にんじんブログ

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おどろきではかろう(日記)

2023.1.8記

 にんじんたちはなにかを説明しようとする。「あれ、この人はどうして」となり「こういうことなのだろう」と説明する。行為の理由を知りたがる。これは別に人間が知を愛すとかそういうのではなく、単に、生き残るのに必要だからにすぎない。実際、ある程度付き合わなければならない人に対して、この種の説明は頻繁に起こるのだ。

 ところがこの説明欲が過剰に出ると、生きづらい。たとえば「嫌われているんだ」などと思うとたいへん生きづらい。どうもこの種の説明は自責的なものになるか、真理的なものになる。つまり「自分が〇〇だからこの人はこうしたんだ」と「これはこういうものだ」である。人間関係、下から見るか、上から見るか……。まあ上から見ても結局は「あきらめることが肝心だ」となって、結局自罰的になるので救いようがない。説明を「このカス野郎」で済ますと他責的傾向といわれ、病的だと診断されてしまう。相手は変わらない、自分が変わろうというスローガンはもっともだが、まあ、別に、いつも変わらなければならないわけではない。そんなこと考えてたら毎日試験されてるみたいになるぞ。

 

 人間関係にせよなんにせよ説明を求めるということは、当然理由がわからないからだ。理由がわからないことが起きたのだ。すると自分としては「驚いている」ことになる。

 そこで説明するよりも先に、まず「驚いたか?」と自問しはじめて気づいた。世の中には案外驚きが多い。コンビニの前に全身真緑色の服を着た男がいたのでにんじんはたいそう驚いた。にんじんは驚いたと認識した。おぉ、いま驚いてるな、と噛みしめながらコンビニに入った。するとすぐに、レジに大行列ができていることに気付いた。このコンビニであんな行列ができているのははじめてだ……。にんじんは驚いた。驚いたことをかみしめた。しかし別に説明はしなかった。

 説明をやめて「ああ驚いた驚いた」と終わってみると、気持ちが軽い。職場でだれかが怒っていても「おお、珍しいな」と思う。「今の驚きはけっこうポイント高いな」

 出かける前には必ず思う。ああ、今日も絶対驚かされる。そこでなんとなく予想してみたりする。横断歩道を渡りそうで渡らないやつがいたりとか。電車が遅延してるかも。突然雨が降ってきたり? 「おつかれさまです」って入っていったら何人がこっちを見るだろうか、あの人はなにも返事をしないだろう、あの人はするだろう――――そしてたいてい、予想外のことが起きる。

 

 いいとか悪いとかより前に、「驚いた?」と自問自答してみると、けっこう楽しい。

 

 

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