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にんじんと読む「『東洋』哲学の根本問題(斎藤慶典)」🥕 序章、第一章①②③

 

井筒俊彦の考える「東洋」とは

 東洋哲学というとインド・中国・日本に限定して捉えられることが多いが、井筒はそのような枠付けを越えて<いわゆる中近東(イスラームユダヤ教の世界)と東南アジアとをあわせ含む>ものとして捉えていた。だとすると井筒のいう東洋とは、インド・中国・日本・中近東・東南アジアということになるだろう。しかし実際にはそう単純ではない。

 イスラームには全ギリシャ哲学が流入してきている。そしてまた、西洋と東洋との間をまたぐようにロシアという広大な地域があり、ここもまた射程に入るのである。ロシアには東洋あるいは西洋と共通する部分がありつつ、しかしそのどちらにも属さないような部分もある。すると井筒哲学の視野は地理的にも既に全世界規模になっている。もはや『東洋』と限定する必要もないようなものを、なぜあえてそう呼ぶのかといえば、これまでの哲学が『西洋』に偏していたというその偏りを正すためだった。つまり哲学といえば、それだけで西洋のものを意味するような、そうした限定を取り去りたかったのである。

 ただし、井筒の目的は単に「哲学」というものに東洋的な部分が欠けているのをみて、それを埋めようとしたということではない。哲学を時代的・地域的制約から解放することだ。そのために、いろいろの哲学がそれぞれのうちに秘めている基本的な論理を取り出そうとした。そのようにして、新たな哲学を作ろうとしたのだ。

 

 

 

コトバ・分節化

 「コトバ」というのは、<世界をそれぞれの「意味」ごとに区切ることによって、そこで区切られたものを明確な輪郭の下に浮かび上がらせる機能>のことである。ふつうコトバといえばふつうの人間言語のことを想像するだろうが、コトバという分節化機能をもつものはこれだけに限られない。すなわち、言語をもたない動物たちの間にもコトバは見られるのである。*1 分節化するとは、AをAとして、BをBとしてみることである。もちろん人間言語もコトバをもつ。しかし注意すべきなのは、言語より先にコトバありき、ということだろう。

 動物はよろしい。しかし、井筒は植物についてコトバをもつかどうかを言及していない。では石ころや水、無機物などはどうか。意識について触れている箇所もあるが、解釈によってはどうともとれるため、決着はそう簡単ではない。そこで、本書の立場を述べておけば、「コトバは生命体においてみられる」ということになる。というのも、生命体は自己維持の必要があり、そのためにそれに必要なものを認知によって見分けなければならない。そうでなければ生命体は生きてはおれないだろう。<何かが何かとして姿を現す(立ち現れる)のは、「存在」が生命という仕方で組織化(有機化)されることによってなのだ>

  •  第一次的存在分節 : 生物的
  •  第二次的存在分節 : 言語が分節に参加→「文化」

 言語という新たな分節機能は、それまでとは異なる新たな段階といってよい。第一次的なものを通らなければ言語も理解できないが、言語は単に付け加わるものではなく、それ以前のものを「組み換え」「取り込む」のだ。

 分節化の在り方を理論化したものとして井筒が注目したのは「アラヤ識」である。井筒はこれを三層の意識構造モデルにまとめた。

  1.  感覚知覚と思惟・想像・感情・意欲などの場所としての表層
  2.  一切の経験の実存的中心点としての自我意識からなる中間層
  3.  近代心理学が無意識とか下意識とか呼ぶものに該当する深層(アラヤ識)

 表層がいわばふつうの「意識」、中間層が「自己意識」つまり意識しているのを意識している意識、そして最下層に「アラヤ識」が来る。この深層意識は個人を超えて広がっている。日本語の話者はみな同じ日本語という言語体系を共有しており、その共通の源泉からこそ同じ日本語といえるのである。そういう「言語体系の底」にあるものを私たちは共有しているのである。

 日本人のアラヤ識から湧出する「木」のイメージには圧倒的な共通形状があり、一定の型がそこにある。その型が不変不動の実在として固定されたとき、私たちはそこに木の『本質』なるものを見て取っている。

 とはいえ、逆にいえば、その本質というのは実は単なるイメージだとしかいえない。

コトバは、その存在分節的意味機能によって、いたるところに存在者(事物事象)を生み出していく。…こうして生み出された個々の存在単位は、すべて、個別的な語の意味が実体化されたものにすぎない。…存在者が言語的意味の実体化(=実在化)にすぎないのであれば、すべての事物事象は、臨済の言うように、「みな、これ夢幻」であって真実在ではない、ということにならざるをえない。

