機能的文脈主義とはなにか
アクセプタンス&コミットメント・セラピー(ACT)は、認知行動療法の一種である心理療法である。この心理療法は「機能文脈主義」という世界観を前提とする。
- 世界は要素で構成されているか? 部分的要素が実在し、それによって世界は構成されている vs 部分は実在せず、全体のみが実在する
- 世界は1つのストーリーで語ることができるか? 最終的に世界がある特定の状態に達する vs そうとは言えない
この二つの問いによって世界観は四つに大別される。そしてまず、二つにNOと答えるのが「文脈主義」である。正直、二番目の意味はとりづらいが、たとえば””この世は原子の運動です””などといえば、まさにこの問いにYESと答えることになる。つまりなんらかのものたちを基礎とみなし、その基礎はそれぞれに因果的関連があるために、それに沿って行きつく未来が少なくともある程度は決定されているだろうという意味だ。つまりなんらかの意味で決定論に関わっているのが二番目の問いではないだろうか。
文脈主義はこの二つにNOと答えるのだから、「世界それ自身のみが実在」し、かつ、「(決定論的と言えるほどの)因果はない」ことを主張する。そもそも実在しているのが世界だけなので、認識するもの/認識されるものという二分法の両項ともに実在していない。これの意味するところは、両項が独立して存在してはいないということである。ふつう、真理というのは認識されるものが認識されるとおりに世界のなかにたしかにあることなのだが、文脈主義においてはそのような規定には意味がない。ここには通常の意味での真理探究はありえない(ふつうの意味で「正しい」といえるのは世界そのものだけだから)。
二つの問いにYESと答える機械主義者は、世界というものを『機械』のように見る。一方、文脈主義者は世界というものを『進行中』として捉える。いままさに起こっていることは歴史を形作る新たな一歩なのである(あらかじめ定まった歴史があるとは考えない)。この直感的な世界観から生じる、特に重要視される「正しさ」というのは、各行為者が恣意的に設定したゴールへの貢献である。いま起きたことはそのゴールに寄与するかという基準で、正しいとか正しくないということを語るのだ。
文脈主義者はゴールを決めるだけでなく、世界のなかで分析ということも行うだろう。その分析は過去を振り返って「これがこうしてこうなった」という風にまとめるためにあるかもしれない。この『歴史家』のような分析を行う立場を、記述的文脈主義という。だがそのように形成した「歴史」が、首尾一貫はしているものの結局のところ個人的な見方にすぎず、完全な記述などありえないと自覚している点で、二番目の問いにNOと答える文脈主義者でありうる。
また、その分析の目的が事象を予測し、打ち立てたさまざまなゴールを達成するようにするためにこそ分析をするのが、機能的文脈主義である。彼らは分析のための分析などは行わない。その予測が的外れなものであろうが、ゴールさえ達成するうまい道具になっているなら別に気にしない。その分析の際に登場する「これがこうなって、ああなるから」という理屈は、「これ」も「こう」も「ああ」も、こっちが手前勝手に設定した便宜的なものであり、決して実在するとは考えない。それが正しいものであるかどうかはどのぐらいゴールに関与するかで決まる。
機能的文脈主義の哲学的位置は「形而上学的な社会構築主義」「徹底的行動主義」と重なる。形而上学的な社会構築主義は、(1)現実とは社会的に構築されたもの、(2)現実は言葉によって形づくられる、(3)現実はナラティブによって組織され維持される、(4)本質的な真実というものは存在しないという四つの前提を持つ。これは現実や、客観性、科学的知識の実在を否定する。また、徹底的行動主義は、(1)この立場における研究の対象は行動それ自体であり、行動を通して心とか意識とか認知とか脳を研究しているわけではない、(2)行動にかんするすべての出来事を、同一の理論的枠組みとできるだけ共通の原理で分析する、(3)行動の原因を、個体の内部にではなく、個体をとりまく過去および現在の環境のなかに求める、というスタンスをとる。
このことは言い換えれば、
機能的文脈主義は、ある問題解決に対して積極的に影響を及ぼし、その責任を負っていくという社会的構築主義の立場であると言えるだろう。しかも、そのような実証的なスタンスではあるが、研究者と独立に世界が先験的に存在するという認識論的な立場を採らない。さらに、機能的文脈主義は、問題解決や研究・分析における自らのゴール選択や価値といった文脈や機能に対して徹底的に自覚的であろうとする徹底的行動主義の立場であるとも言えよう。
機能的文脈主義における言語観
- 言語は単なるラベリングではない たとえばそのものの本質や属性に「犬」という記号をあてがうような、そんなものが言語ではない。
- 言語の成立は複数のヒトの間で生じる円滑な相互交渉を基盤としている
- その円滑さは、言語共同体のメンバーにおける相互交渉パターンの共有によって保障されている
- 文化的に規定された相互交渉のパターンを越える「円滑な相互交渉が新規かつ個別に生じる可能性」は常に存在する。それ故に、文化的に規定された相互交渉のパターンは変動する可能性を常に持っている
このことは行動分析学的に記述すると、こうなる。
- 言語も行動と捉える
- 言語行動とは、「同じ限度共同体に属する他の成員のオペラント行動を介した強化によって形成・維持されているオペラント行動。そして他の成員による強化をもたらすオペラント行動は、その言語共同体特有の行動随伴性のもとでオペラント条件づけされたものである」。
行動分析学には「行動随伴性」というものがあり、これを用いて円滑な相互交渉のパターンを記述しようとする。行動随伴性とは三項随伴性のことで、「弁別刺戟……行動……結果」という三項から成る。ここで重要なのは「行動……結果」のほうであり、この関係のことを「機能」という。
【事例】
ある発達障害の生徒が教室の壁に自らの頭を繰り返して打ちつけるという自傷行動を生起させると、必ず先生のうちの誰かが「ストレスが溜まっているのね、大丈夫よ」と言って肩をさすという対応をとっていた。そうすると、その生徒は、すぐに自傷行動を止め、先生に促されて席に着く。しかし、その先生が他の生徒の対応に追われ、その場を離れると、先ほど自傷行動をしていた生徒は再び自傷を始めるようになった。
自傷行動は言語行動である。その機能は先生からの注目を集めることである。言語行動とは他の成員の行動によっても支えられる極めて社会的な行動であり、先生から「のどが乾いたら手をあげて教えてね」と言われている生徒がコンビニで手をあげはじめても、そのコンビニにおいては言語行動になっていない。店員は「なにをしてるんだろう」と思うだけで何もしないからである。言語行動とは言語共同体への参加である。
この意味で、行動分析学においては一回限りの行動は分析の対象にはならない。何回も生起するからこそ、その三項がひとまとまりのものと見なせるのだし、分析もできるのである。