以前から紹介している「人類史のなかの定住革命」に関する記事を統合しようと思っておりましたが、考えていることのメモも兼ねて、いつもの日記(エッセイ?)風に書き残しておこうと思っています。
そもそもこの本を知ったのは、おそらくほとんどの人がそうであるように、暇と退屈の倫理学(新潮文庫)でした。暇と退屈の起源を求める形で立ち寄った本ではありましたが、なんだかんだと何度も戻ってきています。それはホモ・サピエンスというものの「自然な」生き方に関わるものだからでしょう。この「自然な」という言葉は最近の流行りで、ある分析によると2011年の東日本大震災からこのような志向が爆発的に増えたのだとされております(「くらし」の時代: ファッションからライフスタイルへ)。ライフスタイルとして「正しさ」が重視されている、というのは裏を返せばそれはひとつの選択あるいは趣味にすぎないのですが、できる限り体に負担をかけないように身体にあった生活をデザインしようというのは理解できることです。オーガニックや、ゆるい意味での菜食主義もその一環ともとれますが、ヴィーガンともなると多少行き過ぎているように感じます(肉食の哲学)。
さて、人類というのは樹上生活を終えてものすごく長い間遊動生活をしていました。この本の主張するところ、「定住というのは余儀なく行ったもの」なのです。
「定住したくてもできなかった」と考える根拠として赤沢は、人類の直立二足歩行、道具使用、育児をあげ、これらはいずれも定住生活においてこそ有効におこなえるのだと言う。 われわれ定住民の引越しや育児の体験をふまえて、移動生活では道具や幼児は邪魔物であたという彼の主張はともかく、一般には、遊動民の素朴な経済システムでは定住することが不可能であるという判断がある。 しかし、それだけを言うのはナンセンスであろう。なぜなら、反対に、定住民の経済システムによって遊動生活のできないこともまた明らかであり、 それを根拠にして、同じように、「この一万年間の人類史は、遊動したくともできなかった歴史であり、その間人類は定住生活を強いられてきた」と言えるからである。
遊動生活の根本精神は「回避」にあります。あらゆる困難を移動によって回避し、ほとんど立ち向かうということをしません。食糧がなくなれば食糧があるところに移動し、ゴミが溜まればゴミがない場所に移動し、だめになったらだめじゃない場所に移動し、「逃げ」の一手ですべてを解決します。一方、定住社会はどうしてもそこにいなければならず、困難に立ち向かわなければなりません。
遊動生活か定住生活かというのは「生活様式」の研究であるといえます。それは個々人の生活史ではなく、社会の動きです。私たちは生活様式に影響され、自らのライフスタイルを決定します。社会が定住的である以上、そこに住まう私たちもそれに合わせる必要があります。
ライフスタイルはまさに個々人の生き方であり、生き方とはいかに生きるかということであり、根本的には生きているということの表現です。生き方はハウツーではなく、まさに「生活」と同義語です。そしてどういう風に生活するかというのは、なにが「よい生活」であるのかという問いでもあります。