論語というのは、
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学而第一の第一章はこのようになっております。
子曰學而時習之不亦説乎有朋自遠方來不亦樂乎人不知而不慍不亦君子乎
孔子が言った。学んだことを復習するのは喜ばしいことだ。
友人が、遠くから訪ねてくれるのは楽しいことだ
他人に理解されなくても気にしないのは立派なことだ
要するに「勉強する」とどんどんものがわかる。ものがわかると人が集まる。学問というのは己の人格の完成のためにするものだから、他人に理解されなかろうと心を動かさないのは君子だね、という意味なのです。
ところが、この「習」という言葉を本当に「復習する」としてよいのかいう話を出していたのがこの本です。
為政第二の第十五章は次のようになっています。
子曰。學而不思則罔。思而不學則殆。
ただその事を学ぶだけで、その理屈を思索しなければ、心がくらくて何も悟りうることはない。ただその理屈を思索するだけで、そのことを学ばなければ空想にすぎないから、危うくて不安を免れない。
要するに学ぶだけでは駄目だということを言っているわけですが、学而第一第一章によれば、学んだことを復習してしまっている。どうだかも飲み込まないままに復習して、定着などさせてしまっていいのか? という違和感があるのです。
そこで学而第一の第四章にある、
曾子曰吾日三省吾身爲人謀而不忠乎與朋友交而不信乎傳不習乎
私は毎日次の三か条について己の身を反省する。他人のためにことを計った場合に真心を持ってこれに当たらなくはなかったか? 朋友と交際した時不信の言行はなかったか? 先生から教えられたことをよく習熟していなかったのではないか?
から、習の意味を「身に着く」ことだとして、学而第一第一章の意味を、
何かを学んで、それがあるときハタと理解できて、しっかり身に着くことはよろこびではないか。
と訳していました。
にんじんとしても、この解釈のほうがすんなりと理解できます。
己に如かざるものを友とするな!?
学而第一第八章は次のようになっています。
子曰。君子不重則不威。學則不固。主忠信。無友不如己者。過則勿憚改。
先生がいわれた、「君子はおもおもしくなければ威厳がない。学問すれば頑固でなくなる。忠と信とを第一にして、自分より劣ったものを友だちにはするな。あやまちがあれば、ぐずぐずせずに改めよ」
ここで気になるのはどうしても次の言葉になるでしょう。
己に如かざる者を友とするな……? もしこれが正しいとすると誰も友達ができなくなります。何故なら下の者はもちろん友にできないし、上の者は下のあなたとともだちにならないからです。
解釈を変えることですんなりと通る意味になるようです。
たとえば万事如意とは「なんでも意のまま」という意味です。このように「如」を捉えることで、
不如己者
を
己のままならざる者
と解釈できます。自分を飾り立てていない=己のまま、ということです。
たとえば学而第一第三章には
子曰巧言令色鮮矣仁
孔子が言った。言葉巧みにお世辞をいい愛想笑いの上手い人に人格者はいない
とあります。論語は繕うような人に良い評価を下しません。
要するに己に如かざる者を友とすることなかれというのは「自分を飾り立ててありのままでいないやつを友達にするな」という意味です。大変筋の通った解釈だなと思います。