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(メモ)梵我一如、無我

 西洋と東洋の思想の違いは「光あれ」で分かたれるという(新編 東洋的な見方 (岩波文庫))。前者は「光あれ」から、後者は光が射す前も射程に置く。理論theoryのもととなったテオリアという言葉は、見るという動詞の名詞形であるが、東洋は真理探究のために目を閉じ瞑想を行う。デカルトは懐疑の集中砲火によって我に至ったが、見るもの/見られるものとして、我に対するものとして事物を分節するというこの構造をインド思想においては「相対(dvaita)」といい、宇宙万象の原理ブラフマン(梵)と自我の本質アートマン(我)が別個のものではないことである「梵我一如」を真理として提出した。そもそも、宇宙という語は自分に相対してはじめて認識されるものである。自分があって宇宙があり、宇宙があって自分もあるのだから。アートマンについて語るとき、私たちはアートマンがしかじかであると語ることはできない。ただ言い得る最小のことは「~でない」という特徴、「不可捉、不可壊、毀損できない」ということになる(空と無我 仏教の言語観 (講談社現代新書))。

 私たちのの考える自我は本当の自我ではない、という主張を「非我」といえば、これはバラモン教の正統な考え方である。一方、仏教では「無我」を説く。これは前者において生じる「本当の自我」というものに対する執着に対して、「自我はない」と言い切る思想である。それは自分というものを求めて遂に達する境地である。