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書かない(日記)

2023.12.15記

 自分が「いまどんな気持ち」なのか。イラつくとか、面白いとか、なんとか。これにちょっと補足するにはTwitterなどのSNSはたいへん適しているが、より言葉を尽くそうとしたときには足りなくなる。俳句や短歌は言葉を絞るものだけれど、ああいう芸当は目の前にある以上の言葉を山のように並び立て、まさに絞っているのだということを思う時、400文字ほどの短文で言葉を尽くしたといえるほどに、言葉を””選んでいる””訳ではないことに気が付く。コミュニケーションが大事だと言っている人たちも、ある一定程度の社会常識を背景とした””以心伝心””みたいなものを期待しているだけで、言葉を尽くすほうには特に興味がないように見える。バラエティのノリだ。バラエティ番組は一般の人たちの会話の規範なのである。押すなよ押すなよ、って。

 だから話の流れとしては、もっと自分の気持ちを詳しく書いて、もっと話を聞かせて、ということになる。でも全部が読まれるわけでもないし、それで理解されるわけでもないし、喧嘩の仲裁に丸一日使うようなどこかの未開社会みたいなスピード感になれるわけもないし、第一、なんかちょっときれいごとっぽい。何とは言わないが、〇〇に出てる芸能人が「みんなの意見をもっと聞きたいし、話をしたいと思ってるんですけどぉ」とか言ってるの聞いて、「うるせえな」という気分になったことはないだろうか。ほんとはこのうるせえなの内実についても書いたほうが誤解が少なくていいんだろうが、別にそれで討論だの議論だのしたいわけじゃない。とりあえずうるせえんだよ……という、瞬発的な、それでいて基礎的な、そういう気持ちも大事だと感じる。いくら議論だのなんだのいったって、人間は頭で動くわけでもない。昔からこのギロンというやつには懐疑的だ。結局、相手を言葉でていねいに組み伏したいだけでしょう?「反論がないなら俺の勝ちだが?」みたいにさ。議論は大事なんだと、よくいわれるけど。

 求めているのはそういうややこしいことではない。一方、初っ端の「お気持ち」を後生大事にしろというわけでもない。相手のことをもっと知りたいとか、そういうのもちょっと違う。全部をひっくり返すようでアレだけど、そこまで確固たる「自分の気持ち」「相手の気持ち」「考え」「思想」だの、あるもんだろうか。本当はふわふわしてるんじゃないのだろうか。誰かと話すときにふつう相手との距離を考えたりするけれど、「いやあ、やっぱ離れるよねえ」って言ったりしているのでは? 恋人だったら密着する場合もあるでしょ。自分のことだけど、自分ではわからないものだよ。女嫌いを公言してる男も、まさか全員母親を毛嫌いしている訳じゃないだろう。

 ムカつくなと思うのを長々と言葉にしてみると、案外自分がムカついていないことに気が付いたりする。ムカつくのままで放置してると流れでそのままずるずるいっちゃう。バラエティのノリなら「ムカついてる人」の型を演じさせられるだろうし、議論なんかしたら「ムカついてる」こと自体を否定されちゃうだろうし、ムカついてることに同調してくれる人と一緒に過激派になりたいわけでもないし……。

 ただ、すばやい意思決定が必要な場面であれこれやってる暇はない。そういうときとっさに出る行動が徳で、日ごろからあれこれやって徳を磨く感じなのか。わからない。わからないということを書いている。わからない、でいこう。