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にんじんと読む「世界への信頼と希望、そして愛」 第一部

第一部 

第一章 活動的生とは何か――活動的生の世界維持形成機能

 人間には三つの根本活動があるとアーレントは言う。それが労働・制作・行為であり、諸活動はすべてこの三つのどれかに属する。そしてこの三つの活動を総称するものとして、『活動的生』という言葉が使われる。

  1.  労働 ― 生命維持活動 ― 生命それ自体への対処
  2.  制作 ― 世界形成活動 ― 世界性への対処
  3.  行為 ― 言葉を交わしつつ人びとと交わる活動 ― 複数性への対処

 三つの要素は上記のように、「~への対処」として区別される。労働というのは生きるための活動であり、それによって生み出されるものはすぐに消費され、そしてそれが延々と続く活動である。一方、制作においては生み出されたものはそこへどっしりと留まり続けるために作られ、その活動にははじまりと終わりがある。

 活動的生は共通して、「可死性」=人はいずれ死にゆくこと、「出生性」=生がいずれはじまり得ることという条件への対処である。諸活動は誕生という始まりを可能にすること、死という終わりを克服すること、この二つの使命が課せられている。労働における可死性への対処はまさに生命の存続、制作における可死性への対処は人工的世界を打ち立てること、行為における可死性への対処は政治的共同体を創設することである。また出生性については、将来を気遣い、世界がこれからも存続するように気遣うことで対処される。これらの活動にヒエラルキーはない。というのも、どれもが人間が生まれながらに課せられた制限・根本条件に対処するからである。

 このような活動的生を可能にする「世界」はしかし、活動によって存在するものである。活動は世界と切り離して理解することはできず、世界は活動と切り離して理解することはできない。このような依存関係を活動の観点から見れば、「活動的生が世界維持形成機能を有している」ということができよう。上述の三つの活動を言い換えれば、①労働=世界保全的活動、②制作=世界建設的活動、③行為=世界創出的活動ということになる。このような言い回しはあまりにもおおげさに聞こえるかもしれないが、たとえば大学のキャンパスという一つの世界は、教室や時計台といったいろいろの物やそこに集まる学生や教員といった人が含まれるが、まず諸々の物が制作され、そこで議論し、時には補修したりすることでその世界は建設され、創出され、保全されている。もし誰かが死んでもキャンパスは活動の続く限り残り続ける。それが可死性、出生性への対処となっている。 労働とはまず肉体の維持管理が課題であるが、それは世界の保全でもある。たとえば部屋掃除というのも、「部屋」という制作物の保全である。制作物の永続性は労働によって支えられているのだ。

第二章 世界とは何か

 世界とは、制作された物の世界、そこに集う人々の間にある共通の住みかとしての世界、そこで人々が言葉を交わしつつ行為する世界、という多層的な概念である。物には次の三つがある。:

  1.  消費財 ―― 労働による。機能性という価値。刹那的。
  2.  使用対象物 ―― 制作による。有用性という価値。持続的。
  3.  芸術作品 ―― 制作による。美という価値。永続的。

 これらを一つのカテゴリーの「物」として扱わせるのは「持続性」であり、これこそ物というものが持つ価値である。物は持続的であればあるほど価値があるとアーレントが考えるのは、持続性がさまざまな物が共通して持つ、物を物たらしめるものだからである。この基準からすれば、芸術作品>使用対象物>消費財の順に優劣がつく。そもそも消費財というのはもはや物ともいえないほどすぐさま消えていくからだ。

 世界のほとんどは使用対象物から成り立っている。この持続性ゆえに世界には持続性と永続性が授けられる。人間は自分たちよりも耐久性のある物を創り出し、それによって不死的な世界を創っていく。このことを言いかえると、世界はその中身がどれだけ入れ替わろうが何も気にせずそこに存在し続ける。そのお構いなしに存続する耐久性ゆえに、私たちから相対的に独立する。そのゆえに、客観性を有し、対象性を有する。なぜならば、人間が変わったところでその物は変わらずそこにあるというところに、客観性は生じるのだから。個別の人間にとっても、変わらなさ、安定性が私たちにそこを「故郷」「住まい」と言わしめるものである。そしてそこに変わらず在り続ける、そうした世界を私たちは信頼することができる。

 だが、世界は放っておけば滅ぶ運命にある。たとえば会社という組織にいる構成員は年老い、死んでいく。新しさが失われていく。そうした没落のプロセスから救い出すには新入社員という余所者しかない。同じように、世界を救うためには新生児が必要なのだ。誕生によってこの世界にあらたな人が生まれる。それによってもたらされるのは何か新しいことを始める能力、行為する能力であり、行為の可能性である。これを出生性と呼ぶとすれば、その潜在的可能性を現実化するのが実際の行為である。ただ、行為は世界に希望をもたらすとともに、その予測不可能性ゆえに世界の破壊者でもあり得る。物の安定性と人の不安定性の均衡を通じて世界は存在を続ける。