はじめに
資本主義が発展する以前の社会において、負債・借りをつくるというのは首輪をはめられるのと同じく、拘束され返せなければ相手の奴隷になるのと同じことだった。つまり「自由」を奪い、束縛したのである。しかし資本主義においては負債はすべてお金で片がつくようになった。だから人々はすべてしがらみから自由になるはずだった。ただ、お金がなければ負債は返せないし、結局のところ資本家に隷属することになっている。世の中にあるすべての負債や借りをお金に換算しようという試み自体がそもそも無理だったのだ。だが人はいまだにそこにしがみつき、結果、人びとの結びつきが弱く孤立したままでお金を求め資本家に隷属しながら昔よりはるかに大きな苦しみにあえいでいる(p16までの内容)。
私たちは遂に、自分ひとりでは生きていけないのだと気が付いた。アウグスティヌスの言うように、「私たちがもっているもので、人から受けていないものがあるだろうか?」。借りや負債というものは自由を奪い支配される危険性も持っているが、安心して借りを作れる状況であれば、たとえばよい家族のように、他者への信頼や互いの支え合いという意識が形成されてくるのである。
【メモ】
「借り」を感じる気持ちはほとんどみんな共有するだろうが、誰もがそうではない。人に何かしてもらっても当たり前と思っている人もいるだろう。というかそもそも、ほとんどのケースでそうだともいえる。電力会社に借りを感じている人が一体何人いるのだろう。自分の住んでいる賃貸マンションを維持管理してくれている管理会社や、清掃スタッフに借りを感じるだろうか。
いわば「借り勘」(責任感、と著者は言いそうだが)には恐ろしく幅があり、人智を越えたマックスレベルになると何をするにも一切、借りを感じている。なんでもよいからなにかを彼の意識のまな板にのせれば、たちまち「借り」をえぐり出してくるだろう。
目次から察するに、著者は生まれてきたことに借りを感じている相当な「借り勘」の持ち主である。しかも『神から与えられた才能は世のなかに返さなければならない』という節をもうけるなど、スパイダーマンに出てくるベンおじさんみたいなことを言っており(「大いなる力には大いなる責任が伴う」)背負っている責任感はスーパーヒーロー並みだ。注意して読まなければならないと思う。どうも海外の思想は持っている能力を使えと迫ってくるところがあるが、『ヒナまつり』のヒナやアンズたちのように超能力が使えても平和利用せずにフワフワ生きてるやつがいてもいいのではないだろうか。
「借り」という概念はきわめて重要だ。たとえば人間関係の基本は「ケア」「協力」にあると思うが、いくら自分が協力的でも向こうが借りを感じていなければ何にもならないからだ。そして自分自身も、いったいどこまで、どういう風に借りという概念と付き合っていけばよいかを考えておかなければなるまい。