にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

MENU にんじんコンテンツを一望しよう!「3CS」

にんじんと読む「現実とはなにか」

 決定論的で同一的なものが現実であるという認識を変更しなければならない。

 まず、なにかが同

 

 

一であるというのは、時々刻々とさまざまに状況が変化していく現実にそぐわない。だが私たちはその背後に同一的なものをいつも仮定し、目の前に現れている変化とその同一的なものとの関係を記述してきた。それ自体は理論的にひとつの進展をもたらすものであるのだが、「物」というずっと変わらない実体にこだわるなら、たとえば『二重スリットの実験』などが理解しがたくなる。なにしろ光は粒子であると同時に、波でもあるのだから。

 二重スリットの実験によって考えられるのは、自分たちが「粒子」(物)といっているものは単なる「粒子」ではなくて「その場における粒子」だということだった。発射される粒子は実験される環境によって粒子のようにもなれば、波のようにもなる。もし発射される粒子が自分の飛び出す環境について熟知してそのつど進路を変えているのではない限り、そのような背景にある「場」を考えざるを得ない。それは環境の情報によってそこにある粒子に働きかける装置である。その環境というものは、私たちがまさにそれを観測しているという事実ももちろん含まれる(二重スリットの実験では、発射された粒子を追うか追わないかでも結果が変わる)。そう考えると、「物」というのはだれがみていようがいまいがそこにあるような独立したものだと思われているが、どうやらその常識もひとつの大きな””主張””になってしまうようだ。すると私たちとしては「物」よりも「場」から考えすすめるのが自然の成り行きになってくる。さらにいえば、物は場の状況においてふわふわ状況が変わるんだからもはや「物」さえも「場」と呼んでしまってかまわないかもしれない。

 だが「場」を現象の背後にある同一的なものと考えたら、同じ穴の狢になってしまう。私たちは「場」から語り始めようとする。しかし、それを語る際、そこに「物」があってそれを観測しなければどうにもならない。「磁場」というものを砂鉄も何もなしに観測できるやつはいないように。実際目の前にしているところの、場における粒子的な現象を記述する際には確率を用いる。つまり、①場を根源的だとしたところで粒子と関わらなくて済むわけではないし、②確率が出る以上決定論的なものではない。

 私たちとしてはこれらの事実を素直に受け入れるしかない。場における粒子の出現は決定論的に記述できない。なぜその場において粒子がここではなく、そこに出現したのかということは技術不足とかそういう理由ではなく、原理的に、わからないのだ。

 

 統計で語られる個別的な事象は一回限りのもので、それを何回か繰り返すことによってパターンが見えてきて、それによって予測がたつ。これが法則である。ただデータとして現れているものは当然未来にやるテストのことなどは含まれていないわけで、ここには、将来も同じだろうという前提が入り込んでいる。『同様に』起こるのだ、というわけである。このことは言い換えれば、あのときやろうが、このときやろうが、そんなときやろうが、同じことだという意味になってくるだろう。法則が見えてくるというのはそのような「置き換え可能性」が見えてくるということだ。そして、もちろん実験の条件を変えてやれば、法則は違う姿を見せることだろう。条件があって、法則がある。条件の違いがきわめて劇的に現われるのが二重スリットの実験などであった。

 つまり「法則」というものを中心に考えれば、

  1.  法則がわかっても結果がどこに現れるかは一般的に決定論的にはわからない
  2.  法則は条件に依存して決まる。逆にいうと、法則にはどの条件を選ぶべきか、など書いていない。『その条件でやったら』この法則が出て来たよ、というに過ぎない。

 条件を決めるのは我々である。こうしてみよう、ああしてみようとやって、法則が見えてくる。しかしそれでも「次はここだ!」とハッキリわかるケースはまったくない。得られる答え(法則)は、なんらかの値をとることはわかっているが何かはまったくわかりません、というようなものだ。これはまるで代数方程式のXのようなもので、数学は値がまったくわからないなかで、それでもわかることはなにかというところに主眼がある。

 すると数学は、現象を見て、実験し、法則を見つけ、……と現象をよく見ていくうちに自然と到達するようなものなのだ。現実は非決定論的で、非同一的な、ふわふわした不定元なのだが、これこそまさに数学が表現しようとしてきたものだった。

 

 

 「数える」ということについて考えてみよう。それは特定の仕方、1・2・3……によるものであろう。だがそれは数え方のひとつにすぎないことを私たちはすでに知っている。しかしだからといってどう数えてもいいのだと力説しても、数えることはできない。とにかく何か或る特定の仕方でやってみるしかない。この選択は、別にそれでなくてもよいという意味で、非規準的選択と呼ぶことができるが、それが非規準的選択だったのだとわかるためにはとにかく選択して実際に数えてみなければならなかった。当たり前の話である。

