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「備えあれば憂いなし」より「備えなくても安心」のほうがいい(日記)

2022.10.16記

 世の中でなにがいやかといって、いやな思いをすることほどいやなことはない。

 いやなことを避けるためだったらどんないやなことでも受け入れる覚悟である。これは冗談ではなく、人間はそうやっていやなことをより小さないやなことで代理させてきた。電撃を受けたくなかったら多少鬱陶しかろうがゴム手袋をつければいいのである。しかし勘違いするなかれ。代理としてあらわれたそいつも、毒には違いない。毒をもって毒を制すとはこのことだ。

 この世の中は一歩でも外に出ると、あるいは外に出なくても、クソ鬱陶しいことで満ち溢れている、とたいていの人は考えている。病気にはなるし死ぬし面倒だらけでなぜ生まれて来たのだろうと文句を言っている。だがたぶん、ほとんどの人は本当に致命的な「いやなこと」のことなど一つも考えていない。これはにんじんも含めてのことだ。病気のリスクが上がるっつってんのに煙草を吸う人間や、酒をがぶがぶ飲むやつはいるし、運動だってしない。めんどくさいけどゴム手袋をはめるようなもんだからやればいいのだが決してしない。それでイヤイヤ言っている。まあどんだけ努力しても死ぬわけだが、病気の心配はしても死ぬ心配はしてないだろう。たぶん。

 さて、私たちが考える嫌なことというのは、対人関係のことだ。うざったい上司からうざったい同僚から、緊張する場面から、授業から、重めの三角関係まで、ややこしいことは数多い。本当に厄介なのはうざったくもなく、かといって親しみもなく、仲良くなれもしないフツウの人を相手することかもしれないが。

 いやな目に遭わないことは絶対に不可能であることは誰もが知っており覚悟をもってこれに挑まねばならないことも誰もが理解している。しかし厄介なのは、いやなことというのは必ずといっていいほど覚悟していないほうからくる。深い痛手を負うのは備えがないほうだから、余計にそう感じる。

 それで人は色々な備えをする。備えあれば嬉しい。

 マインドフルネスやらアンガーマネジメントやら、こういうのが効きますよというのを手当たり次第に仕入れる。極端なものになると「一切の欲望を捨てろ」という話になって、なるほど欲望を捨てれば何も気にならなくなる。こういうのはある一定程度効果を持つもので、やらないに越したことはない。成功体験があると次もまたその備えを大切に生きていく。それがだんだん溜まっていく。

 マインドフルネスだろうが瞑想だろうが、それは基本的に鬱陶しい。努力しなければできないことなのは、わざわざ寺に立てこもってる坊主がいることからも察しがつく。やれ、やれ、と圧を掛けられるぐらいだからめんどくさいのだ。外出するたびにそれをやるハメになるので、ますます外出が嫌になる。熱が冷めたあるとき改めてこう思う。「ああ、なんて嫌な世の中だろう」。

 どれほど〈心理療法〉を重ねても、肝心の世の中の鬱陶しさが消えていない。

 世の中が鬱陶しいからこそそれをしているわけだから、積み重ねれば積み重ねるほど、世の中が鬱陶しくなる。———そういう経験ないだろうか。うまくいっていた「処方箋」が急に空しく感じられることが。

 

 備えが悪かったわけではない。問題は、それを握りしめてしまったことだ。

 軽いパニック障害の人は、過呼吸になったときの対処法を理解している。三秒吸って、10秒息を止める。そして三秒吐く。三秒吸う。これを一分のサイクルで繰り返す。すると過呼吸は絶対に治る。体の構造的に治らざるを得ない。これを理解すると、けろりと治ってしまう人は多いそうだ。でも毎朝毎朝定期的にこの手法について考えるわけではない。慣れるまでは少しかかるかもしれないが、それ以降はもう考えない。過呼吸が起きたら対処できる。

 自己暗示や瞑想、格言を思い出さなければ外出できないのでは意味がない。「今朝は落ち着いた時間がとれなかった。ああどうしよう」と焦って不安な気持ちになったのでは本末転倒だ。

 好きな時に取り出せて、「多少いやなことがあっても安心」なのが一番いい。「なんとかなる!」という自信はそういうところから産まれてくるのではないか。

 

carrot-lanthanum0812.hatenablog.com

 ストア派の日々のルーティンは、すべてのことに心構えをさせる。

 面倒なことからの心構えをすると、当たりが柔らかくなって、痛みが少し減る。これは完全に間違いのないことで、誰もがその効果を実感できる方法論だと思う。しかしこれを毎日毎日、ずーっと、それこそ死ぬまでやり続けなければならない、と考えるとひどく憂鬱になる。その意味では、「手のかかる対症療法」になっていて、根治にはまったく至っていないともいえる。

 なんらかの不安を持っている人は、不安にならなくてもいいことを十分に理解しているし、なぜ自分がそういう不安を持つに至ったか発達的に理解している人もいるだろう。だが消せない。自動的にアイディアが出てきてしまう。それでひとつひとつの出来事に「違うよ」「違うよ」と囁いていく羽目になる。これはなんとかならないのだろうか。あるいは、なんとかするのをやめられないのだろうか。

『いつまで頑張ればいい?』

 長々と書いたが結局、これに尽きる。がんばらなくてもいい””レベル””になるまでがんばるしかないのか