にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

MENU にんじんコンテンツを一望しよう!「3CS」

にんじんと読む「文学とは何か(T.イーグルトン)」

文学とはなんたるか

 れは虚構か。いや虚構とするとどれほど多くの文字表現が見逃されることか。

 の問いに関してロシア・フォルマリストはこう言った。文学とは形式だ。文学はある特殊な言語の使い方を陳列する。「汝、いまだ犯されざる静寂の処女よ」。日常的な言語の用法を飛び出る。内容など単なるきっかけに過ぎない。オーウェルの『動物農場』はスターリン時代のアレゴリーではなく、スターリン時代は単に特殊な用法を使うための便宜をはかったのだ。普段呼吸を意識しない人も、濃度を変えてやればびっくりして、空気の存在をありありと感じるだろう。文学はそれを狙ったものだ。

 だが一体なにが日常的な用法なのか。日常から特殊への逸脱はまず規範となる日常がはっきりしてこそ機能する。すると文学性とは差異性のことであり、固定された実体ではない。つまり相対的なもので、究極的にはそれが文学かどうかはコンテクストによる。「こいつの字はひでえなぐり書きだ!」という言葉は、一見して文学には見えないが、クヌート・ハムスン『飢え』に出てくる。だが日常的な言葉だ。でも文学と呼ばれうる——フォルマリストの言い分に従わなければならないなら、世の中の文学はぜんぶ詩である。

 らば、文学とは非=実用的な言説ではないか。文学は教科書ではなく、八百屋で店主に見せる買い物メモでもない。そんなものよりももっと重要な、一般的な事柄について語っている。現実にどういう女がいるかというより、女一般について語るのが文学だ―――いやいや、この考え方も大いに問題がある。どんな文でも、「非=実用的に」読めないことはない。

 たちは文学の秘密を解き明かすに至っていない。