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にんじんと読む論文「フッサール現象学における認識と真理の問題」

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自然的態度と現象学的態度

 世界が存在するということを自明とする態度における「認識論」は、主観と客観のあいだの関係によって語られるだろう。主観が客観を捉える仕方を説明するならばそれは《写像論》にならざるを得ない。すなわち、客観は外側にあり、主観は内側にあり、この内側に客観の代理者が与えられる、というわけである。

 だがそもそも主観と客観をわけてその関係を問うと、そもそも主観が客観をそれほど正確に捉えているのかという問題が起きてくる。それを保証することは原理的に絶対にできないし、まず、客観というものが存在しているのかどうかさえもはっきりとは言えなくなってしまうのだ。

 それに、たとえば絵画が絵画として捉えられるためには単に紙や絵の具が見えていればいいわけではない。絵画とは色の集まりそれ以上のものなのである。これはたとえば、机のうえにある正方形の書かれた紙は、たいていの角度で平行四辺形として捉えられながら、それでもなお正方形として見られるのと同じである。すなわち単なる平行四辺形ではなく正方形、単なる色の集まりではなく絵画なのである。主観もまた正方形の構築に携わっているのだ。正方形が客観の代理者として与えられたとしても、そこで前提とされていた平行四辺形の知覚のほうはどうなのか。平行四辺形はどうやって与えられたのか。これを答えるために、写像論はまた写像を持ち出すしかない―――こうして無限後退に陥るのである。

 そこで主観と客観の問題は棚上げにし、先ほどの平行四辺形と正方形の関係についての観察に立ち戻る。正方形という「現出者」は平行四辺形という「現出」を伴って必ずあらわれる。くわえて、現出だけの現出はないのである。この二つの関係はすなわち、現出というものが既に現出者の現出という構造を持っていることを示している。現出が体験されるとき、これは既に現出者に関係づけられているのである。この体験を””志向的体験””という。わたしたちがなにかを観察することができるためには、志向的体験がなければならない。志向的体験によって構成されていない何かなどまったくない。

超越論的現象学における存在論と認識論

 あらゆる物事が志向的体験によって構成される相関者として解明される。だから自然的態度における、私たちにとってのふつうの世界は、あるがままの姿でその起源をあきらかにされ、回復されることになる。では先ほどの認識の問題に関して、どのような道がひらけることになるだろうか。

 客観、つまりどんな実在的・観念的・空想的・背理的……なものであれそれは志向的体験によって構成される。構成される以上、当然だが、それは手元にある材料から構成されたものである。ものごとは経験を重ねることで詳細な規定を受けることになっていくが、しかしいまこうして構成されている以上、最低限の大まかな規定は少なくとも受けているはずであろう。私たちは、常にすでに、世界を形成してきており、その世界のなかでは犬が犬として、松の木が松の木として存在している。あれは犬であり、猫であることが知られている。こうしたことをもとに、どんなものも規定を与えられ、構成されてくる。客観と主観のあいだにあるように思われたミゾは、「客観」というものに絶対的な外部という地位がないことを確認してしまえば、もともとそんなものはないことが明らかになる。

 では「正しく」構成するとはどういうことだろうか。

 自然的態度においては主観の内側の写像と客観が一致することが、すなわち真理であった。だが一致しているかどうかなど保証できず、ここには原理的な謎が残ってしまったのだった。ミゾの埋め方からすると、現象学において真理とは、正しく構成すること、であろう。だがいったい、どうやってそんなことがわかるのか? これはたとえれば「調和」であり、なにかが偽であるというのは受けた規定に不調和が生じるということである。

 このような真理観は《真理の整合説》=「ある主張が真であるとは、適切なかたちで整合的で包括的な信念の集合に含まれるということ」(にんじんと考える「真理とはなにか」🥕 - にんじんブログ)を彷彿とさせる。しかし整合説とは異なる。なぜなら整合説は自然的態度と同じように絶対的外部としての世界の存在を暗に前提しており、これにすっきりと合う信念体系を想定するからだ。だからこの体系とこの体系はどっちのほうが真理なのか、などといったことを問い始めてしまう。だが現象学における真理は、調和的にそのつど確証されるが、常に不調和になる可能性に開かれている。最終性を持たない。その対象把握を撤回する可能性を本質的にいつも排除することはできないのである。どれほど自信満々に、どれほど証拠が積み重なろうとも、原理的に、経験が進んでいった先でどうなるかはわからないのだ。

 志向的体験とともに、その現出者はなにがしかの規定を与えられていく。「コレは~だ」「コレは~だ」という風に。これらを「コレ」という同一物に関する規定にするものとして働いている志向的体験もまたあるわけで、現象学では「同一化綜合」と呼んでいる。ここでまとめあげられているところのコレという項が「対象」と呼ばれる。このように対象を定義する仕方は、個々の名前と世界の対象が関係を持つような通常のやり方とは異なっている。さて、あるものに対して何度も言及できることは当たり前である。だが、この反復こそが、対象を同一者として成立させるものなのである。つまり反復可能性がなければ対象にはならない。(経験の構造―フッサール現象学の新しい全体像