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にんじんと読む「老荘思想――中国的世界観(森三樹三郎)」🥕

長谷川如是閑の『老子

 長谷川如是閑が書いた『老子』は、老子解釈の原点をおさえている点で注目に値する。

 老子とはそもそも実在が疑われるものであるが、明らかなことは、それが儒家孔子の思想に対するアンチテーゼとして成立しているということである。【「だから時間的にも孔子が先で老子が後のはずである」】

 儒教老子の対立は、中国社会の根本構造をめぐっての見解の相違にはじまる。もともと中国という国は「里(り)」と呼ばれる村落共同体のうえに、より大きな政治形態を形作っていた。中国国家は人民の生活や産業に保護や指導の政策などしておらず、もっぱら収奪だけをしていた。だから村落共同体は自分たちで自分たちの共同体を治めなければならなかったのである。ところが戦国時代になってその国家秩序が崩れ始めたとき、儒教は国家形態に、老子は村落自治体に、理想的社会形態を見た。

 周国初期の封建制度が崩れ、戦国時代をまたぎ、春秋時代になると周のなかに1700ほどもあった国家の数は1/3になってしまった。亡国に仕えていた官吏はすべて失職した。こうしたいわゆる失業者はすべてインテリであり、こうした大量の失業インテリが大きく分けて二つの群にわかれたのである。一つはふたたび政治参加しようとしていたものと、一つはそうしたものの望みを絶って批判的態度をとろうとするものである。前者が孔子であり、後者が老子である。

 村落自治体に理想をもつ老子であるが、それを束ねる国家を必要としなかったわけではない。無政府主義ではなかったのだ。しかしその大国家は、すべてをわかったうえでまったく何も干渉してこないようなものである。その大国家は自然のままの生活が保たれるように配慮はするが、その存在すらよく知られていないほど存在が希薄である。

「国土は小さく、人口は少ないのがよい。たとえ文明の利器はあっても、用いさせないようにするのがよく、民には生活を大切にさせ、遠方に移住させないようにする。舟や車はあっても乗らせないほうがよく、兵器はあっても用いさせないがよい。また上古のように縄を結んで約束のしるしとする習慣を復活させ、文字を不要とする。現在のままの衣食住に満足させ、従来のままの習俗を楽しむようにさせる。このようにすれば、たとえ鶏や犬の鳴き声が聞えてくるような近い所にある隣国とも、生涯にわたって往来することがなくなるであろう」

 

老荘と仏教 (講談社学術文庫)

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