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にんじんと読む「世界への信頼と希望、そして愛」 第二部

第二部 世界への信頼と希望はいかにして破壊されてきたのか

資本主義

 アーレントは資本主義を批判する。

 まず資本主義は「制作」プロセスを「労働」プロセスに変えてしまう。すなわち、使用対象物の消費財化が起きる。消費財はたちまち消費される。一方、使用対象物はしばらくの間使用される。違いはテンポ、持続性である。労働と制作の違いはここに顕著に現れる。消費財はパンのように生命を形作り保全し、使用対象物は世界を形作る。

この社会において、働かざるものは食うべからずという古くからの言い回しは、大きな重要性を勝ち取っている。しかしこれは、私たちの歴史のほかのあらゆる時代と対立するものなのである。私たちの時代の社会的革命は、次のひとつの事実のうちに含まれている。すなわち、百年足らず前までは、単なる労働者はつねに政治的権利を否定されてきたのにたいし、私たちは今日では、非労働者は生存する権利すら持つべきではないということを当然のこととして認めているという事実のうちにである。

カール・マルクスと西欧政治思想の伝統

 労働というものに対する考え方の特異な変化は「働かざるものは食うべからず」に現れている。この言葉は非労働者は生きる権利を持たない、非人間的な存在として処遇することを意味する。近代において労働者こそが人間なのである。この労働中心主義的イデオロギーは特殊時代的なものであって、ほとんどの時代において労働は軽蔑の対象であり、働いていないことこそ人間なのだとされている。来る日も来る日も同じことをし、死ぬまで続けなければならない。

 しかし近代に入り、「分業」という組織原理によって、労働のいつまでも続く円環運動は生産性という言葉のもとに上昇し、いわばらせん運動をするようになる。労働が賛美されるようになったのはこの生産性の高さゆえなのだ。アーレントが注目した労働の賛美者はロック・スミス・マルクスの三人だが、このうちでも特にマルクスは労働それ自体に強い関心を寄せていた。ここからは「生産性」について考察しよう。

 まず注意しておかなければならないのは、労働にはそもそもアーレントがいう意味での「生産性」などはない。上記の労働賛美者は制作と労働という異なる活動を混同し、制作にある「生産性」を労働にもあるはずだと思いなしてしまった。だからロック・スミスが労働を賛美するのは、実は制作を賛美するがゆえなのである。だが、マルクスは違う。制作における生産性に対して、労働における生産性にあたるもの=「多産性」を発見したのが彼だからだ。だが生産性と多産性は異なる。一言でいえば、生産性は世界を形成するが、多産性は逆に世界を破壊するのだ。

 スミスやマルクスが行ったのは、生産的労働と非生産的労働の区別だった。生産的労働と言われる際の生産的とは、持続性を有した産物を生産し得ることを意味する。非生産的労働は真面目に考えるにはほとんど値しない低次の労働や世話であり、行われた瞬間にはもう無に帰してしまい痕跡や価値を残すことはめたにないようなものだ。彼らのいう非生産的労働とは、アーレントのいうまさに「労働」である。そして生産的労働とは、アーレントのいう「制作」である。だがこの二つが同じ労働という言葉のもとに包摂されてしまっている。スミスが実は見せかけだけの労働賛美者だというのはこのためである。

 だがマルクスは違う。彼は生産的/非生産的労働における生産性という言葉に、ものの持続性などを基準にはしなかった。彼のいう生産的というのは「持続性」ではなく「力の余剰」であった。労働というのは必要なだけやっていては作って消えて作って消えてを延々と繰り返すことになるのだが、もし必要な分を越えて余計に働ければどんどん余裕ができていく。生産的か非生産的かの区別はこの「より以上」を生み出すことに関心が向けられ、実際に生産されたものがなにかはどうでもよくなっている。そして産物に興味を失った場合、制作と労働の区別はあいまいなものになり、一緒くたにされてしまう。オムレツを今日いくら作ろうが消費期限は短いままなので生産的ではないが、実際に食う以上に千個でも一万個でも作れれば生産的(=多産的)といわれる。この「生産的」という言葉における力点の変化——産物から産むこと自体へ、質から量へ――が労働というものを一気に生産的で価値あるものへと押し上げたのだ。だがそこには持続性などなく、維持されず、世界は不安定化する。オムレツをいくら作ろうが少しすれば消え失せてしまう。アーレントは労働の生産性が力点を変えたもの、多産性にすぎないことを暴露し、労働は賛美に値しないことを強調するのである。

