にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

MENU にんじんコンテンツを一望しよう!「3CS」

自己啓発という思想

 変えられるのは自分だけだ、という。だから変わらなければならないと。

 

cir.nii.ac.jp

 アリストテレスは、幸福というものを万人のものとしては見ていなかったように思える。彼は人間というものの本質を「知性」に見た。人間の幸福とは知性をよく働かせることにある。そして、それ以外ではない。あまりにも極端な考え方に思える。知がないと幸せになれないなんてエリート主義だ。だというのに、私たちは「知」がないと駄目だと毎日躍起になっている。何かを知らなければ駄目だと思い、知らないことを恥と思う。

 アリストテレスは知っていた。よく生きるためにはある程度財産に恵まれていなければならないと。「そんな状況に陥ったのは努力しなかった自分の責任では」と平気で言える人間は、自分がいかに恵まれた環境にあるかわかっていない。不幸なことに、恵まれている人ほど恵まれていることに気付かない。英語話者が自らの持っている言語の圧倒的な優位性に無自覚なように。日本人が海外に行くのと、英語話者が海外に行くのとでは言語的なハードルはまったく異なる。努力主義の人間は『人は生まれながらにして平等』だと思っている。まさか、平等であるはずはないのに。誰の影響なのか、日本人は割合、人間は生まれたときはみんな同じスタートラインにいて、努力でその先が決まるのだと考えているところがある。お金持ちはアホで、刻苦勉励する者こそが出世するのだと思っている。苦労は買ってでもしろというわけだ。そうとはいえ、この頃、一部のお花畑はともかく、スタート地点が違うことにだれもが薄々気が付いてきている。だから「親ガチャ」などという。親が暴力を振るってくるとかヤバすぎるパターンでない限り、あまりにも品がない言葉だが、親の経済状況が学力に影響するのは周知の事実である。

carrot-lanthanum0812.hatenablog.com

 認知行動療法もたいへん人気である。

 つまり、なにか悪いことが起きたら悪い風に考えてしまう自分の思考の癖が問題なので、それを直しましょうという。たしかにそういうケースもあるだろうが、全部がぜんぶ、こっちの認知が歪んでいるわけではない。アンガーマネジメントだの、ポジティブ感情だの、やたらと冷静顔か笑顔かにしたがるか、怒ったり泣いたりすること自体はきわめて自然な反応である。それは「感情」とか「情動」とか言われる。それは出来事に対する構えである。理性は感情に付き従い、彼がいなければイカれたコンピュータのように何もすることができなくなる。私たちは日々いろいろなことを経験しながら、適切な情動能力の発揮を学んでいく。問題なのは「怒るべきときに怒り」「悲しむべきときに悲しむ」ことである。怒らないことではないし、ニコニコしていなければならないわけではない。もちろん、アンガーマネジメントなどの専門家もそれは認めることだろう。だが、本当のところ、「そういう嫌な感情はなければないほうがいい」と思っているのではないか。

 知性にもいろいろある。哲学や数学をやっている奴だけが「かしこ」なわけではない。どうも「試験に出るよ」と言われるようなものでなければ知性と認められないようなところがあるが、大工も立派な知者であると思う。もちろん微分の定義が言えるかはわからないが、それはまた知性の種類が違うのだ。世の中にはいろいろな種類の知性があり、協同して社会を組み立てている。一部だけを取り上げるのがエリート主義である。

carrot-lanthanum0812.hatenablog.com

 なんらかの意味で「スキルアップ」したほうがいいというのはたぶん正しい。

 しかしスキルアップ「しなければならない」という強迫観念にまで醸成するのが自己啓発という思想である。知性に引かれた幸福/不幸のラインを求めて、進歩せよと絶えず責め立てる。いったいいつまで頑張ればいいのか? 人生には限りがあり、与えられたものを十分に活用せよと迫る。時間術は、いかに効率的に過ごすべきかを教える。人生には限りがあるから可能な限り経済的に、合理的に、というわけだ。その競争の先に得られる幸福もある。得られない幸福もある。

 幸福という言葉は幸福というものを固定した実体だと思わせる。まったく違うものを同じ名前で呼ぶことに対する言語的な混乱は、些末なものから深刻なものまで、多くの混乱を生みだしてきた。特に数学は、この傾向が強い。はじめて虚数というものを聞いたとき、「虚な数です」と説明されて、一体何人が納得したのだろう。数学の先生は虚数の誇大広告を貼るのが好きなので、実にめんどうくさい。ただの方程式の便宜的な解のくせに、『虚』とはおおげさなことだ。それは私たちがこれまで数と呼んで来たものとはずいぶん違うものだが、同じ「数」という言葉を使う。

 幸福への道が一本なら幸福もひとつだろうと考えるのは自然である。ともかくそこには、数えられるものだという前提がある。指差し確認ができるようなものではないのに。私たちはだれしも幸せになりたいと願うが、なにになりたいと思っているのか誰もわかっていない。私たちは提示された道を、とりあえず進んできた。別に正しい道というわけではなかった。単なる時代のトレンドだった。そのトレンドは政治的にも、制度的にも、たいてい支えられている。今はみんな頑張る時代だ。「もっと」と誰もが思っている。

 YouTubeで見たある老人へのインタビューで、「若い人たちはいつも幸せでなければならないと思っている」という発言があった。「人生にはいいことも悪いこともある」そういうものなのに。がんばってもどうしようもないことは腐るほどある。私たちの幸福のありかたには、幸福でないような状態、どうしようもない状態を許容するような懐のふかさがなければ生きづらい。どうしようもないことは、どうしようもないので、努力ではどうにもならない。努力をやめてしまっていいというわけではないが、やらなければならないというほど切羽詰まったものでもない。