にんじんブログ

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にんじんと読む「幸福は絶望のうえに」

 哲学とは、言論を用いた一つの実践であって、その対象は人生であり、その手だては理性であり、その目標は幸福である。規範とすべきは「真理」であり、この真理をもとにして(それがどれほど悲しいものだったとしても)私たちは幸福を探す努力を続ける。だから誰かが哲学者であるというのは、幸福と真理を並べられたときに、真理を手に取ってそのうえで幸福を掴もうとするからなのだ。目の前の薬物を手にすることが圧倒的な幸福感を与えるのだとしても、それをとることが正しくないのであればたとえ目標が幸福であるとしても、哲学者は決してそれを手に取らないのである。

 

『偽りの喜びよりは悲しい真理のほうがはるかにましなのです』

 

 私たちはどうして幸福論に関心があるのか。それは幸福ではないからだ。

 ストア主義者たちは賢者はいつでも幸福なのだと主張していた。家が燃えようがなにしようが彼らは叡智によってそれを受け止めることができる、と。しかし一方でこうも主張していた。そんなやつがいたためしはない。こんな超人的なやつはどこにもおらず、到達不可能なのだ。

 

 次にこういう物語について考えてみよう。:

 私たちは幸福ではない。だから幸福への欲望を抱いている。いつも抱いている。そしてこのゆえにこそ、私たちは決して幸福になることができない。なぜなら欲望とは欠如したものに対するものであり、なにか満たされると消えてしまう。しかしいつも幸福が望まれているので、決して満足しない(もう手に入っているものは望まれない)。たとえば仕事の後、あれだけ欲しかったビール。目の前にある。一瞬だけの満足のあと、あなたはもう幸福を求めており、もうビールではあなたを満足させられない。私たちはこの地獄の中にいる。

 

 このストーリーに欠陥があるのは、「欲望は自分に欠けているものにしか感じない」とする前提である。散歩しようと欲望するとき、私たちに一体何が欠けているというのだろう。なにか話そうと思う時、いったい何が欠けているというのか。しかしたしかに、私たちは自分にないものに欲望を感じることがある。私たちは「欲望」と「願望」を区別する必要に迫られている。

 この記事を読むことを願望することはできない。なぜならもうあなたは読んでいるからだ。しかし読むことを欲することはできる。欲しているからいま読んでいる。つまり幸福を欲するというのは欠けたものを求めるということではなく、いまやっていること・あるものを享受することである。

 

 あらゆる願望は欲望である。どのような種類の欲望なのか、ここで三つの特徴を挙げ、定義しておこう。

  1.  願望とは、自分がもっていないものに、あるいは存在していないものに向けられた欲望であり、言い換えれば目標を欠いている欲望である。つまり、願望するとは、享受することなしに欲することである。
  2.  願望とは、おのれが現に満たされているのか、あるいは満たされることになるのかどうかも分からないでいる欲望のことである。たとえば遠くで療養し手術の日程を終えた友人に向けて「手術がうまくいったことを願っています」という場合がそれである。つまり、願望するとは、無知のままに欲望することである。もし手術がうまくいったことが既に知っているのなら、うまくいったことを願いはしない。
  3.  願望とは、それを満たすことが私たちに左右できないような欲望である。つまり、願望するとは、無力なままに欲望することである。私たちが願望するのは、自分になしえないこと、自分たちに左右できないことだけである。この記事を読むことをやめることを願望することはできない。縛り付けられて脅されているのでもない限り。

 以上より、願望とは、享受も、知も、力もないままに欲望することである*1スピノザは言った。「われわれが理性の導きにしたがって生きようと努めれば努めるほど、願望に依存する度合いが少なくなるように努力していくことになる」

 だからもし願望の罠にはまりたくないなら、願望しないこと=絶望することが必要だ。

 

 ※ 罠にハマりたくないなら願望はやめて、享受し認識し行動しようというのはわかったが、別にそれでイコール幸福だというわけではまったくない。要するに「幸福を欲望する」スタート地点に立っただけである。しかし、まずは行動、ともとれるこの方針は充分に役立つ。

 ※ 自分が持っていないものに向けられる欲望をなくすと、食欲すらなくすことになるので生物である限りは絶対実現不可能である。

 

 

*1:「享受もないままに、または、知もないままに、または、力もないままに」。つまりこの反対は、享受かつ知かつ力