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にんじんと学ぶ「心という場所(斎藤慶典)」🥕 第一章まで

第一章 心という場所

 本書は私たちの現実を、「存在」の充溢と過剰によって惹き起こされた亀裂のもとで何ものかが「現象」へとみずからを突破し、この「現象」のもとでみずからを表現するにいたる一連の過程として捉え直そうとする。ここで「現象」とは、「現象するもの」がそれを「見てとる者」に受け取られてはじめておのれをまっとうするものであった。そして「現象するもの」がそれを「見てとる者」に受容されたそのとき、そこに発生している事態を、本書は「享受」と呼びたいと考えているのである。

心という場所―「享受」の哲学のために

  上の引用は序章の内容をまとめ、これから「享受」に進むことを示唆している。

 まずこの章で問題にするのは、『何ものかの現象が現象として受け止められ、感受されるのは一般にどこにおいてなのか』ということである。なにかを現象させるには、知覚や想起などのはたらきが必要であるが、このはたらきのことを普通は「意識作用」「意識する」「心的活動」などといったりする。そしてこうした活動を行う具体的な場所として””心””がイメージされているわけで、私たちはこの””心””というものの正体を突き止めるのに躍起になっている。

 その候補として有力視されているのが””脳””という体の器官である。私たちが何かを見ていることは、何かから反射した光が目に入り神経を通じて脳に伝えられるなどいった説明を受ける。しかし私たちがそのとき””脳””と呼ぶものはもはや一つの臓器としての脳ではなく、””中枢神経系””であり、さらにいえば身体全体を射程に入れなければならないだろう。もっといえば身体は身体だけで機能しているわけではないため、まったく十分な説明にはなっていない。だから心=脳といった説はそれほど説得力があるわけではない。

 しかしながら、脳を破壊してしまえば心的活動ができなくなるのもまた事実である。腕を切り落としても心的活動はできるが、脳に限ってはそれができない。こうした見方が、””心””と””脳””のなんらかの関係性の説明を求めさせるのである。

  1.  私たちが””脳””と呼んでいる臓器は「心的活動」によって現象したものである。その意味で、””心””がなければ””脳””はありえない。””脳””というものは私たち特有の視点において現象する。たとえば天元突破グレンラガンのようなデカさの生物からするとホコリぐらいのもので、””脳””など現象しないだろう。
  2.  ””脳””は””心””の関与なく自動的に動く。生体としての身体を維持するための必要最低限のはたらきを勝手にしてくれる。これが途切れると人間の心的活動は止まる。つまり脳は心に影響を及ぼす。だが脳は決して心には先行しない。脳がコントロールするのはあくまで神経系を通してつながっている身体の各部位の活動である。””脳””””身体””””神経系””””身体の各部位””等々はすべて同一の次元に位置するものであるが、それらはやはり心的活動がなければ現象しない。心はこれら下位の秩序を包摂する一つの独立した秩序なのである。
  3.  脳や中枢神経系、身体のすべてをつぎ込んでも、心は埋め尽くされない(心のすべてにはならない)。心には余剰の空間がある。言い換えれば余剰の空間を支えるものが脳などの下位の秩序である。人は病気になると生体のために多くのエネルギーを割かねばならず、そのことは余剰の領域を小さくすることに繋がる。植物状態は生存のためにすべてが使われており、余剰の活動がまったく行われない。植物状態の人間には、””脳””は””脳””として現れない。

 このように見てくると、秩序には階層性のあることがわかる。まず心的秩序、そして生体の有機的秩序、それから有機的秩序のための無機的秩序である。つまり身体という有機的なものもその身体を構成している物質に応じて姿を現わす。

すなわち私たちの世界は、この現実は、心的なものが心的なものとして、動物や植物がそのようなものとして、物体や素粒子や宇宙がそのようなものとして姿を現わしている、そのような世界(現実)なのである。

心という場所―「享受」の哲学のために

 ””心””というものの正体はいまだ明らかにされていないが、以上の階層構造が見て取れる。

 

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