 労働と制作の同一視と生産性概念の力点変化(多産性の発見)による「労働」の地位向上が起こった。われわれは蓄積・労働・消費の螺旋に乗ったのである。これら三つの能力には限界があり、本来はいつまでもは続かないはずであるが、もはや持続性には関心が向けられなくなりただ利益を増やすことのみに眼目があるため蓄積には際限がないのである。近代は世界を形成する安定的な使用対象物が流動的な消費財に取って代わられた時代なのだ。会社は起業した一個人の生命を超え、延々と利益を追求する。労働プロセスはその主体を個から類へと置き換えられることによって限界を持たないことに成功する。過剰な生産によって出た余り物は徹底的に消費することが求められる。テーブルもパンと同じ速度で使い潰し、捨て、次を求める。使用を消費に転化することで、消費能力も限界を超えて伸び続ける。現代の経済において必要なのは破壊であり、たとえば戦争で焼け野原になることによって消費が伸びて経済が活発化するというのは日本の高度経済成長期のごとくである。すなわち、保全が破滅をもたらす———労働の価値転換という理論的要因、労働の肥大化という実践的要因以外にも、キリスト教による生命と世界の価値逆転現象が要因としてある。古代世界において個人の生命は可死的で、世界は不死的だった。その持続性ゆえに世界のほうに価値がおかれていたのである。その教義は世界の可滅性と人間の不滅性である。世界はいずれ滅びゆくのでそれと関わり合うことは無駄で、生命は此岸を離れ彼岸へ向かい永遠であるから神聖なものなのだ。

 人間は労働する動物となり、労働していないで他人の労働によって生活する者は人間ではないものとなった。われわれはみずからを労働へと駆り立て、賃金労働者になる道をみずからの意思で選びとる。さもなければ人間から脱落してしまうからだ。成立した労働社会において社会化された人間は自発性も複数性もない、すなわち受動的で無個性的な存在であり、機械的である。生命の必然性と動物の単一性が自発性と複数性をすりつぶしたのだ。この社会は生命維持をある程度保証してくれるが、人間らしく生きることを保証してくれるとは限らない。『人間』は『人類』という単一のものへ代わることが、アーレントの主著である『全体主義の起源』へと続いていくことは見やすい。

 

全体主義

 世界がどうなるかはおかまいなしに、自分と家族の私生活を守るためならどんなことでも犠牲にするメンタリティーを持った「正常」な人びとによって全体主義は担われている。公的な事柄への関心は失われ、私的な事柄への関心に満ちた人々は全体主義にとっては都合のよい画一的な存在である。複数性と自発性を失った人々はパブロフの犬のように、自分の意思ではなく鈴が鳴ったためになにかきまった反応を示すのである。

 強制収容所に入れられた人は特になにもしていないのにそこに放り込まれるという合理的連関のなさゆえに法的人格を抹殺され、死んだことをだれにも記憶されず死んだかどうかさえわからないがゆえに道徳的人格を抹殺され、そして複数性と自発性のなさは個体性の抹殺であり、この三ステップを通じて全体主義は完成する。全体主義の目的である全体的支配は、ナチズムにおいては人種を中心とするダーウィン主義的な自然法則の貫徹、スターリニズムにおいては階級を中心原理とするマルクス主義的な歴史法則の貫徹という究極的な目標があるが、人間の持っている複数性と自発性はその「必然的法則」にとって障害物である。なぜなら複数性と自発性を持った人間たちの動きはその法則によっては予測できないからである。

 人びとが全体主義運動に献身と忠誠を誓うのは、その運動に参加することによって、世界から疎外された自分が居場所を確保することができたように感じるからである。足場を失った者たちは拠り所なしに生きることはできず、彼らはイデオロギーに内包された演繹的論理の首尾一貫性、その虚構ではあるが確固たる世界に魅了される。労働する動物たち、大衆というものが社会全体に行きわたることは全体主義にとってぜひとも必要なものだったのだ(『活動的生』➡『全体主義の起源)。資本主義が生み出した労働する動物たちを地盤にして全体主義は芽吹き、彼らにとっての必然的法則を達成するために人々から法的・道徳的人格、個体性を抹殺するに至り、世界への信頼と希望は徹底的に破壊された———だが、出生性、すなわち新たなはじまりがこの世界から消え去ることはない。