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にんじんと読む「現象学ことはじめ(山口一郎)」🥕 第二章まで

第一章 数えること

  •  「心の働き」と「心の内容」は区別しなければなりません。たとえば「喜んだり、悲しんだり、見たり、聞いたり、想像したり、思い出したり、判断したりする」ことと「喜びや悲しみといった感情、見えている何か、聞こえている何か、想像されている何か、判断されている何か」を区別しなければなりません。
  •  私たちは「心の働き」を考えたい。たとえば、””数””ではなく””数える””ことがどういうことかが知りたいからである。また「心の働き」とひとくちにいっても、その働き方の違いがあることに私たちは気づいている。もの思いにふけることと、人の話を聞くことは異なる。だがどう異なるのだろうか。ただ言葉の違いにすぎないのだろうか。

 さて、広いドームに出てみよう。客は何人いるだろうか。たぶん「たくさん」だろう。そういう風に数がおおざっぱにわかることと、きちんと一人一人数えることはどう違うだろう。フッサールは前者を感性的総合、後者をカテゴリー的総合に区別する。これはどう違うだろう。

第二章 見えることと感ずること

  当たり前の世界はその成り立ちの歴史を持つのであって、最初からそういう風に見えているわけではありません

 

  •  たとえば先天的に盲目だった人が手術で目が見えるようになると、彼には私たちの見ているような当たり前の世界は見えません。混沌とした諸印象がぐるぐると渦巻く世界が見えるのです。これをノーマルな世界へ移すのは並大抵の努力ではなく、この苦闘に耐えきれず自殺する人もいます。

 さて、なにか置物があなたの目の前にあります。その角度からの見えは、少し頭を動かせば変わります。個々の現われを〈射映〉といいます。ところが不思議なことに、私たちは〈射映〉の一まとまりとして、「置物」という対象を見ています。これを〈融合的な総合〉といい、ひとつの働きです。置物には見えていない側があるのですが、それは総合によってまとめられてしまっています。

  •  置物をなんとなく眺めてみると、裏にシールがついていました。「あれ?」とあなたは思います。でもどうして「あれ?」と思うのでしょうか。予期が外れていたからです。でもあなたは自覚的に「裏はこういう風になっているだろう」などと思って見ていません。無自覚的に、あなたはいつも見ている置物の裏を予期していたのです。ただぼんやりしていただけなのに、気づかぬうちにそれほどのことをしていたのです。※予期が満たされる以前を「空虚」、満たされた場合を「充実」と名づけます。
  •  あらゆる作用は、いつも「~について」のものです。ぼんやり眺めているように見えても、作用は何かを指差しているのです。でもこの作用は、モノを照らし出すスポットライトを無意識の私が差し出しているようなものではありません。
  •  私たちはあまりにも「主観」か「客観」か、という議論に慣れ過ぎています。それは自分の内側か、外側かという話に、どうしてもしたがります。「置物という客観が主観を刺激して意識作用が動き出す」か、あるいは「意識作用という主観が置物という客観にスポットライトをあてるのだ」と言いたいのです。
  •  現象学ではそのどちらも前提としません。私たちがすでに「何かを意識してしまっている」こと。なにかが現象してしまっていること。ここからすべてがはじまるのです。意識という””元””に””還””ること、還元、これが現象学的還元と呼ばれるものです。

現象学は、この何かを意識しているということ(たとえば、「フクロウが見える」ということ)がはじめにあって、これを出発点にして、この何かに向かっている意識の志向性を、二つの観点から分析します。一つは、何を意識しているのかその「意識内容」に注目する観点で、二つ目は、どのように意識しているのかという「意識作用」の観点です。その分析の際重要なのは、意識内容と意識作用との間に密接な関係があることです。

現象学ことはじめ―日常に目覚めること

 たとえば、

 知覚された何かという意識内容は、知覚という意識作用に相応して、想像された何かという意識内容は、想像という意識作用に相応していること、このことをフッサールは意識作用と意識内容の「相関関係(お互いに相応する関係)」と呼びます。現象学の意識分析というのは、この「意識の相関関係」の分析を意味します。

現象学ことはじめ―日常に目覚めること

  相関関係など、当たり前のものに見える。しかし「他の人の悲しみが伝わる」というとき、自分の悲しみとまったく同じように、伝わっているのでしょうか?