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にんじんと読む「ケアの倫理(ファビエンヌ・ブルジューヌ)」🥕 第一章のみ

 以前、別の記事でまとめたように、『依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)』において主張されていたことは、ヒト以外も含めて動物一般はその生涯において他者からのケアを必要とする存在だということであった。しかしこれまで「ケア」の概念、特に新生児・子供・高齢者のケアは女性の仕事として扱われ、しかも家庭での私的なこととして、社会的承認を得られてはこなかった。この本において示される主要な二点は、次である。

  1.  隠されるか、遠慮がちに言及されるしかなかった配慮の仕事は、経済活動にとって不可欠な条件として承認されなければならない。リベラリズム、ましてネオリベラリズムは、配慮の仕事なしに存在可能ではない。配慮の仕事に従事する人びとのおかげで、他の人びとが市場支配の競争に専念できるのだ。
  2.  配慮の仕事、配慮それ自体を配慮すること、配慮を提供する制度を明らかにすること。これによって、他者への関心、社会的責任という、より広い視野での問題を展開することになる。それは、個人の成功は、他者や集団について心配せずに、自己自身の企業家となる能力しだいであるという社会の在り方自体を問うことだ。

※序論をもとに、二点にまとめた ケアの倫理 (文庫クセジュ)

 

無視される「ケア」

 私たちが生涯にわたって他者に依存的であるという関係は、

個人は、人生のある時期において、保護され、発達できるよう援助され、あるいは依存状態に対応してもらう、という関係にみずからを委ねなければならない。

ケアの倫理 (文庫クセジュ)

  ということである。しかし依存的であるという在り方から、それがいかなる形態をとるかということは必然的に帰着しない。私たちの文化はケアという仕事を、女性に求めてきた。たとえば、ネル・ノディングスは母性主義の代表である。彼は《配慮の倫理的性向は女性の徳に根ざし、配慮の態度(caring attitude)は母親と子供との関係をモデルに形成される》と主張する(ケアリング―倫理と道徳の教育 女性の観点から)。しかしこれは《合理主義で男性主義の哲学的伝統の道徳理論の裏返しであり、他者への心肺の倫理的理想を母性という女性の道徳経験に閉じ込める》(p.23)と評価できる。他者へとの配慮を女性の徳とし、愛の倫理を引き出し、規範とみなすことは間違いである。このように女性を「母性的であり、母性を表現する」というモデルに押し込めることは、女性から、男性との平等な解放の可能性を奪う。

 ケアについて考えるにあたっては、このような文化的偏見を丁寧にとりわけ、多様な声を聞こうとするフェミズム的な視点が必要となるだろう。たとえば、ピアジェとコールバーグの道徳の発達理論における実験では、妻を救うために薬を盗むべきかと問われた十一歳の男女に対して、ある一面から見た道徳を優位に置こうとする。少年はこの問いを生存権と財産権の対立であると捉え、「論理的」に解決しようとするが、一方で少女は、薬剤師に事情を打ち明けて、いかに妻が緊急の事態であるかを説明し、対応を依頼するという「人道主義」的に考える。このことからコールバーグは、少女が正義という概念から道徳を考えることができていないと判じ、発達段階として低位に置こうとするのである。だがここにある少年少女の回答は、序列のある倫理ではなく、正義とケアの倫理という二つの並列した倫理なのだ。コールバーグは「自律した自我」を重く見ることによって、ケアという関係を無視する。