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(二回目!)にんじんと読む「依存的な理性的動物(アラスデア・マッキンタイア)」🥕

第一章 傷つきやすさ、依存、動物性

 〈傷つきやすさ〉とは、ヒトがその人生のさまざまな場面でさまざまな能力の阻害に苦しめられがちなことをいう。傷つきやすい我々は他者たちの力を借りなければ生きていくことができない。この二つの事実は明白なことで、もし信用ある倫理学を作ろうと思うならこのことを考慮しなければならないのは間違いない。

 しかし伝統的な学説のほとんどは傷ついた人を倫理的行為の対象として扱い、あたかも行為者はトラブルに見舞われたことがないようでさえある。そして傷つきやすいという事実を無視することによって他者に依存しているという事実さえ無視することに成功したのだ。

 もしこの二つの事実を正当に扱う倫理学を作るなら、まずこの二つの事実を不当に扱おうとしてしまう私たちの心の習慣を改めることから始めなければなるまい。わたしたちはもしかすると、自らがヒトであることを忘れているのではないかと、こう思われるのである。人間である以上どうしても直面する二つの事実に目を向けられないのは、自分自身に対する理解が欠如or拒否しているからである。そして自分自身に対する理解ということで最も欠如していると思われるのは、人間がヒトであるということ、つまり動物性である。人間は自らが動物の一種だということを忘れ、まるで他の動物とは違うまったく別個の特別な生命だと考えてきた。

 我々に与えられた課題は次のようなものである。

  •  「私たちヒトというものは他の動物とはどこが同じで、どう違うのだろうか?」という問いに答えること。
  •  これまで論じられてきた〈自立した合理的行為者の徳〉が適切に発揮されるためには〈承認された依存の徳〉を伴わなければならないということを示すこと。
  •  そのような二種の徳が維持され受け継がれていく社会集団とはいったいどのような姿をしているかを示すこと。

 

 

第二章 動物という類に対比されるものとしてのヒト、その類に含まれるものとしてのヒト

 ヒトは他の動物とはまったく違う特別な存在だと信じたがる傾向がある。

 思考し、概念を形成・使用する能力といったようなことは言語と必然的な繋がりがある……というような哲学はこれを後押しすることとなった。ヒト以外の動物はこの意味で必要とされる要件を満たすような言語を持たないので、ヒトがもつような能力もやはりないだろうと推論されるのである。

 この議論はヒト以外の動物が知覚や感情を持つことを否定しない。そのことは広く共通している認識である。しかし、ヒトと動物のその類似性(いわば””思考以前””)が、ヒトをより適切に理解するうえで重要だとはなかなか考えられることがない。伝統的に「理性」ということに重きがおかれ、実践的な知については長い間触れられずにきたからでもあるだろう。

 たとえば、まずは他のヒト、つまり他者について考えてみよう。他者を理解するにはどうすればいいだろうか……こう問われたとき、思わず、その人の振る舞いから「推し量る」のだと言いたくなる。けれども推し量って他者を理解するというのはきわめて特殊なケースだし、しかもそうした特殊なケースにおいてさえも、われわれは「推し量る」以前の知識が必要となっているのである。

 次にイヌとトレーナーのつながりについて考えよう。「お座り」といってこちらの意図する通りのポーズをイヌがとれたとき、エサなどを与える。そしていつの間にか、イヌはトレーナーの意図を読み取るようになり、淀みなくそのポーズをするようになっていく。また、イヌのほうでも自分の意図を伝えようとすることがある。玄関に近づき落ち着きなくパタパタ歩いたり、リードのほうをじっと見たりする。最初はなにかわからなくても、あぁ散歩に行きたいんだなということがわかってくるものだ―――もちろんこれらのことは、「ご主人が座れといっているワン」だとか「散歩に行きたいワン」などと言う風に通じ合うわけではない。相手のそうしたことに、こう反応する……そんな前言語的な認知が働くようになるのだ。

 

 

