にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

MENU にんじんコンテンツを一望しよう!「3CS」

にんじんと読む「東洋の合理思想」🥕 ①

 東洋思想は実践的関心を中心とし、それを知的に捉えようとするところに極めて合理的な一面がある。そのひとつの結実が仏教思想であり、これはカントの批判哲学に類し独断的な形而上学を排し現実に目を向けるものである。しかしカントの目的は近代科学の基礎づけという点にもあり、「知識のための知識」という向きがあるが、仏教の目的は解脱という一点である。また中国においては道徳や政治が中心であり、これを見据えたある種の論理が発展してくる。とはいえ、主たる関心が道徳や政治で不必要なものを研究しないという姿勢がこれを未発達のままで済ませてしまったが。

※ 日本思想は「もののあはれ」が中心であり論理学はあまり顧みられない。

  •  解脱の心境そのものは、『非合理なる情緒または直観』である。合理と非合理を交互に見つめながら螺旋のように発展していくのは「仏教系の弁証法」と呼べるだろうが、これがヘーゲルに代表される西洋の弁証法と異なるのは、西洋が新しい認識内容を展開していくのと違って仏教系は、『同一内容を種々の観点から見直してゆくため』だということだろう。

インド思想①

 インド思想はほとんど常に宗教的解脱を目指す。そしてそれは知性の助けを得て到達しようという傾向を持っていた。その好例が仏教であるが、日本にもある仏教である禅宗念仏宗日蓮宗真言宗などは情緒や直感を主とするものであるが、奈良仏教・法相宗華厳宗の教理には論理的な要因が濃厚に含まれているのが見て取れる。しかし釈迦が生きていた時代の初期仏教はさらに簡潔な合理的精神によって貫かれている。

 初期仏教の教理を簡単に要約するといわゆる三法印諸行無常諸法無我涅槃寂静の三原理である。すべてのものは普段に変化しつづけており同一性を持たない(諸行無常)。そして変化し続ける現象の背後に不変の実体などはない(諸法無我)。実体がないというのはつまり、なにものもそれ自身によって独立に存在しているわけではなく、すべてのものは他によって存在する。だというのにこれを認めず、実体を認めようとすると現実と対立して不満がつのる。苦を除きたいなら実体という考えを捨てなければならない。苦悩のない状態を涅槃という。涅槃であれば心は安静になる(涅槃寂静)。

 この教理をさらに四諦によって検討してみよう。四諦とは苦諦・集諦・滅諦・道諦のこと。人生は苦悩にみちている(苦諦)。苦悩にはそれ相応の原因がある(集諦)。この原因とは三法印で示されたような真理を知らないことである。そして苦悩が消滅すれば心が安静になる(滅諦)。そして苦悩の滅に至る道が道諦であり、その内容は「八正道」としてまとめられる。この八つの道は「三学」として簡潔にまとめられ、戒・定・慧である。戒律を守り、精神を統一し、智慧をもつ。このように仏教の教理では知的方法が重視されているのである。知性を欠けば解脱は得られない。苦悩の根本原因は無知なのだ(現実の苦悩の原因を順にたどった「十二因縁」がまとめられている)。

 仏教思想は形而上学的な問題を、それは永久に解決できないもので仮に解決されても解脱にはなんの利益もないと切って捨てる。これはカントが実践のうえでは形而上学を必要とした点からすると徹底的な形而上学の排除といえる。仏教は「解脱」を目指す点で宗教的だが、その方法は合理主義なのである。ところが合理的だとばかりもいえないのは、思考だけでは解脱はムリだといっているところだ。つまり智慧だけでなくて、「戒」と「定」が必要不可欠なのだ。