 次に「1+1」について考えてみる。それはふつう「2」だろう。だがもしこれが二進数による表現ならば「10」でなければおかしいことを我々は知っており、しかも二つは結局同じことなので、非規準的選択である。ただその””同じこと””だというのはなぜわかるのかといえば、それぞれ特定の仕方でやってみせているからである。数学の定理においては「以下の命題は同値」とやって同じことを表現することがあるが、同じことなんだからごちゃごちゃいうな、と言い出したら数学などやっていられない。

 つまりこういうことだ。

 非規準的選択にもとづいてはじめてなにかいえるのだが、なにかいっている時点でその特定の選択には依存しないということを既に含意している。

 なんらかの記号を使わないと数学はできない。だが別にその記号がなんだろうが数学は可能である。結果として、数学をやっている最中、非規準的選択はまったく姿を隠してしまう。

 非規準的選択をすることによってのみ、「だれがどうやってもいい」という置き換え可能性に至ることができる。これは””真理””についても同様である。なんの前提もなしになにかを証明することなどできない。

 

 

 

 

 

 x^2=-1の解は二つあって、±√-1である。別にどちらを虚数iとしてもよいのだが、ふつうの人間はプラスのほうを虚数にして、もう片方をマイナスiとしてあらわすことを選ぶようだ。このような選択は非規準的であり、別にどれを選んでもいい。値として選べるのは二つで間違いないのだが、どちらを選ぶかは数学的にどうこう言える話ではない。あの選択公理でさえも、選び取るという関数の存在を保証するだけで、関数自体が具体的にどんなものなのかを告げるものではない。

 このような非規準的選択は数学にとって必要不可欠なものだが、数学体系のなかに明示する必要はない。明示するときはいつもその決定は完了形であり、既に話は終わったものとして現れてくる。たとえば、しかじかの性質を満たす関数fを任意にとってくるとき、そのような関数の全部を一気に考えているわけではないが、結果的には全部について語ることになる。これこそ数学の「普遍性」である。なにかを数えるときはふつう、1,2,3……とやるが、別にこうでなければならなかったわけではなく、別の数え方でもよかった。特徴的なことは、別の数え方でもよかった、などといえるのは何かの数え方をやったあとの話だということだ。1+1=2なのが当たり前だが、計算方法としては1+1=10という二進数的な考え方もある。このふたつの表現はどちらも「同じこと」である。

 数学は非規準的選択を通して、置き換え可能性に達する。真理は発見されるというとき、誰がどうしても発見されるのだ、ということを含意し、真理は創造されるのだというときそこには人々の主体的な活動が強調される。真理は発見され、かつ、創造される。真理はもともとあったものでありながら、創り出されたものでもある。

 ふくろうの置物はさまざまな側面を持つ。正面から見た時、いろいろな角度で見た時、その置物はさまざまなに形を変える。単に「物」とはいってもそのそれぞれの現れを統合したところに、その「物」は存在している。

 変化が織りなすシステムを数学的に最も一般化した形で定式化したのが圏である。それぞれの現れと、動き。そして動きの合成。動かないという動き。「同じ」というのは右に半歩進んで左に半歩進んで置物を見た時、動いていないのと結果が変わらないということで「A=B」というのは「A→B、B→A」の特殊例ということになる。つまり「同じ」というのは多様な現れの間のプロセスの可逆性であり、「同じ」というのは「変化」から生じてきていることがわかる。

 たしかに半歩右へ進み、半歩左に進んだ置物は、動かなかった場合と同じ現れをしているだろう。しかし、違うといえば違うところもある。少なくとも時間は違うだろうし、原子レベルの状態も異なっているかもしれない。しかし私たちが「同じ」と思うその「同じさ」で、日ごろ、物と接している。それで十分なのだ。5個のリンゴと5個のミカンは、個数としては「同じ」ものである。このような「緩い同じさ」から、ものを考えることもある。

 

 生態系の複雑なシステムは捕食関係や共生関係などの多種多様な関係からなる圏である。これを理解するために私たちは「測定」を行う。これはわけのわからない圏から数量の圏への関数(関手)を構成することである。そしてたとえば個体数の増減などからその他の種の個体数がどのように変化するのかを予測したりする。

 このような測定は、当たり前のように、一つには決まらない。たとえば速度をはかるのだと決めたところで、いったいどこ視点での速度なのかという話になる。電車から見た物体の速度と、立ち止まって見た物体の速度は違う。つまり、「どの座標系を選択するか」である。

 「人それぞれ速度は違うのだし、速度について話してもな」ということにはならず、私たちは「この座標系でこんな運動をしている物体を、あの座標系でみたらどうなるだろう」と話してきた。この座標変換は、測定と測定の間の、関手と関手の間の、関係づけである(自然変換)。

 

 自然変換は個々の現れたちを通じてはじめて現れるが、特定の現れをひいきしない。関手を生むという非規準的選択が、自然変換を通じて別の関手へ変換可能になり、最初の非規準性が消えてしまう。

 

 

