第一章 名づけることと分類
なんであれ、何かを分けるためには、何かになまえをつける必要がある。(略)従って分類と、なまえあるいはコトバは不可分の関係にある。
だからまずは「なまえ」について書く。丸山圭三郎『文化のフェティシズム』によれば、世界はコトバによって切り取られてはじめて同一性を与えられ、モノとしての存在を主張し始める。ところが人はモノを絶対的とみなしこれを崇拝している、という。しかし、実は人間が崇拝しているのはモノではなくコトバのほうではないか。お札はただの紙切れだが、「価値」を代替している。だというのに人は、紙きれ自体にご執心である。
コトバは人の思考を縛る。虹の色が七色なのは日本だからである。すなわち、””名称体系は我々の思考枠をしばっているのである””。それゆえ名づけることは、初源的な分類である。生き物を生き物とするのはもちろん、それを動物と植物に分けるのも厳密な基準があるわけではない。神経がどうだの筋肉がどうだのといったものは、それらを有するがゆえに動物であるわけではなく、””動物””という名に従って調べてみたらこのような器官が見つかったという順序である。そういうものを持っているから動物だと今更に言い直したとしても、それがあるかどうか知らなくても、動物かどうかの区別はつく。私たちはいちいち人間を解体して中身がきちんとあるか確かめたりはしない。
現象はいろいろ変化するが、「池田くん」は「池田くん」のままである。すなわち同一性が認められる。だが生まれたばかりの「池田くん」と、今の「池田くん」はまったく違う。
問題はこのコトバの同一性と、一見コトバが指示しているかのようにみえる現象や概念の間の関係はどうなっているのかということになる。
「同一性」はコトバを使うほうに形成される形式あるいは構造であって、対象とは関係ないと考えられる。つまり人それぞれ形式は異なる。だというのになぜコミュニケーションが可能なのかというと、コトバの使い方が齟齬をきたさない程度に似ているからである。同一人物を同一人物たらしめるのは、コトバの使い方の同型性である。