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にんじんと読む「意識の自然」事象そのもの

「事象そのもの」とは?

 現象学の根本精神である「事象そのもの」とはなんなのか。どうやらそれは直観的に把握され、直接的に見ることができ、概念や命題や思念の起源であるらしい。しかし一方で、それを見ることは難しいとも言われる。現象学という語は一般名詞として広く使われておりフッサールはそれを徹底化させたものであると捉えていた。現象学的と呼ばれていたもろもろの雰囲気の中心にいたのは、マッハであった。彼は『感覚の分析のために』という著作を残しているが、そこには右目を閉じて左目だけで見たときの情景が描かれている。この絵の特徴は、ものを見る私が可視光線を受ける姿を客観的に描いたものではなく、まさにいま自分が見ているもの(かすかにうつる鼻先なども)を描いているということである。おそらくこれが<直接的に見る>ということの直感的な描写であろう。ただフッサールはこれに満足しなかった。:

[a]現出者や知覚的に措定されたものという意味での<眼前に見いだされるもの>と、[b]実的内在者や内在的知覚において触れつつ把握されるものという意味での<眼前に見いだされるもの>を区別しなかった

 aを現出者、bを現出と呼ぼう。具体的にはたとえば『正方形というものはたいていの場合等しくない角をもって現出せざるを得ない』ということである。正方形の天板をしたデスクは、私たちにはたいていいつも平行四辺形にしか見えていない。かろうじて正方形なのは真上から見たときだけであろう(本当に厳密に見るためにはわずかでも位置がずれてはいけないため事実上不可能)。このとき現出は平行四辺形であり、現出者は正方形である。このことはいわば、私たちは単に知覚する以上のことをいつもしているということになるだろう。完璧に純粋な知覚はありえない(現出だけの現出はありえない)。また逆になんの現出もないのに現出者があらわれることもありえない。

 マッハはこの区別をしなかった。われわれが見ているものはあくまでも現出者なのであって現出ではない(私たちの目に映るのはたとえば『食パン』であって、『白の周りに茶色がめぐっているなにか』ではない)。「事象そのもの」とは、「現出」との不可分な関係性のなかで捉えられたかぎりでの「現出者」なのである。