にんじんブログ

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(メモ)考えごと

  •  「生命体はいろいろなものを分節化している。分節化はコトバ以前にも行われているし、言語的なものは非言語的なものをもとにしている。非言語的なところで分節化以前のものと出会っている。それはなにも分節化されていないので、区切りのない世界である」 その世界は存在の流出する源であるとされる。そこで分節化する意識の働きを削ぐために、意識を抑え込むための技術を東洋では求め続けてきた。
  •  が、なぜ意識を抑え込んだなかで見えた世界が「真の」世界なのか? それもひとつの世界のありかたではないか。世界はいつもなんらかの形で現れている。しかしかといって””もやもやとしたカオス””が真の世界というわけではない。真の世界などない。そう考えるのがむしろ自然ではないか。そのとき、むしろ世界の姿とは実体的なものではなく、単に””流れること””に過ぎなくなる。流れではない。流れること、である。

ほかの生物たち、蟻や蝙蝠やアメーバや松の木や水仙…には、それらが生きていくのに必要なかぎりでまた別の姿を以って世界は姿を現わすだろう。しかし、それらもまたそれらの生物にとってのものに過ぎない。唯だ一つ確かなことは、それらがどんな姿で現れようと、それらの現われの根底に「ある=存在」という事態が横たわっていること、そのことのみなのだ。

「東洋」哲学の根本問題 あるいは井筒俊彦 (講談社選書メチエ)

 少なくとも、もうこれは現象学とは関係ないだろう。そして考察は遂に、こうした世界の物語を語り始める。すべての主語は「世界」になったので、この世界がどうして自らを分けるようになったのかといった話になるのである。

  •  なにも分節されていない世界には「存在エネルギー」が満ちていて、それがどうこうなることによって……と説明され始め……。これはビッグバン以前の、宇宙のない、無を考えるときと似ている―――あれは無といっても、正負のエネルギーが拮抗している状態でゼロになっているだけなのだ。確率的にものすごく小さいものの、偶然に一方が跳ねることでビッグバンを起こしたのだ、という……。