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にんじんと読む「唯識思想と現象学」🥕 第一部第一章第二節まで

 唯識とは、「唯だ識のみが存在する」ということである。いわば、われわれの思う外界というものはなく、唯だ「識」というはたらきのみがある。これゆえに唯識思想は観念論であるとする通念が根強くある。だがこれは誤解である。唯識思想はそもそも執着を除き、阿頼耶識(第八識・識という働きの最奥)によって執着の成立条件を解明するためのものである。識のみが存在するというのは、識のみが実在するといった観念論的主張を行なっているわけではないのだ。

  1.  形而上学的観念論 心的で非物質的な実在があらゆる存在者を作り出す
  2.  認識論的観念論 考えられ得るすべてのものの究極的根拠は認識主観である。
  3.  批判的認識論的観念論 世界が心から構成されるとは主張しないが、われわれの心的世界構成ないし世界解釈を世界そのものから区別することは不可能であり、その限りにおいて認識者が世界経験を構成していることを承認し、かつそのことを主張する。まったく他なるものは本質的に知られ得ないからである。

 観念論の三類型を上記のようにまとめてみた。

 まず唯識思想は形而上学的観念論ではない。唯識思想は世界が心から創造されるなどとは言っていない。唯識文献が語るところ、「われわれはわれわれが投影した世界解釈を世界そのものとみなしてしまっている」、「われわれは自らの心的構築物を世界であると誤って受け止めている」(唯識思想と現象学―思想構造の比較研究に向けて)。つまり、形而上学的観念論とは異なる。「識」というのは究極的実在であるどころか、それ自体が根本問題とされるところのものである。

 残る二つの立場は、一見するとまさに唯識思想の立場であるように誤認される。だが認識論的観念論はけっきょく、自らが投影した世界のなかに閉じこもってしまうがゆえに、唯識思想とは異なる。では三番目の認識論的観念論、つまり世界解釈を世界そのものから区別することは不可能だとする立場はどうか。だがこれもやはり、投影した世界に留まる点では変わらない。どうしても自らの世界解釈に執着してしまうという、『存在論的執着』を、これらの誤解は露呈させているともいえるだろう。まさに『知による世界の私有化』だ。

 もちろん唯識思想は、出発地点としては、われわれが自らの構築した存在論の中に閉じ込められているところにある。しかしそこから始まるのは、その根本原因の解明、そして治療である。それゆえに、唯識思想は存在論的主張を基本的には行わない。この存在論的沈黙は、『存在論的関心の括弧入れであり、遮断』であり、つまり、現象学的還元を意味している。

唯識派にとっては、すべてが存在論的関与を遮断された現象性に還元される

唯識思想と現象学―思想構造の比較研究に向けて

※ 私見であるが、現象学的還元と存在論的沈黙はちっとも同じではないのではないか。沈黙する点では同じかもしれないが、現象学の場合は「まず沈黙」する。これが現象学的還元である。一方、唯識思想は少なくとも「唯だ識のみ」と言ってから沈黙する、つまり、主張が先、沈黙が後なのだ。