にんじんブログ

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にんじんと読む「なぜ、私たちは恋をして生きるのか」🥕 ③

「いき」の位置

 揺れ動く関係と不安定に生成する自他の姿があらわれてくるのは、日常的な態度が破られたときである。日常的には、たとえば信頼や約束といったものは相手も自分も変わらないことを前提として成り立つ。相手が自分の力ではどうにもならない存在だということに目をつむる。だが、「非日常」は、それまで見えなかったものをあらわにする。病気にかかって、ああ死ぬかもと思った時に、そういえば自分って死んじゃうんだったなと思い出すようなものだろうか。「いき」はそうした非日常の一つである。他者からどう見られているのかを気にしながら自分を変え、互いに影響を与え合いながら、自他を作り出していく。「恋」も、またそうである。

 「恋」と「いき」は何が違うのか。媚態という二人の関わりあいは、「恋」も「いき」も共有する。それは出発点である。だが「いき」はその可能性にとどまったままで、「恋」は現実化に突き進む。だが、両方とも、現実化したいのは変わりない。「いき」の場合も、相手とどうにかなるかもしれないという可能性がなければ動かないし、どうにかなるかもしれないというのはどうにかしたいということでもある。人は可能性に留まり続けることなどできはしない。それは大抵、恋人とか夫とか妻とかになった時点で終わる。

 器用な人間は、さまざまな可能性を駆け引きし、関係が動き続けるなかで生きることができる。色々なところへ球を打ち、相手からの球を受け止め、打ち返す。それのできない不器用者を「野暮」という。この際、やり玉にあげられるのが、””うぶな恋””である。初恋とか純愛とかは美しいものとみなされるが、それは相手の扱いもわからず自己中心的なものになりがちで、あるいは振り回されっぱなしで、まさに野暮の典型である。そして””真剣な恋””というのもまた、野暮である。彼らは性急に相手を手に入れようとするからである。

「いき」は安価なる現実の提立を無視し、実生活に大胆なる括弧を施し、超然として中和の空気を吸いながら、無目的なまた無関心な自律的遊戯をしている。……恋の真剣と盲執とは、その現実性とその非可能性によって「いき」の存在に悖る。「いき」は恋の束縛に超越した自由なる浮気心でなければならぬ。

 「いき」は相手を縛らず、自分も縛られない。不安定を不安定なままにして生きる。

 「いき」ははじまりを「恋」と共有するがゆえに、たやすく「恋」へと流れる。吉原の遊女たちでさえ、心中を図るほどの真剣な想いに囚われた。ここで重要になってくるのが「意気地」「諦め」という二つのストッパーである。「いき」の特徴としてこの二つがあることによって、「いき」は「恋」にならずに済んでいるのである。「いき」は他人のことをどうにもならないと諦めながらも、諦められず、媚態を働かせる。