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快楽主義(日記)

2023.5.10記

 気持ちのよいことを求め、苦痛を避けていく。これこそが倫理の第一原理だとする人たちのことを快楽主義者という。これに対する反論のうちで最も強力なものは「快楽機械」で、快楽をよい具合に与え続ける機械に繋がれて一生過ごしますかと問う。誰もそうしたいとは思わない。あるいは、フッサールの反論がある。たとえばあなたがコンサートへ行って実に楽しく、やはり快楽こそが大切だといったとしよう。だがそれはコンサートを楽しむことと、楽しまれたコンサートを区別し損ねている。大事なのはコンサートが価値あるものであったことである。楽しむことだけを取り出してきた「〇〇は楽しい」というものは、〇〇が何でもよいわけではなくあなたにとってまさにコンサートこそが楽しまれるものであったのだし、楽しむことができたのはコンサートに価値があったがゆえである。つまり、第一原理ではない。価値が先行しているのだから。

 性的快楽をどれだけ享受しようがいつまでもそうありたいとは思わないもので、すっきりしたら「さて何をするか……」と賢者の顔つきになっている。お金を稼いで稼いで稼ぎまくった人は、増え続ける収入に対して意味を感じなくなるという。豊かさによって得られる幸福感には限度があるのだ、という最近よく量産品のお気持ち本にも書いてある。

 

 でもよ。

 

 「そうですか。でも私には「ふー満足した」と言えるほどの快楽がそもそもないんですがね」と言いたくなる人の気持ちは、まったく自然である。単純な快楽主義ははっきり言って理論的にはまったく維持できないし、腐るほど反論もある。フッサールよりも快楽機械が最強すぎる。誰がそんな機械に繋がれたいんだよ。だが、そうはいっても、この原理は人間の基本的な行動様式である。たまに例外的に、クソ高い山に登りにいって汗まみれになって「苦しいですが景色はいいですね」と言うようなケースはあるが、そんな人それぞれの””トクベツ””がないところでは、気持ちいいの優先だし、嫌なことは避けるものだ。

 お勉強とか文化的なこととか、余裕がなければそもそもできない。誰が机の前に座ってウンウン座学なんてやりたがるのか。それに価値があることはみんなわかっているが、そもそも満たされていないのでやる気になれない。快楽原理起動領域である。価値は快楽に先行するが、快楽を乗り越えなければ価値が見えてこない、ということもある程度たしかであるように思われる。