にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

MENU にんじんコンテンツを一望しよう!「3CS」

にんじんと読む「借りの哲学」 第一章

第一章 交換、贈与、借り

 「贈与」というものは基本的に「交換」を目指しており、未だ返さずの部分が「借り」である。高級レストランで奢ってあげたのにお返しがサイゼだったら損をしたと思うだろうか。ただ相手の経済力を考えるとサイゼでも十分だと思う人もいるだろうし、サイゼで食事なんてありえないという過激派もいるだろう。高級レストランでの奢りがそもそも以前やってあげた引っ越しの手伝いの借りを返す意味があるならば、返され過ぎたぶんとしてマクドで昼食でも借りを返せたことになるのかもしれない。

 かように、等価交換を目指すとはいっても数値化されていないのでズバリ的中させることなどありえず、しかも返した・返されたは当人の考え方にもよる。そうするとこのやりとりの公平性についてはいかに考えればよいのだろう。そもそも完全に借りを返したなどということがどうもありえそうにもないことを考えるに、交換という概念をもとに贈与や借りを説明した冒頭の文はむしろ逆で、あいまいな「借り」がどうにかなったという理想を思い描いたのが「交換」ではないのか。「交換」とは自由のために発明されたのではないか。

 実際、交換という経済活動は特に原始的な社会においてまったく自然なものではなく、むしろ交換を行わずできるだけ排除しようとするものさえあるほどである。そこではサイゼに対して高級レストランを返礼にするような、とても等価とは思えない(失礼)「どちらがより多くのものを与えるか」という競争的な贈与が行われる。そこではむしろ不均衡な状態を作り出し、相手との関係を維持することが目的となっている。借りがあるほうとないほうが順番にシーソーする関係は、一方が支配的ではなくむしろ台頭といえる。しかしすぐにわかるように、上述したような競争的な贈与社会においては遂には命まで差し出さなければならなくなり、困った事態が生じてくる。資本主義社会にみられる等価交換的社会を反省を踏まえれば、私たちはむしろ「贈与ー借り社会」で互いを信用した信頼のシーソーに乗るべきなのだ。

 

【メモ】

 交換から贈与と借りを説明するのはたいへんわかりやすい。やったぶんだけやってもらえるだろう、やってもらったからやってやろうというのは普通の感覚だと思う。そしてそれも基本的には「50vs50」を目途にしたことである。まぁ、だからこそ、返礼は小さくして利益を増やそうという考えも出てくるのだろうが……。これが最大になったものが返礼などしないという態度であり、協力という視点から見ても人間関係をぶった切るものである。

 これを二者間の関係ではなく広く世界法則としてみれば「良いことをしたぶん良いことが起こる」みたいな公平世界仮説になりそうだ。そう考えると、世界はそれほどよいシーソー相手ではない気がするし、支配的な関係の気もするが、そもそも自分も世界の一部なので「自・他」という単純な切り分け自体が間違いとも思える。飛躍し過ぎか。

 シェイクスピアがどうだの、政府の役割がどうだのということは一切割愛している。今の興味は資本主義にはなく借りにあるからだし、シェイクスピアはふつうにどうでもよいからだ。また「シーソー」という比喩はぼくが勝手に作ったものであり、「自分」と「特定の乗る相手」というニュアンスがあるが、故人に受けた恩など絶対に返せないものがあることを見るに返礼の相手は絶対に拡大される。だからこそついさっき「世界」というでかいことを言ったのだが、たぶんこれぐらいにはなるのではないか。著者に願うこととしては、神とか言い出さないでほしい、ということだ。

 単に二者間に限ったとしても、相手がシーソーで遊んでくれるかどうかは一見して自明ではない。たとえば会社の同僚など、道行くオッサンを思い浮かべてみれば、彼が協力的であるかどうかなどわかるはずがない。ゆえにフツーの(社会的・社交的な)人間は、挨拶や旅行のおみやげなど軽い贈与をかまして様子を見ているのだろう。挨拶やおみやげは試験紙になる。どこぞの天才は「挨拶は無意味です。本題に入ってください」みたいなノリでいるし、試し方はいろいろありそうだ。関係構築が目的なので投資という言い方は適切ではないが、ジャイアンみたいな【根はまっとう】というわかりにくいいい奴ではなくて【普通にまっとう】なやつを発見するためには人を試すような伝統的な行動も方法の一つではありそうである。ジャイアンもいい奴だろうと思うが、平気で殴って来るし横暴なので、映画ぐらいでしかマジメにならないやつと付き合うのは、わたしたちが人生でやりたいと志向していることに対して「時間の無駄」と感じるかもしれない。あなたはどんな風に相手を見極めるだろうか。