哲学探究

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第四章 言語をもたない動物は信念をもちうるか

 動物は考えるということがないように思われる。しかし、たとえば犬が猫を追いかけていて、その猫が木の上に上がったとしよう。このとき、犬は「猫が木の上にいる」と考えているようにも見えるだろう。でもそうではない。動物に対してたしかにそのような言い方をすることがあるが、別にこれは犬がそういう命題をいま組み立てたとか考えついたとか言っているわけではない。考えをもつということが、内心である命題を把持することと同一視されるなら、命題は言語で表現可能なものだろう(でなければ、どうやって命題を把持(持っておく)のか)。だから命題を組み立てたり、命題に依拠して行動することは、言語がなければ叶わない―――しかし、このように言うことは許されると思われる。犬は「猫が木の上にいる」と信じている、と。

 このことを認めたいと思うが、動物が信念を持つことについて懐疑的な議論が4つもある

  • まずドナルド・デイヴィドソンによるものだ。彼によれば、ある生物に信念を帰する作業はその生物の発言を解釈する作業と一体で進められなければならない。たとえばある人の目の前にリンゴとナシを差し出したとしよう。彼は右にあるナシを手に取った。ここで注意したいのは、彼が一体なにを選択したのかは、いろいろありうるだろう。たとえば「右」だからナシをとったのかもしれないし、「黄色」だからかもしれないし、「高価」だからかもしれない。もちろん「ナシ」のほうが好きだったのかもしれない。すべての選択というものはある文が他の文より真であるという選好を明らかにするものである……これを認めるならば、その他者の信念だとか欲求を分析する作業と、解釈の作業は不可分なものだということがわかる。よって言語をもたない生物には明確な信念だとか欲求だとかを持っていると断じるに足る根拠をわれわれが挙げることはできない。
  • さらに、<信念という概念をもちうる>のは、ある言語共同体のメンバーとして他者たちに種々の信念を帰することによって発言を解釈している場合だけである。それゆえ、言語をもつものだけが信念という概念をもちうる。さて、「信念という概念を持たない生物」は信念を持つことはできないだろう。誰かが信念を持つのは、真な信念と偽な信念の違いを理解している必要があるからだ。というのも、その信念が間違っている可能性があることを理解していないのに、信念を持っているとはいえないだろうから。
  •  ふたつめはスティ-ヴン・スティックによるもの。犬は猫が木の上にいると信じている、と言うことはよくあることだが、それは本当に犬が信じていることなのだろうか。たとえばそれがリスだったとしたらどうだろう。また、単なるボールだったら? 猫に対する反応とまったく同じ反応をもたらす生物はいくつもありうる。とすると、「猫」に関する信念を犬に帰してしまうのは問題だ。これは「木」にも言える。ヒトの場合にこれがうまく解決するのは、「猫」や「木」というものの適用が、共同体による使用によって決定されているからだ。サッカーボールを猫だと言っていたら何を言ってんだといわれるだろう。だから犬のように無限の論理的可能性に悩まされることはない。
  •  最後はジョン・サールである。われわれが「あいつは信念をもつな」と言うことができるならば、あることを信じている状態とそれ以外の状態(単に想定しているだけ、推測している、仮説をたてている状態など)を区別できなければならないはずだと彼は言う。そうした区別を適用できるのは自分自身でもそういう区別をなしうる存在者だけだ*1。そして言語をもつ存在者だけが区別できるのだから、言語をもたなければ区別なんてできないのだから、言語をもたない存在者に信念という概念を帰すことはできない。

 デイヴィドソンによる二番目の議論は、真か偽かを反省するためには言語が必要だという。このことはまったく正しい。しかし真か偽かを区別するのに言語は必要ない。真と偽の初歩的な区別は、たとえば猫が木から飛び降りて向こうの方へ走り去っていったときにあらわれる。犬はもはや木の上を見上げなくなり、走り去ったほうへ駆けていく。犬は知覚にもとづいて信念を訂正しているのだ。もはや犬は猫が木の上にいるということが真ではないことを理解している。真理の前言語的な区別である。この区別はヒトにもあり、むしろそれが基礎的だといえる。もしこの区別がないならば、真とか偽とかいう言葉自体、そもそもどう使えばいいのだろうか。だからむしろヒト以外の動物たちを「非言語的」というよりも「前言語的」と呼ぶのが適切だろう。