【これまでのあらすじ】

 光が粒子的な性質を持つか波的な性質を持つかはこの背後にあるであろう「場」によって決まると考えられるが――砂鉄がなければ磁場が見えないように――具体的な粒子なしで場について語ることなどできない。現実というものはこちらから具体的にアプローチしなければ、じっと黙ったままである。アプローチする、問いかけるという主体的な行為がここでは問題となっている。

 なにか働きかける、そうする、選び取るというのは、そうでなくてもよかったという意味で「非規準的」である。選択は数学的には関数の構成と等しいが、具体的な関数の中身を決めるのは我々なのだ。たとえば「数える」ということにしても、私たちは別に1,2,3……でなくてもよいことを知っている。それは単純に記号であることを知っている。1+1=2なのは十進法を用いる場合であって、1+1=10と計算する仕方があることを知っている。数えるということを理解しているというのは、どの順番でもいいし、どれからはじめてもいいということを理解することを含意する。しかしとにかく具体的ななにかひとつから始めなければ、絶対にそのことを理解することはない。

 法則というものは『同様の条件の下で』という仮定のもとで語られる。二度と繰り返すことのできない「この」実験たちによってはじめて法則が見えてくるが、法則というものは「この」「あの」「その」実験たちのそれぞれの関係を主題化する。具体的な実験なしには法則は見えないが、法則はなにか特定の実験を特別視しない。法則は「こうであるなら、こうなる」ようなもので、「その前提をおけばいつの、どこのだれがやっても同じ」であるようなことである。その前提の選択は非規準的なものだが、そのように前提を与えなければ、私たちは現実についてなにもいうことはできない。

 私たちがこれまで語ってきたのはつまり、『個々のものを大事にするが、だからといってそれを実体視してそれにこだわってはならない』ということである。たとえば私たちは「物」というものを現実を構成するあきらかなものだと考えている。しかしよく反省すれば、単にサイコロといってもそれは六面あり、すべての面が同時に見えている訳ではない。どんなに頑張っても三面までしか見えない。見る角度によってさまざまな現れ方がある。つまりサイコロというのはそのような個々の現れ以上のものなのである。

 私たちは目の前にあるサイコロを、半歩右に行ってさらに半歩左に戻ったときに見たものと「同じ」だと思っている。しかしサイコロは完全に同じものではない。移動したぶんだけ時間が経っているし、原子レベルでは変化しているかもしれない。しかし形としては完全に「同じ」である。逆にいうと、私たちが日ごろ頼りにしている物体の変わらなさは、この程度の「同じさ」に依拠したものなのだ。そしてこの「同じさ」は、緩くしたり、厳しくしたり、別のやり方があることを私たちは知っている。

 

 数学的に表現してみよう。つまり「変化が織りなすシステム」を定式化するのだ。それが圏である。そこには個々の現れと視点の動き、動きの組み合わせが定められている。ここには、何もしない、という意味での動きが含まれている。そこで「同じ」というものを定式化すれば、行って戻れば何もしないのと現れが変わらない、という意味で、可逆性のことであると考えられる。AからBへ、BからAへ行ったものは、Aで止まって見ているものと変わらないので、「同じ」。つまり「同じさ」が変化によってとらえられている。物の場合、単にカタチが同じだという程度の「同じさ」なので、このような基準を変えれば、さまざまな「同じさ」を得ることができるだろう。その緩い同じさはふつう、数学では「同型」という言い方でまとめられる。

 さて、ここで圏はいろいろの物体と、それらの間の関係であるとラフに捉えてみる。私たちはある物体をとりあげて、その質量を測定したり、体積を測定したりすることができる。このような測定は圏から数値への対応を考えることである(「関手」)。当たり前のように、なにを測定するかは私たちの自由である。

 ところで物体の「速度」を測定しますと決めたところで、関手が具体的に決まるわけではない。なぜなら物体の速度はどの座標系で物体を見るかによって異なってくるからだ。しかしだからといって『速度はいろいろであります。測定しても無意味です』という話にはならない。むしろ座標系から座標系への変換、いまこのように見えるものを、あそこで見たらどうなるか、という『法則』が問題になってくる。これは関手と関手の関係づけであり、「自然変換」と言われる。重要なことは、そのような自然変換は「だれから見るか」という個々の状況によって生まれ出てくるということだ。非規準的に関手を生みだし、自然変換を通じてそれらが別の関手に関係づけられる。

 

 

 

 ピタゴラスの定理は真理である。それはいつの時代のどの人が証明しても同じだという意味での普遍性を持っている。この定理はけっこうな数の証明が知られてはいるが、いま「あなた」が証明したものはそれらとは完全に同じものではありえない。しかし「本質的には同じ」である。その意味は、可逆な自然変換によって繋がる、ということであった。自然変換というものはそれのもととなる関手なしには定義できない。そのことは、個に頼ることなしに置き換え可能性に言及することができないことを示す。