「東洋」哲学の根本問題 あるいは井筒俊彦 (講談社選書メチエ) p44

 テーブルの上の花瓶は、テーブルと花瓶のあいだにしっかり境界線があるように見える。しかしこの境界線はアラヤ識における分節化機能によって引かれてしまう。この境界線のもとで姿を現したものが実在しているのかどうかはまた問題になって来る。

 

 さて、アラヤ識は境界線を引くのだと言った。そうするとそこにおいて、境界線を引かれる何かが前もって存在していることは当然のことである。だとすると、そうした無文節な世界に線を引く仕事をしているアラヤ識の内に、それ自体への通路を見出そうとするのもまた当然のことである。私たちはそれを見ようと絶えず努力してきた。古代ギリシャ哲学における観想や、理論、あるいは瞑想などなど。

 そうした努力はやはり<世界が、現にそのように見えているのとは違ったものである可能性、あるいは違っていてもおかしくないということへの気づき>があってのことである。これが哲学の原点なのだ。いろいろの努力によって世界が異なる相貌のもとで姿を現してきたとき、世界はもはや見慣れた区別を一切離れ境界があいまいになり、すべてが渾然たる一体と化すだろう。すべては「一」になる。そして区別がないがゆえに、それは「無」である。ここは絶対無=絶対的な無であるが、しかしたしかに存在である。ここは意識と存在のゼロ・ポイント、あらゆる存在が生み出される存在の中の存在なのだ。イスラム神秘主義や禅などはこのゼロ・ポイントに向かう努力である。

 

意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)

意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)

 

 

 

 

 日常的に出会う物事は互いに区別されている。華厳哲学においては区別された物事を「事(じ)」と呼ぶ。そして物事が他とは独立にそれ自体で存在するという性格を「自性(じしょう)」という(「AをAたらしめ、AをBから区別し、Bは相異する何かであらしめる存在論的原理を、仏教の術語では「自性」という)。しかし仏教においては自性は人間の分別意識の所産にすぎない。自性が否定されれば、ものとものとの境界線がなくなる。これを「事事無礙(じじむげ)」という。境界線が透けたむこうにある世界は混沌であり、つまり意識が「空」化されている。すなわち、アラヤ識が「空」化している。この状態を「無垢識」と呼び、華厳哲学では「自性清浄心」と表現する。

 アラヤ識は無と有のどちらにも接しているのだが、井筒は有→無だけでなく、無→有という性格も重視する。

 

存在解体後の存在論

 「空」の境地には真空と妙有(みょうう)の二側面がある。前者が無を、後者が無を表している。「理」とは有的原理に転換した「空」のことだが、ここでの「空」は無分別ではあるけれども、すでに存在への動向を内に宿したものとなっている。すなわち分節可能性から捉えられている。「理」はそうした一種の存在へのエネルギーをもったものとして解される。

 さて、事事無礙という境地に達した者は、再び「事」の世界に立ち戻るとき、彼は「事」を見ていながらそれを突き通して「理」を見ている。分節と無分節の同時現成という存在論的事態を「理事無礙」という。理と事を同時に見る「複眼の士」と呼ばれる。事の世界から無の世界へ至り、そこからまた事の世界にもどるとき前までの分節とはまったく異なるレベルとなっている。この第二段階の分節においては、花というものが花として現象しながら、しかし花であるのではなくして「花のごとし」というべきものになっている。あらゆる存在者が存在的に透明になっている。この花はもはや本質によって囚われてはいない。

 理事無礙という仕方で現成するそのメカニズムをもう少し詳しくみよう。先ほどものとものとのあいだに区別はあるのだといたが、その区別は<すべてのものが全体的連関においてのみ存在している>ことから来る。AというもののAとしての存立にはあらゆるものが関わっている。机というものは次の瞬間には違うものになっている。そうするとすべてのものは瞬間的に起こり、瞬間的に消える。そしてモノとモノとの連関ゆえに、一つのもののうちには他のすべてが漏れなく含まれている。「縁起」は、私たちの世界の全体論的存立=現出構造を表現している。

 「理」が「事」的顕現をすることを「性起(しょうき)」というが、縁起と性起はほとんど同じ事態を指していることがわかる。同じ一つの存在論的事態を、理事無礙的側面からみれば「性起」、事事無礙的側面からみれば「縁起」となるだろう。