 

 それ以外の三つの議論は、言語をもたない動物が信念をもたないことを証明できていない。幼い猫がトガリネズミに遭遇したとき、彼で遊んだり、時には食ったりすることがあるがそうすると猫は病気になる。病気になった猫はトガリネズミでは遊ばなくなるが、他のネズミでは相変わらず飛び掛かったりする。トガリネズミとそれ以外のネズミの区別がついているのだ。もちろん、デイヴィドソンやスティックの指摘の通り、「トガリネズミ」「それ以外のネズミ」とわれわれがいうような仕方で、猫がそれらをそのように区別しているわけではないだろう。しかしたしかなことは、たとえおおまかにでも猫の信念をわれわれのものにマッピングすることができるし、信念を訂正していくありさまを観察することができるということだ。ネズミという言葉以外にも不明確な点はいろいろあるが、それをひっくるめても、「信念を持たない!」と証明できたことにはならない。それに不明確な信念というならヒトももつのである。なにかの状況をなぜか避けてしまうというようなことを、自らのうちに見出すことが誰しもあるだろう。

  ここで示唆されたことは、

  •  すべてはないにしても、ヒト以外の動物が抱いている信念を私たち自身の信念の上にマッピングすることができるということ。そうすることができるのは、ヒトが行っている知覚的な認知や同定や再認や分類を、ある程度までそれらに対応することができるからだ。
  •  知覚的な探求や注意と言うものは、ヒトにおいて果たしているものが、ヒト以外の動物において果たしているのと同じ役割をしている。

 ヒトとヒト以外の動物は非常に似通っている。第一に、犬が、われわれのいうところの「木」の上にいる「猫」を眺めているときのように、不明確な信念をもつということ。反省的な思考が伴わないとしても、ものや動物たちとの相互作用がある一定の形をとるようなしかたで私たちの身体は動き、その動きを通して、一連の信念に表現を与える。第二に、言語的な諸能力を獲得する以前の認知・識別・知覚的な注意力はヒトとヒト以外の動物とで同種なものである。それらは別に、ヒトだけに特別なものではない。

 

 

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第五章 ヒトではない動物の世界はどのくらい貧しいのか

 ヒトとヒト以外の動物との間に截然とした境界線を引いたのは、ハイデガーも同じである。彼もまた「言語」をその際の中心とするのだが、これまでの分析哲学者たちとは異なり、彼が問題にしているのは〈言語自体の成立を可能にする概念化能力〉である。そしてわれわれヒトだけが有するその能力は「として構造as-structure」である。

 トカゲが岩の上にいるとしよう。トカゲは何らかの形で自分の下にあるものを意識しているであろう。しかしハイデガーによれば、トカゲはそれを「岩として」は見ていない。ヒトであれば、個々の存在者はその時々の場面でそうであるところのものとしてあらわれる。たとえば窓はふつう日光を部屋に取り入れたり換気をしたりするものであるが、時には鈍器として機能することもある。存在者とはそのように現前するものであるのに、トカゲの前には岩は現前しない。トカゲにとって岩は存在などしておらず、少なくとも動物はきわめて貧弱な世界に生きていることになる。

 たしかにハイデガーのいうことも部分的には正しい。たとえばマダニは木の上にのぼり真下に通りかかった恒温動物めがけて飛び降り、やわらかい部分を探し、吸血行動に移る。しかし彼らは「木」でなくてものぼるし、通りかかった「動物」のことも意識していない。なぜなら匂いに反応して、つまりある化学物質に反応して飛び降りるだけで、実は相手がスポンジでもなんでもよいからだ。また、ハチについても同じようなことがいえる。通常ならば蜜をたっぷり吸いこむ彼らは、蜜をおいしそうに飲んでいるように見えるし、満腹になったら飛び立つのだと思える。しかし腹を割いて漏れ出るようにしておくと、ハチはいつまで経っても吸い続け、違和感を覚える様子もないのである。自分の腹のことすら気にしていない。

 ハイデガーが犯したあやまちは、彼が動物について考察するうえで選択した具体的な種にある。それらだけで、ヒト以外の動物全体について結論を急いだのだ。われわれがよく知るイヌなどについて、彼は触れていない。イヌはわたしたちを、時には「遊び相手」として、「餌をくれる」人として、意識しているように思われる。

