にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

MENU にんじんコンテンツを一望しよう!「3CS」

考えたことなど

 

 頭の整理がしたかったため。

 

考えたことなど(標語)

  •  自己は概念の運動である。自己は意識された自我であり、諸側面の束に過ぎない。
  •  自我はある傾向をもった一つの働きである。自我は動物的な快/不快の区別に始まり、成長を含む環境の変化に応じて分化する。分化はまず自我に染み込み、自我は現象から一歩身を引くことによって、言語によって意識を生じさせる。自我は「善きこと」を求める。ニーチェが「力への意志」と呼んだ傾向性はこれに近い。しかし善的なものは内在的ではなく、私たちの誰もが何が善であるか知らないことがある。私たちそれぞれは社会にそれを投げ入れることによって、それを問いかける。私たちを形作るものは内的規範であり、それを問いかけ続ける。
  •  私たちは簡単に「自我」と呼ぶが、なんら実体的なものではなく、それは常に自己を通して把握されるプロセスである。意識は自己に特権的地位を与える(「自己中心化」傾向)。それは現象というものが常にそれを見て取る者によって支えられているからで、私たちはその者を自己として見ることにおいて、自己の優越を認めるのである。しかし、私たちはあまりにそれに慣れ過ぎているがために自己に縛られ、パースペクティズムの網に囚われる。
  •  唯一の自己が虚構であるように、唯一の世界も虚構である。「本当の自分、本当の世界がどこかにあるはずだ」という極端に私たちは振れ、そこで立ち止まらんとする。
  •  ほんとうの規範、真理、美は訊いてみても誰も知らない。ただ、投げ入れればよい。「どうぞ、ご自由に」という言葉を、人は最も恐れる。
  •  社会は闘争の場であると同時に、問いかける場でもある。問いかける。私たちはそれを非常に特殊な営みだと考える。だがそうではない。生活は常に社会のなかにあり、私たちは常に問いかけ続けている。競争を通り抜けよ。だから「論破」はくだらないお遊びに過ぎない。俗物根性。知的スノッブ
  •  コミュニケーションは「目的」ではない。そのフィルターを通して、私たちは「検討」する。私たちに目的たるなにかをあえて言い立てるとすれば、『そのように生き、そのように死んで行ってもよい』とされる生活以外にはない。しかしそのように言ったところで、その内実を決めるのは、自身でしかないのだが。
  •  この点を誤解して、社会などの「大きなコミュニティ」を信奉しようとする人々を、私たちは何人も見て来た。生き方に正当化を求めるのもそのひとつである。生きること自体が無根拠なのに、正当化などない。生き方に自信が必要だと思うのは、暗に正当化を求めているからである。私たちを納得させるのは、「これでいいのだ」以外にはない。自信は必要ない。間違っているかも、という変な心配が必要ないだけだ。自分の正しさを自分が示していかなければ一体だれが示すのか?
  •  私たちは定住生活に順応できていない。共同体、国家、社会、文化、宗教、哲学、経済、差別、戦争、芸術。文明の火たち。
  •  死は経験しないから悩む必要はない。死が怖いのじゃなく死に至る苦しみが怖い ———何を言ってるの? 問題なのは、私にいまそのように現れていることであって、上から覗いて分かった口を聞くことではない。こういう手合いは、みな口をそろえて言う。「生きているとは、死んでいないことだ。故に……」出発点はそこにはない。
  •  生きていることは無根拠である。私たちはその上に、いくつかの世界を渡り歩いて暮らす。それぞれのゲームが、物事のリアルを支える基盤になる。逆にいえば、なにがリアルかはゲームが決める―――私たちはそれを消そうとすべきではない。もちろん、消してもよいのだが。どうぞご自由に。

 反・考えたことなど

  •  生活すること自体が「世に問う」ことでもあるのなら、別に競争意識だけ持ってればいいのでは? 調整なんか勝手にやってくれるんでしょ。

→ たとえばあなたがよい作品を残そうと思うなら、作品をよりよくしようと思うなら、他人の目に触れさせその反応をみなければならない。

  •  出版したときは酷評され、死んでから評価される作品もある。本人としては「これは面白いんだ」と正当な受け取りもないまま信じ続けるか、「俺は駄目なんだ」と落胆する以外にないことになる。集団の””総意””は遅すぎるし、時代に影響されすぎていて、検討の素材としては最悪だと思うが。
  •  また、「良いかどうかは時代に影響される」ということがわかる、という結果が得られたとしても、それは本人がいくら駄目な作品を書こうが「時代が追い付いてない」と言い続けることができないか? そもそも検討などうまく働くのか? 彼が自分をごまかしているのではなく、まったくの本心から、「俺の生活はこれでよい。作品もこれでよい」と、たとえ人から見てどんな最悪な生活を送っていたとしても、そう言われたら終わりではないか。よい作品って、それでいいのか?