 世界の実相は、存在が主語だといえる。花という現象は、「存在が花する」ということである。そして花の性起は他のすべての顕現でもある。それがわかれば、存在は瞬間的に全体顕現するので、世界は分節しつつもただちに無分別であることもわかる。これが区別された存在者が透明だということの意味である。

 

 

老子道徳経 (井筒俊彦英文著作翻訳コレクション)

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  • 作者:井筒 俊彦
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存在の階層性

 次に考えるのは存在者間の階層性である―――「存在者」はすべて平等なのか、それとも事事無礙ではあるにしてもある種の階層があるのかどうなのか? この点について、華厳や禅などではそれほど明らかではないが、イスラーム存在論においては明確に現れている。

  1.  イスラームにおいても表層から深層へ、深層から表層へという二つの途を考える。前者を「スウード」、後者を「ヌズール」と呼ぶ。ヌズールは三角形の階層があり、その頂点に位置するものは絶対的一者である。イスラームにおいてはアハドと呼ばれ、絶対無のことである。これに存在可能性(いわば存在エネルギー)をはらませたのを「アハディーヤ」といい、三角形の上部の領域にあたる。ここではまだ顕在化は起こってはいない。
  2.  そして遂に顕在化にいたる境界が「ワーヒド」といい、統合的一者の意である。イスラームにおいてはそれはアッラーの第一の名である。絶対無限定のアハドがおのれをアッラーとして自己限定した結果であり、ここから三角形は「神の自意識の世界」であるワーヒディーヤとなる。ここはなおもふつうの存在者は潜在的であるが、とはいえ、神という形で既に分節化されている。つまり「有」の世界に既に踏み出している。
  3.  次の領域は「カスラ」である。これはすなわち神の世界創造だとされる。ようやく私たちのなじみの存在者があらわれはじめる。

 現代人にしてみれば、第二層の怪しさが尋常ではないし、必要なステップなのかさえよくわからない。たぶん絶対無から世界を切り分けてくれる人が必要になったのだろうと思う。でなければ、絶対無としての世界から世界を切り分ける存在である「生命」が突如出現したことになる。ムハンマドハディース』には<私は隠れた宝物であった。突然私のなかに、そういう自分を知られたいという欲求が起った。知られんがために私は世界を創造した>という記述があり、神が突然自分を知ってほしくなったため、自分を眺める鏡として世界を創ったそうだ。

 

 それはともかく、私たちが聞きたかったのはこうしたことではない。私たちの知っているふつうの存在者のあいだの階層関係が知りたかったのだ。井筒はこのことを述べていないが、まったく無関心であったわけではなさそうである。

 先に「コトバ」について、分節化に二つの段階があることを述べた。知覚的分節と言語的分節という二つの段階である。言語的分節は知覚的分節のなかに入り込んでくる。これは存在者が単に一方通行的にあらわれてくるのではなくて、後の段階が前の段階に影響を与えることを示唆している。たとえば知覚的分節によって「白」を把握したエスキモーは、言語的分節によって「白」というものを区別するさらに多くの言語を持っている。また日本人は「雪」というものを、粉雪・泡雪・細雪・ざらめ雪…といったように区別する。しかし井筒はこれ以上踏み込むことはなかった。

 言語的分節は知覚的分節なくしてはありえない。なぜなら何も感覚しなくてはそもそも区別などできない。<ところがその知覚は、ひとたびそれに「支え」られて言語の階層が成立した暁には、いまや最初から言語によって規定される>ようになる。こうした関係を「基付け」関係と呼ぶ。

例えば、有機体は無機物に「支え」られることなしには存立しえないが、その無機物は有機体の下でその振る舞いを規定されることで(有機体に「含ま」れることで)新たな存立形態を獲得することになる。生命(有機体)は無機物を摂取し・排泄すること(物質交代=代謝)によってのみおのれを維持するが、無機物はそのとき摂取すべきものとして、排泄すべきものとして有機体に対して姿を現わし、その限りで特定の物質循環の中で固有に振る舞うのである。

「東洋」哲学の根本問題 あるいは井筒俊彦 (講談社選書メチエ)

 

 

 

生命と自由: 現象学、生命科学、そして形而上学

生命と自由: 現象学、生命科学、そして形而上学

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*1:「動物には言語はみられないが、コトバは見られる」という言い方をすると覚えやすそうだ。