 

 これまで述べてきたことにくわえて、主張したいのは次の事である。

 生まれたばかりの私たちがこの世界に対してとる身体的なふるまいの全体は元来、動物としてのふるまいにほかならないということ。また、その後、私たちが言語使用者になることを通じて、両親やその他の人々の指導の下に、当初自分がこの世界に対してとっていたふるまいを編成し直したり、より精緻なものにしたりすることができるようにあったあかつきにも、あるいは、新たなしかたで信念を修正したり、諸活動の方向性を修正したりすることができるようになったかつきにも、私たちは自分の動物的本性やその遺産から自己を独立させることはけっしてない

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美徳なき時代

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第六章 行動の理由

 アンソニー・ケニーはヒトではない動物がみずからの行動に理由をもちうる可能性を否定している。そしてこれもやはり「言語」という区切りによるものである。ケニーは言う。「彼は言語をもたないので、理由を述べることができない。そして、理由を述べることができる存在だけが何かを理由に行動できる」

 理由をもつと呼ぶ以上、それは機械論的なものでは困る。ある動物がエサを求めて近所の優しい婆さんの家を訪れる時、彼らは「あいつはエサをくれるから」という理由を持っているようにも見える。しかし、かの動物は自発性をもってそうしているのだろうか。言語をもたない彼は、判断力を持たない―――みずからの判断に対して判断を下すことができない、みずからを行動に駆り立てるものの価値をはかることができない。そして判断力をもつことは、合理性と自発性をもつことのしるしであるように思われる。

 判断力をもつことによってヒトに備わっている自由をトマス・アクィナスも認めていたが、彼の場合はケニーとは異なる結論に達した。ヒトではない動物も何らかの方針に従って行動しているし、何かが自分にとって都合のいいものかわるいものかを経験から学んでいる。こうした学習能力によって、彼らは「自然的判断」と呼びうるようなものをもつのだ。推論能力はもたないとしても、行動についての理由は有していると認めても良い……。

 

 ケニーの過激な結論に対して、アクィナスの結論は穏やかである。ケニーはアクィナスと同様に判断力をもつためには言語が必要であると考え、ヒト以外の動物は言語をもたないので行動に理由などないと断定した。一方でアクィナスは自然的判断を言語をもたない動物たちに認め、理由があるといってもよいとした。われわれが身を寄せるのはアクィナスの結論である。

 これが重要なのにはいくつか理由がある。まず、たとえばヒトの場合であっても、なにか理由について反省するとき、反省すべき対象を有していることが前提となっている。明示的に示していないとしても、理由を把握しているのだ。もしそうでなければ、反省の対象として、俎上にのせることすらできないだろう。そして複雑な言語を駆使することができるようになってはじめて、合理性への移行に向けた出発点に立つことができる。

 多くの論者はヒトとヒト以外の動物に連続性を認めなかった。だから生まれたばかりの子どもが理性的動物になっていく過程をうまく説明できない。動物にもいろいろあって、あるグループにおいては知覚や反応が非常に粗く、行動に理由があったり信念があったりとを認めたがたいか、認められないものたちもいるだろう。動物と環境との関係性にはさまざまな種類のものが存在し、その動物がどのスケールに位置しているかによって行動の説明も異なって来る。

 ウィトゲンシュタインは「もしもライオンがことばを話せたとしても、私たちは彼のいうことを理解できないだろう」と述べている。ライオンに関するこの問題は、おそらくいまだ議論の余地があるだろう。だが、私はイルカについては、次のようにいえるのではないかと強く感じている。すなわち、彼らのコミュニケーションの方法は私たちのそれとは非常に異なっているのだが、それにもかかわらず、もしも彼らがことばを話すことができたなら、こんにちイルカの活動の解釈に取り組む人々のうちもっともすぐれた人々の幾人かは、彼らの話を理解できるだろうし、これまでもできていたであろう、ということは真実であると。

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思考する動物たち―人間と動物の共生をもとめて

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*1:これはちょっとよくわからない