→ 客観的に「よい」というものはまず、ない。

  •  つまり「これでいいのだ」に達すればいいという論だが、じゃあ自分の生活に何の疑問も持たない人のほうが幸福だという話にならないか? 「バカやってればよかったなあ」という理論ではないか? 
  •  なんの倫理観もなく、人をだまし、金銭を得ればいいではないか。ドラッグをやるのもいいと思う。何も考えられなくなるのだから! 脅迫し、だまし取り、盗みを働ければいいではないか。

→ もちろんそれでよい。ただし、あなたがそんなに達者ならの話だが。あなたの話はまったく間違っていないし、そんな風にして生きられるならそれに越したことはあるまい(社会は絶対にそれを望まないが)。不法行為を犯さないのはいくつかの理由が考えられる。それは国家によって身体拘束を受けたり、時には生命を奪われたりするからでもあり、それが社会が提供する基礎の抑止力としての制度である。そしてここに制度というものの、文化というものの、ひとつの目標があらわれている。

 

→ 考える時の最も適切なやり方のひとつは、極端な例を挙げることだ。だがその理由は、極端な例が私たちに次の思考を促すからであって、それが何かを結論するからではない。私たちはそのように生きてはいない。そしてそれが「上から覗いてわかったような口をきく」という言葉の意味でもある。

 

→ あなたと話すのは論争のためでもなければ、授業をするためでもない。

 

→ 私たちはそれについて、正しいことを何一つ知らない。常にそこから始めなければならない。いつでも? 理想的には、そうだ。だが痛むことがいいことかを話しあう前に、殴られそうになったら殴り返すのが適当だ。ただし、殴り返す「権利」があるのではない。そうしたいから、そうするだけに過ぎない。

 

→ 私たちは、たとえば小学一年生だった頃の信念を、今も保っていることは少ない。それはあの頃、あまりにも多くのことを間違えていたからではなく、今のほうがより良いと判断して修正を重ねて来たからだ。環境の変化ということもある。

 

→ 人はこの修正を「間違い」と呼びたくなる。これは正当化を求める傾向とほとんど同一のものである。信じたいことをただ信じる段階を過ぎ、正当化を求める段階を経て、私たちは正当化の鎖を外し今度はそれを用いるようになる。―――これを読んで、なるほど僕は論理を武器にしている、と思うならば、まだ勘違いしているかもしれない。

 

→ 人はいつも自分にとって「善い選択」をする。それは脅迫されていた場合でも変わらない。脅迫されていた場合はこうしたほうがよい、と判断しているのだから。これはいくらでも付け足すことができる。「あのときはアレが悪かったから」とあなたが心の中で言うたびに。「アレがあるとき、あなたはそういう判断をすることが善いと思った」。どれほど動くのが面倒くさくても、そのままじっとしていたら痛い目を見るならば、どんなものぐさも飛び上がって逃げるだろう。

 

→ 生きる意味は存在しない。そして、人はいずれ死ぬ。

→ すべてはここから始まり、実は死ぬまでここで足踏みをしている。人生はテーマパークだ。ただし、外部はないし、無料パスの有効期限は不明だが。しかもこのテーマパークの運営は、自らが運営者のひとりであることを忘れて遊び呆けたり、哲学をしたりしている。

 

 

***

 

 

  •  自分のことを信じて自由にやっていけということ?

 

→ それは近似になっているが、実際のところは全然違う。しかしそれで救われるなら、別に以下のことを読む必要はないと思う。

 

 

 

→ まず信じる必要はない。信じようとするから、その根拠が欲しくなる。誰かのやることより自分のやることのほうが正しいという根拠が。

→ 信じるのではなく、ただそのように表現する。自らを「報告」する。むしろ信じてはいけない。あなたはCEOではなく、単なる報道官に過ぎない。そのことをまず強く自覚すること。報道官は外交的な文書を読み上げる、その国の顔である。政治家から上がって来る辛いとか悲しいとか、ここで泣けとか、感情を高ぶらせろとか、そういうパフォーマンスもしなければならない。可哀想に、あなたには「本音」などというものはない。

→ ほとんどのケースにおいて、あなたは自由ではない。なぜなら、ほとんどのケースにおいて、あなたは原稿を読んでいることすら忘れているから。読むべき原稿を、原稿として認識した瞬間だけが自由である。しかし、そうした場合もやはり、原稿から大きく逸脱することはないだろうが。自由は限りなく儚く、そしてそれ自体、正当化することはできない。

 

8マインドフル・ステップス

サーチ・インサイド・ユアセルフ ― 仕事と人生を飛躍させるグーグルのマインドフルネス実践法

 

人類史のなかの定住革命 (講談社学術文庫)

人類史のなかの定住革命 (講談社学術文庫)