にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

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いろいろな問題圏

 生活上の主な困難は金銭によって表示されることが多いようです。

 たとえば食事に気を付けるというのも、お金というものをいくらそこにあてるか、という観点で為される。栄養がたくさんほしいならたくさんお金を払わなければならないからです、一般には。それを「いや、これでもいけるよ」とするのが節約です。しかしまぁ、節約というのも生活を金銭で表示しようとする点ではそう違いはありません。生活上の必要だとか、仕事との兼ね合いだとか、将来の計画といったところから見れば、数値で表されるのは大変便利です。来月は〇万円かかるからまぁ黒字だなとなんとなく平穏に暮らせる目処がたちます。蔵に食事を貯めこんで来月は大丈夫だろうと思うのとは随分な違いです。

 そうとはいえ、表示しきれない問題もあります。朝ランニングをするとか、習慣ですね。時間の配分です。「時間の配分」という観点からすれば、仕事もそのひとつなわけで、どの程度を出稼ぎに充てるか、だとみれば、生活上の問題の対応はすべて習慣を決めることだといってしまってかまわないことになります。目標額を手短に楽に稼げる仕事が「割りのいい仕事」とみなされます。

 

 まず第一に、目標値を定めることがあって、

 それから第二に、どのように割り振るかということになります。第一の問題のほうが根源的であって、第二の問題はまさに二次的ということになります。というのも、ドラクエでいえば「ステータス値」の配分が第二のものであって、そもそもステータス値として何を定めるかという開発者側の気持ちが第一のものにあたるわけですから。その人の価値観によっては攻撃力なんかさっぱり頭にないようなこともある。

 

 ではどんなステータス値を設定すべきなのか、と問わなければならなくなります。それこそその人の生き方に関わる問題ですから、別に周りがとやかくいうほどのことでもありません。食費とか家賃とかそういうのはいるだろうし、ある程度健康的な習慣もほしいところです。体調というのは「感じ」ですから測定は難しいですが、点数制とかにすればなんとかなるでしょう。

 私たちは何を気にすべきなのでしょうか。にんじんは以前、目指すべき場所は「心地よく住まうこと」だといいました。ここは安全であるとそう感じられるようなものです。ここは自分の居場所だ、ここは絶対に安全である、心地よい、そんな場所を作るために、日々の環境に対応しながら住まいを建てたり壊したりしていきます。これこそが絶対完璧な家だという家はありません。

 体調不良になった、つらい、だから健康的な習慣を組み入れる。

 お腹が空いた、こまった、だからもう少し食費を増やす。

 お腹が空くなんて考えなくてよかった頃は誰も食費について云々しなかったでしょう。「あなたにとって今なにが大切ですか?」と絶えず訊かれている感じです。一定の答えは出せそうにありません。大まかにいって「娯楽(教養)」「健康」「人間関係」のみっつでしょうか。何を重視するにしてもこれの下位概念になることでしょう。

 にんじんはいま健康について色々考えています。

 

 

生きられた〈私〉をもとめて: 身体・意識・他者 (心の科学のための哲学入門 4)

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人間関係

 人間関係というものは非常に複雑です。濃い対人関係は、お互いを気遣い合うもので、「自分の代わりに自分を気遣ってくれる」というあたりがわたしたちの「安全であるという感じ」に寄与してくれます。

 しかし一方で、その人間関係において傷ついたり、行き過ぎる場合は殺したり殺されたりします。人間関係の構築と維持、そして崩壊した場合の対処など、ともかくいろいろ面倒なのがこの項目です。『家族』というものが安全地帯として与えられている人も、そうでない人もいますが、やはりそれが安全地帯であるというのは大きなアドバンテージでしょう。なにしろ、生まれてからギャンギャン泣いてるあいだに色々なことが構築されてくるのですから努力がいりません。まぁ下手こいたら崩壊しますが、よほど下手こかないと大丈夫でしょう。

