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にんじんと読む「英語独習法(今井むつみ)」🥕 ①

 認知科学の知見を外国語学習に当てはめ、その合理的な学習法を提案し解説することが本書の目的である。英語学習に関するわかりやすい方法論は数多出ているが、しかしそもそも、ほんとうに楽に英語を習得する方法があるのだろうか。認知心理学的にいえば、「わかりやすく教えればわかる」というのは幻想である。人間の情報処理のしくみやそのゆがみを考慮しなければならない。

 人は見ているものを見ているとは限らない。無意識に情報を選び、選んだ情報だけを見ている。だから当たり前のことは受け流し、予期しないことは見逃す。たとえばバスケットボールをしている一団を映し、「白ユニフォームのパスの回数を数えて下さい」と指示すると、たとえ中央に着ぐるみのゴリラが突如現れ胸を叩いて画面端に消えたとしても、ほとんどの人はゴリラに一切気づかないのである。つまりどれほどわかりやすく説明しても、学習者の期待と一致していなければ受け流されるのだ。一生懸命集中しても、スルーしてしまう。そして仮に情報を受け取ったとしても、人間の記憶が脆弱であり、まったくつなぎ留めていられない。

 当たり前だが、人生を英語に捧げる人ばかりではない。料理教室に通う人はみなプロになろうと思っているわけではないというのに、英語を学ぶ段になると「英語ペラペラ」を目指し出す。世界旅行をしたい人と、英語のプロになりたい人とでは学び方がそもそも違うのだ。「英語ができるようになる」とはどういうことなのだろう? そのレベルを考えて見なければならない。たとえば大学で英語を教えるアメリカ人の先生は、15年も日本で暮らしていたが、それほど日本語力は高くない。読み書きはできないし、つっこんだ内容となるとよくわからない。もちろん挨拶や注文、買い物、日常生活のことは話せたが、せいぜい小学校低学年レベルだろう。だがこれはこの人の学習能力がないためではなく、それ以上の日本語が必要でなかったからに過ぎない。一方、日本の文化を学びに来ている、研究している人の日本語力は非常に高く、古典の原文さえ読みこなす人もいる。私たちが求めているのは小学生レベルだろうか、ビジネスレベルだろうか、プロレベルだろうか。そもそも今の時代、英語がプロレベルに必要だとされることはまずないし、片手間の勉強でプロになれるわけがない。そこまでの時間を使って英語など使えるようになって何の得があるのかまず考えたほうがよい。難しい話は別に翻訳ソフトでいいじゃないか?

 

 小学校低学年レベル  日常のコミュニケーション

 ビジネスレベル    英語でプレゼン・レポートが書ける

 プロレベル      研究論文が書ける

 

英語学習を始める第一歩は、自分が必要な英語はどのようなレベルなのか――つまり英語学習で達成したい目標――を考え、自分はその目標達成のためにどこまで時間と労力を使う覚悟があるかを考えることだろう。

 

本書は主に、仕事の場でアウトプットできるレベル、すなわち自分の考えを的確・効果的に表現し、相手に伝えられるレベルの英語力を目指す人に向けて書かれている

英語独習法 (岩波新書)

 

 英語を理屈として知っていることと使えることはもちろん違う。一つのものには「a」で複数形は「ケツにs」ぐらいの感覚でいるかもしれないが、I ate a chickenなどと言おうものなら、「コイツ生きた鳥をそのまま食ってんのかよ」と思われてしまう。どう違うのか日本語話者にはわかりづらいため、このアウトプットする力というのがそう簡単に身に着くものでないことがわかるだろう。話し手がどうその概念を認識しているかで、可算・不可算が決まり、しかもそれが名詞の前に出てくる。今個別事例の話をしてるのか、分けることができないものについて喋っているのかを、その名詞が出てくる前に決めているのだ。だからfurniture(家具)と言われたら数えられるから可算名詞のはずだと勘違いする。椅子やベッドは数えられるが、furnitureは家具全体のことだからそもそも個別事例の話には絶対ならない。

 しかし以上のようなことを頭に入れたとしても、すぐホームランがかっ飛ばせるようになるわけではない。英語話者は身体でこの感覚を持っているので、たとえば「本を食べる虫」の視点で書くときはbookでさえ簡単に不可算として扱ってしまう。逆に、彼らになぜそういう風に言ったのか訊いても、当たり前のことだから答えられないだろう。私たちは「ことばについてのスキーマ」=非常に複雑で豊かな知識システムを持っているが、そのほとんどは言語化できず、無意識にアクセスしている。つまり私たちは、外界で起こっていることをすべてこのスキーマを通して理解する。何に注意を向けるか向けないかも、たいていスキーマが決めているのである。つまり私たちは、その名詞が数えられるとか数えられないとか、そんなことに注意を払いはしない。もちろん「本を一冊」なんて言ったりするが、「そもそも本は数えられるのか!?」なんてことをことばの上で明示することなどないので、英語話者のように可算名詞か不可算名詞かなんてことに気を配れないのだ。ところで英語話者にとって水は数えられないのでa cup of waterとわざわざ単位をつける。私たちは「コップ一杯」と言う。

 以上のような困難がありながら、名詞にはさらに「the」とかいう定冠詞がある。これが余計に鬱陶しい。これは一つに定まる特定のものか、複数の対象があり得る中でそのうちのどれなのかというような理解が込められている。たとえば一緒のホテルに泊まったひとに「あそこのドトールさあ」みたいな話をしているときは「the Doutor」になる。まさにそこのドトールの話をしているからである。そして当然、彼らに訊いてもなんで自分がそう言ったか正確には説明できない場合が多い。スキーマは、身体に埋め込まれた意味のシステムなのだ。

 

 

英語独習法 (岩波新書)

英語独習法 (岩波新書)