定するところのものは、むしろ、その道具の道具性格と道具連関とである】。なにかの道具的存在性はそれをどれほどじっくり、くわしく見ても暴露することはできない。私たちは道具を了解する最も基本的な仕方は道具を使用することである。
  3.  道具的存在者に特有なのは、それがまさしく道具であるためにいままさに問題なのは当の仕事のほうなので、それが使用されているときにはまったく意識されないということである。そして道具を使用している際には、道具だけではなくその使用者も透明になる。使用者は行為している最中にその行為について考えている必要はないし意欲する必要もない。そのとき現存在とは、世界への配慮的没入以外のなにものでもない。しかしそれは私たちがロボットであるということではない。私たちは心の中で目標を追求していないときでさえ、状況に対処しこれまでの莫大な量の交渉によって形成されてきた傾向性によって状況の変化に対応する。

 以上によって見えてくるのは、没入的対処という新たな種類の志向性であり、道具的存在者という文脈からは決して切り離せない新しい種類の存在者である。そしてこれがいわゆる意識的に考えるということ、あるいは認識に先行する志向性なのだが、私たちおなじみの主観/客観という図式はどのようにして生じてくるのだろうか。この説明は二つの方向で展開される。『欠損性アーギュメント』と『基礎づけアーギュメント』である。前者は道具の利用不可能性によって事物的存在性が生じてくるとするもので、後者は主観/客観図式に対する優位性を論じるものである。これについてはまた別に譲ろう。

 さて、道具は道具全体性の中で意味をもつが、道具の使用という局面を考えれば手段性だけでは意味を持たず、(2)の特徴がさらに必要となる。道具の使用というものは、私たちの活動が目的を持ち要を得ているから意味をなす。たとえば、大学教師である某氏は教室という場の内にある黒板にチョークという道具をもって書く。それは一つの図を描くことの手段としてであり、ハイデガーを説明するという用途性に向けての第一歩であり、最終的には良い教師であるという目的であるもののためになされる。道具は一定の局所的なコンテクストの内部で認められている使い方の標準に適合しなおかつ適切な場面で使用されるという規範性の圧力のもとにある。道具を道具たらしめているものはこうした規範性への適合という点にあるため、ハイデガー規範的な意味を帯びた指示連関を「適所性」と名づけ、これを道具的存在者の存在であると考えたのだ。

 この点は非常にわかりづらいので、再度繰り返すことにしよう。

 チョークという道具でもって、「ハイデガー哲学を教える仕事」という用途のもとで、適切な使用行為を行ったときに、チョークという道具的存在者は適所を得る。図を描く仕事→哲学を教える仕事という指示連関<適所全体性>のもとでの適切な使用行為がチョークを道具的存在者として存在させる。<適所性>は道具的存在者であること=道具的存在者の存在の特徴づけのひとつである。しかしこれだけでは足りない。そもそもそういうような仕事が意味をもつのは、現存在の存在可能性へと結び付けられているがゆえである。道具的存在者は現存在が交渉し参与するときにのみ現出し、その可能性に関してのみ適切さを与える――――まとめると、道具と私たちが出会うためには次の二つのことの了解が先行しなければならない。:①適所全体性という道具の使用される脈絡、②個々の道具に適所を得させる個別行為を方向付ける現存在の可能性としての主旨,目的。自分の可能性がはめこまれていなければ適所全体性というような構造化も成り立たない。

 注意しなければならないのは、現存在の存在可能性というものは大抵の場合、自分で選択するようなものではないということである。男であること、子どもであること、兄であること、息子であること、被災者であること……。