 人間関係は安全と危険が同居しているようです。同居というか、最終的には良い関係に至って心地よいのですが、それに至る道のりたるや尋常な面倒くささではありません。しかも人によっては、どうしても合わない人がいます。せっかく大冒険を繰り広げたのに、たどりついたら壁でしたという骨折り損もあります。すべての人間に対して親密になる道は必ずあると主張してもいいのですが、困難すぎて「割に合わない」ケースも多いでしょう。そういうことも含めて、人を見る目、言い換えれば、人を見限る技術も必要になってくるでしょう。「オタクって気持ち悪いよね~」と話されてたらオタクであるわたしたちは「そんなことないお(^ω^)」と言いたくなるかもしれませんが、彼ら彼女らはそうやってバッサリ切っていくことで無駄な時間を割かないようにしているのだと考えれば合点がいくでしょう。みんなわかっているのです、そう悪くない人もいるということは。でもそうはならないのです。

 たとえば宗教勧誘のおばさんと仲良くなろうと思わないでしょう。「あいつら全員危険だ」といったら暴言になりますけれど、実際のところは、多くの人が避けるところです。というか家に来ないでほしい。そりゃ一般的にみんな危険だとはいいませんけど、なるべくなら安全な人と関わりたいじゃないですか。

  •  人をバッサリ切らない人、
  •  人をバッサリ切っていく人
  •  バッサリ切っていいものか悪いものかくよくよしてしまう人。

 おおまかに三種類いるかと思いますが、精神的な安定からすればバッサリ切っていくのは楽です。「あいつは煙草を吸っていたからカス」と真顔で言う人もいます。切り方がまな板に包丁を突き立てるほど豪快なので刃が折れそうなほどです。

 ただ、この中でもっとも心配なのは「くよくよしてしまう人」です。一般的にはそう言えないよね、という「正しさ」がありつつ、でも「普通はそうだよな~」というどっちつかず。大変気持ちが分かります。

 で、バッサリ切らない人。これは警戒心が足りないとバッサリ言い切ってしまえるかもしれません。

 

 それで次は「どんな人切りますか?」という話になる。切る人に対しては切る人なりの対応も必要ですが、それよりもまずは対象をぼんやりと把握しておかないといけません。どんなひと、切りますか? あなたの友達はどんな人を切っているでしょうか。案外話し合うとお互いに「わかる」となるかもしれません。なにしろ、あなたは切られなかったわけですからね。そして、そんな話ができる友達は大切にしたいところです。

 

幸福について (光文社古典新訳文庫)

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 人間関係についてもうひとつ指摘できる点といえばコレです。:「自分は気遣われたいが、人は気遣いたくない」 これはみなさん、同意してくれることだと思います。濃い人間関係というのは持ちつもたれつなのですが、これをしたくないと考えてしまう。無論、そんな人と誰も関わりたいと思わないのである程度はやるわけですが、得か得じゃないかとか言っていると人間関係ほどハイコストなものはないわけです。

 ちょっと迎えに来て~ と言われて、ハイハイしょうがないな、と思えるでしょうか? 人による? まさにその通り、人によるでしょう。その人がいけ好かないやつなら死んでも迎えに行きたくないもんです。「金くれるなら行くけどね」

 

 人間関係がハイコストなのは、別にしてやっても、し返してくれるとは限らない点です。お互いに気遣うことが大事なのですが、向こうがどうするかなんてわかりません。そこで、し返してくれる人を見抜こうとする。さきほど人を見る目という話をしましたが、結局のところこれが一番大事な要素なのではないかと思えます。

 こういうと、返礼が欲しいからしてあげるなんて、と非難されるかもしれません。にんじんとしても、向こうがそんなつもりで何かしてきたら嫌です。でも一切リアクションがなかったら? 別にモノをねだっているわけではなくて、リアクションが大事なのです。もちろんなんにでも限界はあるわけで、そいつのために地球の裏側までとんでもないミッションをこなしに行ってやったのに「ども~w」だけだったら殴りたくなるでしょう。そういう境目を相手が理解してくれているか、そういう垣根がわかってるやつか、というところも見抜かないといけません。あぁ難しい。

 持ちつ持たれつのシーソーをしっかりやってくれるか?

 これは非常に大事な要素だろうと思います。